二章 天界と下界/一 恐怖心と不安【1】

 翌朝、凜花は朝早くに聖とともに下界へと戻った。

 仕事のことがどうしても気になり、凜花が昨日のうちに『せめてきちんと退職することを伝えたい』と懇願したからである。



「すまないな。俺がついていってやりたいんだが、今日はどうしても外せない仕事があるんだ」


「いえ、大丈夫です」


「だが、玄信と桜火がついているから大丈夫だ。玄信は下界で生活していたこともあるし、遠慮せずに頼るといい」


「はい。ありがとうございます」



 下界で生活していた、とはどういうことだろう。

 知りたいことや疑問はたくさんあるけれど、今は訊ける雰囲気ではない。



「玄信、桜火、くれぐれも凜花を頼む」


「御意」



 聖とは池のところで別れ、彼に頭を下げた玄信と桜火とともに静岡へと向かった。



 京都駅から静岡駅までは、一時間半はかかる。

 新幹線の始発には間に合わなかったため、静岡駅から直接会社に向かったとしても、着く頃には始業時間は過ぎているだろう。

 気がかりではあるが、スマホを失くした今は連絡もできない。現時点では大人しく座っているしかなかった。



「姫様、あちらに着いたらまずは仕事を辞めていただきます。その後、姫様の家に行き、荷物を纏めて天界へ戻っていただきます」


「あ、はい。あの……姫様はちょっと……」



 窓際に座る凜花は、桜火を挿んで通路側の席にいる玄信に小声で訴える。



「では、こちらでは凜花様とお呼びさせていただきます」



 玄信の口調はどこか厳しい。怒っているわけではないようだが、あまり異論を唱えさせてくれなさそうな雰囲気が漂っている。

 その分、隣にいる桜火の優しげな微笑に救われた。



「凜花様。今朝はお早かったのでお疲れでしょう? お眠りになってくださいね。着いたら起こしますから」



 桜火の言う通り、正直まだ眠気はある。

 けれど、これから会社に退職を告げに行くと思うと、緊張で眠れそうになかった。



 凜花は、仕事を辞めることを心から納得しているわけではない。

 身寄りのない凜花には、これまで頼れるのは自分自身しかいなかった。

 そんな風に生きてきた凜花にとって、仕事は自分の生活を保障してくれる唯一のものだ。それを自ら手放すなど、自殺行為に等しくも思える。



 それでも仕事を辞める決心がついたのは、聖が凜花を求めてくれたから。

 凜花はずっと、誰からも必要とされていないと思っていた。

 学校では親しい友人ができず、会社ではあの状態だ。

 当然、居場所などどこにもなかった。



 そんな凜花を、彼は求めてくれた。

 懇願するように、心から必要とするように。

 凜花が聖の恋人だった凜の生まれ変わりだから……という理由だったとしても、幼い頃に亡くした両親以外に初めて自分を必要としてくれる人が現れたのだ。

 不安は強かったが、どうしても彼の願いを無下にすることはできなかった。



 この先どうなるかわからないが、これまでよりも多少苦しくなっても選り好みさえしなければ仕事はどうにか見つけられるだろう。

 しかし、凜花を必要としてくれる人は、もう二度と現れないかもしれない。

 広い世界のどこかにはそんな人がいるのかもしれないが、狭い世界で生きてきた凜花にはそうは思えなかった。

 夢物語のような今の出来事が、そう何度も起こるとは考えにくい。

 それならば、あんなにも自分を必要としてくれている聖の傍にいてもいいのかもしれない……と思い至ったのだ。



(それに……聖さんはすごくつらそうだった。あんな風に泣きそうな顔をされたら、嫌なんて言えないよ……)



 同情かもしれない。

 これまであまり環境に恵まれてこなかった凜花には、他人に同情するという感覚がよくわからなかったけれど……。なんとなくではあるが、今は〝同情〟とはこんな気持ちなのだろうか……と感じていた。




 会社に着くと、真っ先に所長のもとへ行った。

 凜花の遅刻を咎めるどころか、凜花のことを気にかける者はひとりもおらず、同僚たちは凜花を遠巻きに見ている。

 それも、凜花自身への興味ではなく、同行している玄信と桜火への視線だった。



「退職?」



 到着早々、遅刻の件を謝罪した凜花は、二言目に退職したいことを申し出た。

 いつもは凜花に冷たい所長も、今は玄信と桜火が傍にいるからか、様子を窺っているようだった。

 警戒しているようにも見えるが、無理もない。

 玄信は、最初に『我々は彼女の後見人です』と口にしただけだったのだから。



「はい……。先日の一件で、こちらではもう働けないと思いました」



 それが最たる理由ではないが、決して嘘ではない。

 聖と出会わなければ、凜花は京都で人生の幕を下ろしていたかもしれない。

 山で遭難するところだったが、渡月橋を渡ったときには『ここから身投げするのもいいかもしれない……』と一瞬脳裏に過ったくらいである。

 正直、あの段階では会社に戻ってくる気などなかった。



「あのね……いきなり言われても困るよ。うちは今、人手不足なんだ。君だって社会人なんだから、急に仕事を辞められないことくらいわかるだろ? まったく……これだから親がいない子は困るんだ」



