一章 千年の邂逅/二 美麗な龍【2】

「――か。……凜花?」



 優しい声が凜花の鼓膜をくすぐる。

 いつのことだったか思い出せないが、この声には覚えがある気がする。

 きっと、いつも聞いていた。

 優しく乞うように名前を呼ぶ、誰かの声。



「凜花」



 ハッと凜花の瞼が開く。

 直後、凜花の視界に映ったのは美しい顔だった。



「え……?」


「よかった。気がついたか」



 低いけれど柔和な声音には、安堵が混じっていた。しかし、凜花はまだ意識がはっきりとせず、状況を把握できない。

 そんな中、男性が穏やかな表情で凜花を見つめていた。

 凜花と視線が交わった瞬間、彼の瞳が泣きそうに歪み、そのあとで弧を描いた。



「ようやく会えた、俺の唯一無二のつがい」



 ぞくりと背筋が粟立つ。

 反射的に息が止まり、凜花の全身にたちまち鳥肌が立った。

 胸の奥から熱が突き上げ、言いようのない感情が押し寄せてくる。



 理由なんてわからない。この感覚をどう例えればいいのかもわからない。

 それなのに、心は痛いくらいに震え、大きな瞳からは涙が零れた。

 自分の中にある本能や魂が、この人に会えて嬉しい……と叫んでいるようだった。



 男性が困ったように微笑み、凜花の体をそっと抱きしめる。

 凜花にとって異性との抱擁なんて初めてだったが、最初に感じたのは温もりと懐かしさのような感覚だった。

 彼のこともこんな感覚も知らないはずなのに、知っている気がしたのだ。



「もう大丈夫だ」



 状況もかけられた言葉の意図もわからなくて、凜花はただただ戸惑う。



「これからは俺がずっと傍にいる。凜花はもうひとりじゃない」



 そんな凜花の疑問を溶かすように、優しい声が降ってくる。

 まるで、凜花が欲していたものを与えるかのように……。

 知らない男性に抱きしめられて安堵するなんておかしくなったに違いない。

 そう思うのに、凜花は身じろぎひとつできなかった。



 温もりが離れたのは、それから少し経った頃のこと。

 凜花の背中に回されていた大きな手が、傷だらけの頬を撫でた。



「迎えに来るのが遅れてすまなかった。あちらで少し諍いがあって、片付けるのに手間取っていたんだ」



 いったい、なんの話をしているのか。

 目の前にいる男性は誰なのか。

 働かない思考でも疑問は次々と浮かび、凜花は動揺を隠せなかった。



 けれど、艶麗な顔立ちから目を離すこともできない。

 切れ長の二重瞼の目、作り物のように通った鼻筋。薄い唇は弧を描き、意志の強そうな眉は凛々しい。

 身長は一八〇センチくらいはありそうで、和装の袖口から覗く骨ばった手は男性らしい。筋肉は適度についているように思えた。



 中でもひと際目を引いたのは、彼の髪。澄んだ川のようにキラキラと輝く銀髪は、まるで流れるように真っ直ぐだった。襟足が少し長く、肩に触れている。

 巷でイケメン俳優と謳われている芸能人でも敵わないのではないか……と思うほどの整った外見である。

 どこか人間離れてしていて、いっそこの世の者とは思えない気さえした。

 彼が身に纏っている和装が着物だと気づき、よりそんな感覚を強くさせる。

 深い藍色の着物には蔦のような紋様が描かれており、白亜のような羽織りに銀の髪がより映えていた。



「随分と怪我をしているな。どこかから落ちてきたのか?」



 質問には答えられない凜花に、彼は程なくして苦笑を零した。



「ああ、すまない。お前は俺を知らないんだったな」



 彼の言う〝お前は〟という言葉に、違和感を覚えたのは一瞬のこと。



「俺の名前はひじりだ」



 名乗った声の優しさに、安堵感が大きくなる。



「聖……さん?」


「聖でいい。それより、俺と一緒においで。手当てをしてあげよう」


「でも……」



 ようやく、凜花の口から戸惑いが漏れる。

 聖に対して、不思議なほど警戒心は湧かず、安心感ばかりが大きくなっている。

 とはいえ、無防備に彼についていっていいのかわからなかった。



「心配しなくても絶対に悪いようにはしない。凜花が安心して過ごせる場所を用意してある。だから、俺と一緒に行こう」



 差し伸べられた手に、まるで吸い寄せられるようだった。

 凜花は無意識に自身の右手を伸ばし、聖の手にそっと触れる。刹那、彼が柔らかい笑みを浮かべた。

 すかさず聖が凜花を抱き上げる。



「ひゃっ……!」


「不安定なら俺の首に手を回しておけばいい。まぁ、すぐに着くけどな」



 意味深に瞳を緩めた彼は、凜花を横抱きにしたまま大きな木の前に立った。



「これは、向こう側とこちら側を繋ぐご神木だ。この山の守り神でもある」



 聖は独り言のようになにかを唱えると、凜花を見つめて微笑んだ。



「少し驚くかもしれないが、心配しなくていい。すぐに着くから」


「え?」



 凜花が小首を傾げるよりも早く、彼が足から池に飛び込む。抱かれたままの凜花も、必然的に池に飛び込まされてしまった。

 驚く暇もなく反射的に瞼を閉じる。



「凜花、目を開けてごらん」



 思わず息を止めたが、三秒も経たずして聖の声が聞こえた。

