第3章 第1話

「私が出会ったのは灰色の猫でした。瞳が青みがかっていて、可愛らしい子でした」


 猫の毛におおわれた背中を見せながら、生水きみずさんが淡々と語る。肩のあたりは生水さん自身の肌で、艶やかに天井の光を反射している。


 袴で隠れた腰で何か動く気配があって、ああ、と思い出したように生水さんが手で探るようなしぐさを見せると、そこからさらに尻尾があわられた。まきが驚いてテーブルの上のペットボトルを倒す。牧にとりついた白猫の尻尾よりも長く、細く、しなやかな印象を受けた。


 これが理由。神主である立場から不可思議な現象に精通している以上に、牧の猫化のことを、より深く知っている理由。生水さん自身も、同じ祝福を受けているから。


「もうずっと昔で、私がこの職につく以前のことです。お堀に落ちかけていたのを助けようとしたとき、一緒に池に落ちました。そこから同化が始まりました」

「似てる。牧のときと……」

「いずれも危機的な状況に瀕したことが現象のきっかけとなっていますね。となるとやはり今回の祝福は、無意識的に起きた事故のようなものなのかもしれません」

「それ、戻らないんですか?」牧が訊いた。

「当時の神主の方に対処を施してもらいました。これ以上、同化が進行することはありませんが、この背中と尻尾は私の体に永久に残り続けます」


 永遠に、とつぶやいて、牧の唾を呑む音が聞こえた。

 私も続くように大きな唾を呑む。

 だめだ。もう耐えられない。


「生水さん」

「なんでしょう」

「触っていいですか」

「だめです」

「即答! なぜ!」

奈爪なつめさんの目つきと手つきに、ただならぬ嫌らしさを感じます」


 穏やかに笑ったまま、背中を隠すようにして向き直ってくる。そんな風におしとやかに隠されると余計にもっと見たくなる。触りたくなる。少しでいいから数秒でいいから。


「純粋な好奇心ですよ!」

「不純な嫌らしさですね」


 生水さんの側に立つように、うんうん、と牧が横で強くうなずく。くそう、邪魔だ。どうして牧がこんなところにいるんだ。早く帰って宿題でもしてればいいのに。牧の体にあらわれる白猫とは微妙に違う毛並み。触れる機会なんてこの先ないかもしれない。いったいどんな触り心地なのだろうか。


「見せるだけなんて生殺しもいいところですよ! いっそのこと初めから見たくなかった。こんな思いをするならあなたに出会いたくなかった……。これほどひどい意地悪をされる理由がわかりません!」

「奈爪さんが思っていたよりもだいぶヤバイひとなのはわかりました」


 笑顔を張り付けたままさりげなく一歩下がり、生水さんはそそくさと白衣を着なおしていく。その背中と尻尾にまたお目にかかれるのはいつの日になるのだろうか。これからは足しげく通って、信頼度を徐々に上げていかなければならない。次からは菓子折も持っていこう。


 私の人生において生きる目的が一つ増えたところで、本題に戻る。生水さんは牧に手を貸してくれようとしている。


「私の場合はすでに同化が進んでしまっていたので、この体を完全に戻すことはできませんでした。ですがいまの祭原さんならまだ遅くはありません」

「完全に消せるということですか?」


 牧が訊くと、生水さんがうなずく。


「病と同じで対処は早い方がいいです」

「どうやって消すんですか。まさか処方薬でも、あるんですか?」


 生水さんは上品に両手でペットボトルのお茶を持って、飲み始める。みるみるうちにペットボトルの中身が減っていき、ついには空になった。脳が追い付けない速さだった。

一息ついた生水さんが立ち上がる。


「ご案内します。ついてきてください」


  ***


 通されたのは本堂のなかだった。明かりは外から入ってくる陽光だけで少し薄暗い。畳が敷かれた部屋で、私の部屋の二倍以上はあり、少し緊張感のある広さだった。振り返ると、さっきまで立っていたお賽銭の場所が見下ろせる。


 押入れから生水さんが座布団を出してきて、広げた場所に正座するよう指示される。

 正座した位置からちょうど真っ正面に、小さな鳥居とお堂がたてられていた。明かりが奥まで入り切っていないので、詳細なつくりはよく見えない。むしろ見えてはいけないのかもしれない。その姿の全貌までは決してさらさないようにしているような、厳粛な意志を感じる。