 所長の言葉に胸が痛むが、凜花は唇を噛みしめてこらえる。



「それはわかっています。ですが、スタッフたちの私への態度はお気づきだったはずです。あの日、私は大谷さんに大切な写真をグチャグチャにされました。お弁当にコーヒーをかけられたことも、制服のことも……本当はわかっていましたよね?」


「い、いや……。それは俺が口を挟む問題ではないというか……社員同士のいざこざは自分たちで解決してくれないと……。もう社会人なんだから」


「ちょっと、聞き捨てならないんだけど」



 決まりが悪そうな所長を前に、幻滅する気にもならない。

 そこへ不満顔の茗子がやってきた。



「写真はわざとじゃないし、お弁当にコーヒーが零れたのだって手が滑っただけじゃない。被害者ぶるのはやめてくれない? っていうか、このふたりは誰よ?」



 茗子はどうやら話を聞いていたようで、玄信と桜火を一瞥してから凜花を睨んだ。



「あんたさ、なに私はかわいそうですって顔してるわけ? 仲良くしてやった恩を忘れて、退職を私のせいにしないでよ! 気分が悪いっつーの!」


「仲良くしてやったって……」


「そうでしょ? 身寄りのないあんたに仕事を教えて、プライベートでも仲良くしてあげたじゃない。それなのに、人の彼氏を寝取るような女なのよね」


「そんなことしてない……!」


「あんたたちも付き添いかなにか知らないけど、この子に騙されない方がいいわよ」



 茗子は、凜花の声を無視して玄信たちを見る。



「この子はね、私はかわいそうですって顔するのが得意なの。親がいないのはともかく、友達だってひとりもいないのよ? そのくせ、優しくしてやった恩を忘れて、人の彼氏に手を出すの。周囲から疎まれる本人に理由があると思わない?」



 確かに、凜花自身にもそういったところはあるのかもしれない。

 世の中には自分よりももっとつらい思いをしている人がいると頭ではわかっているが、心のどこかではいつも『どうして私ばかり……』と思っていた。

 ただ、たとえそういう部分があったとしても、凜花は悪いことはしていない。



 茗子の元カレは、勝手に凜花に好意を抱いていただけ。凜花自身がアプローチしたわけでも、彼となにかあったわけでもない。

 制服を汚されたり、お弁当を生ゴミのようにされたり、果ては大切な写真をボロボロにされたり……。彼女が凜花に恨みを持っていたとしても、そんなことをされるような理由はないはずなのだ。



「だいたい、あんたみたいな奴、誰からも必要とされないわよ? 生きてる価値もないくせに――ぐぅっ!」



 捲し立てるように話していた茗子の首に、骨ばった手が伸びた。



「言いたいことはまだあるか?」



 唸るような玄信の低い声が、室内に響き渡る。



「ちょっ……! あなた、なにやってるんですか!?」



 所長はギョッとした顔で立ち上がり、慌てて玄信のもとに駆け寄って手を掴んだが、玄信の右手はびくともしないようだった。



「凜花様への侮辱は我が主への侮辱と同様の意味を持つ。お前の言葉は我が主への侮辱同然。貴様の命をもって詫びろ」


「うぅっ……!」


「やっ、やめてくれ!」



 苦しそうに顔を歪める茗子と血相を変えた所長に反し、玄信は静かな怒りを滲ませており、桜火は顔色ひとつ変えていない。

 玄信と桜火にとって、さも当然というような態度に見えた。



「ま、待ってください!」



 突然のことに呆然と立ち尽くしていた凜花が、我に返ったように玄信の腕を掴む。



「やめてください! りゅ……あなたたちの世界ではこれが普通なのかもしれませんが、ここはあなたたちがいる場所とは違うんです……!」



 必死に懇願する凜花に、玄信は程なくして茗子から手を離す。

 彼女は思い切り咳き込み、涙目でこちらを見ていた。

 玄信は、彼女を一瞥すると、所長に目を向けた。



「お前からはこの女の匂いがするな。他にも女の匂いがするが、そっちは妻だろう? 伴侶がありながら、この女とも関係を持つとは……」


「は……?」


「今すぐ凜花様の言う通りにしろ。二度目の忠告はない」


「は、はい……!」



 所長は悲鳴を上げそうな勢いだったが、動揺しながらも納得したようだった。

 凜花は呆気に取られながらも、なんとか退職の手続きを済ませることができた。


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