 恐る恐る目を開け、そして言葉を失う。

 目の前には草木や色とりどりの花が広がり、柔らかな光に包まれていたからである。

 さらには、たくさんの人たちがかしずくように控えていた。



 つい数秒前までいた山の中からは考えられないような光景に、凜花は困惑するほかなかった。

 ここがどこなのか、たったの数秒でどうやってここにたどりついたのか。わからないことがまた増えたせいで、凜花はとうとう声も出せなかった。



「聖様! お帰りなさいませ」


「ああ。俺のつがいを連れ帰った。名は凜花だ。今日からここに住む。お前たち、しっかり世話をしてやってくれ」


「御意!」


「まぁ、本当にそっくりだわ」


「ああ、生き写しのようだ」



 その背後にいる者たちがざわめいていることに気づいたが、振り向いた男性が「お前たち」と唸るように言えば、みんなの顔色がサッと変わって静かになった。



「凜花、こいつは玄信げんしんだ。俺が傍にいられないときは玄信を頼れ」


「凜花様、どうぞなんなりとお申し付けください」



 玄信は、四十代後半くらいだろうか。白髪交じりの髪に目が留まり、次いで視線が絡んだときにはギョッとした。

 彼の目元に、刺されたような大きな傷があったのだ。どうやら古い傷のようだが、眦から頬に繋がる傷は初見では驚くのも無理はないほどに目立つ。



「心配するな。見かけは怖いが、玄信は信頼の置けるいい奴だ。身の回りの世話人には女の臣下をつけるが、それはまたあとでいいか」



 聖はひとりで決めてしまうと、そのまま大きな建物の方へと足を運んだ。

 朱色の屋根の下に広がっているのは、日本家屋のような造りの屋敷。ほんのりと霧に包まれているが、その広さは一目見ただけでも桁違いだった。



「ここって……」


「俺の家だ。凜花は自分の家だと思って寛いでくれ。必要なものがあれば、なんでも用意しよう。だが、まずは傷の手当だな。足も痛むだろう」



 擦り傷はともかく、足のことは聖に話していない。にもかかわらず、彼はすべてを知っているようだった。



 聖は、凜花を抱きかかえたまま、どこまで続くのかわからないほど長い廊下を進んでいく。

 家の中にいる者たちも物珍しそうに凜花を見ていたが、みんな一様に聖に頭を下げている。それだけで、ここでは彼が一番偉い人物なのだと悟った。



 まるで映画の撮影で使われそうな大きな屋敷の中の一室は、これまた広かった。

 凜花の部屋どころか、その何倍も大きい。その一角で凜花を下ろすと、聖は自身の髪を一本抜いて凜花の右の足首の上に置いた。

 そこに手を翳し、息を吹きかける。

 すると、彼の指の隙間から柔らかな光が漏れ、ズキズキとしていた足の痛みがみるみるうちに引いていった。



「嘘……」


「あとはすぐに治せそうだな」



 目を真ん丸にする凜花に、聖は瞳をたわませて腕や顔にも手を翳していく。

 じんわりとした温もりを感じたかと思うと、彼の手がたどっていくのに合わせて傷が消えた。



「あなた……何者ですか?」



 凜花の驚愕に満ちた声が落ちると、聖がふっと唇の端を吊り上げる。



「これは龍の力だ」


「りゅう……?」



 お金持ちの男性にからかわれているのか。

 そんなことを考えたが、現に凜花の怪我は治癒した。

 目に見える範囲だけでも何事もなかったかのように綺麗になっていて、からかっているだけだとは思えない。

 一方で、龍の力というのも信じられなかった。



「……そうか。すべて忘れているんだったな。仕方がない、そこから見ていろ」



 聖は眉を下げると、独り言のように言い置いて縁側から庭へ出た。

 次の瞬間、突風が巻き起こり、彼の姿がまばゆいほどの光に包まれる。そして、光が弱まると、凜花は目の前の光景に絶句した。



 銀の鱗と同色のたてがみ、目は鋭く光り、口からは牙のごとく鋭い歯が覗く。

 四本の手足は体に対して短くも見えるが、凜花のものよりはずっと長い。それぞれの指についている五本の爪は、一振りで木をなぎ倒せそうなほど逞しく鋭利だった。

 トカゲにも似ているが、それらやヘビよりもずっと大きく、そしてまったく違うものだというのもわかる。

 なんせ、体調が三〇メートルはありそうだったからである。



「ッ……龍……?」



 呆然とする凜花だったが、不思議と恐怖心は湧いてこない。

生まれて初めて見る生き物なのに、やっぱり懐かしいような感覚が芽生えてくる。



「ああ、俺は龍。……この地を守る龍神だ」



 聖は静かに告げたのかもしれないが、その声は唸るようだった。グルルッ……とうめくようにも聞こえた。

 凜花はまるで夢の中にいるような感覚だった。

 むしろ、これが現実だとどうして信じられるのか。

 そんな思いを抱えて目を離せずにいたが、程なくして彼は龍から人の姿に戻った。



 優しい笑みを向けられて、凜花の心が戦慄く。

 凜花の意思なんて関係なく、聖から目が離せなかった。



「ずっとここにいればいい。俺が守るから」



 彼の声がどこか遠くで聞こえた気がした。


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