祭原さいはらさんの言ったとおり、祝福による同化を止めるための処方薬があります。それをいまから取り出します」


 言い置いて、生水さんが私たちの数歩前で正座をする。一つ頭を下げたあと、立ち上がり、それから半歩前に移動。片手を上げて右に移動したかと思えば、流れるように左に向かう。何かの舞のようだった。古風な楽器の音楽がすぐにでも聞こえてきそうな、上品な踊り。処方薬と呼ばれるものを取り出すために必要な、儀式なのかもしれない。


 踊りは五分ほど続いた。

 やがて気配もなく、急にぴたりとそれが止んだ。


 生水さんはそこから足を速めて躊躇なくお堂に向かっていく。金属のきしむ扉が開くような音がしたあと、黒い布につつまれた小さな何かを両手に持って、生水さんがもどってきた。

 向かい合うように生水さんが正座する。


「お待たせしました。無事に取り出せました」


 足を崩していいというので、ありがたくそうした。空気の緩む気配があったので、ついでに訊いてみることにした。


「さっきのあの踊りには、どんな意味があったんですか? すごくきれいでしたけど。何か重要な所作の一つだったんですか」

「あれは特に意味はありません」

「意味はありません!?」

「ただの私の趣味です」

「じゃあいまの時間はなんだったんだ!」

「せっかくだったので最近始めた日本舞踊を見ていただきました。いかがでしたか? 私、ちゃんとできてました? けっこう緊張してしまったのですけれど」

「よく堂々と感想聞けるなこのひと!」


 つまりあれか、このひとはいまの五分間、趣味で始めた日本舞踊をずっと人に見せていたわけか。神様に近いこの神聖そうなお堂で、自分の趣味を披露していたわけか。気持ち良くオンステージだったわけか。私のことをヤバイひとだと言っていたけど、このひとだけには言う資格はないと思う。


 趣味を披露して満足した生水さんは、お堂から持ってきた小物に視線を戻し、包まれた黒い布をほどいていく。

 あらわれたのは、一本の瓶だった。なかに黒い粒がいくつも入っている。牧が受取って瓶を振ると、じゃら、となかの粒が跳ねる小気味の良い音が鳴る。いろんな角度から眺めながら、牧が尋ねる。


「これが処方薬ですか? 本当に薬みたいですね。というか正露丸みたい」

「そうです、正露丸です」

「帰ろう一歌いちか。やっと気づいたけどこれ無駄足だった」

「わー待って待って」


 呆れて立ちあがった私たちを、のんびりとした口調で引きとめてくる。それほど急いでない表情なのも少し癪に障る。立派な神主というより、ただの近所のいたずら好きなお姉さんにしかもう見えない。


「ただの正露丸ではありません。一錠ごとに、私の同化を抑えるときに利用させてもらった土地の力と、同じものが閉じ込められています。力を入れる器は経口しやすくて馴染みのあるものでれば良いのです」

「それがどうして正露丸?」

「力を移す儀式の際、緊張してて、たまたま持ってたのが正露丸でした」


 牧と目を見合わせる。ひとまず正座しなおす程度には、聞いていても良い話だと思った。次ふざけたらもう帰ろう。

 生水さんも空気を読んだのか、それともふざけられるタイミングがもうないのか、真面目なトーンに切り替えて説明してくる。


「一日に三錠、七時間から八時間置きに飲んでください。それ以上でも以下でもだめです。少なければ進行は抑えられないし、多すぎても体に無用な負荷がかかります。時間の間隔をあけ過ぎても効果がなくなります」

「……進行が止まったと思ったら?」牧が訊く。

「私のところに一度来てください。経過を見てみましょう」


 生水さんは続ける。


「その薬は体内に毒を撒いているのと同じです。人間への害は少ない毒で、猫には効果的です。定期的に体に毒を入れておく必要があります。七から八時間置きに、一日に三錠。これを必ず守ってください」


 毒。

 その表現はあまりにわかりやすく、そして私に素朴な疑問を抱かせる。

 同じタイミングで牧も、こう尋ねた。


「その毒を服用して体のなかにいる猫に対処するということですよね」

「そうです」

「じゃあ、飲み続けたら白猫はどうなるんですか?」


 お堂のなかに沈黙が落ちる。その一瞬だけ、誰かがここの会話を聞いているような錯覚を覚えた。


「ひとつの体に生き続けられるのはひとつの魂のみです」


 生水さんは淡々と答える。あえてそうしているのがわかった。そして一切の曲解を許さないわかりやすい言葉で、こう告げてきた。


「祭原さんのなかにいる白猫は死にます」

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