第17話
「それじゃあ、お元気で」
私は心にも思っていない事を口にし、馬を出発させる。二人は、特にエリーゼは最後の最後まで気持ちの悪い笑みを浮かべていた。
馬が地を駆け、風と揺れを全身に感じる。長い時間の乗馬自体はかなり久々だったから、上手に乗れるか心配だったけれど、思いのほか快適に乗れている。どこか、馬自身も気持ちよさそうだ。途中途中、何度か休憩をはさみながら、目的地の伯爵家が見えてくる。
「う、うわぁ…」
思わず、そう言葉が漏れた。まだまだ距離はあるのに、ここから見てもわかる程に屋敷はボロボロだ。次第に屋敷近辺まで見渡せる位置まで近づく。
「ふ、服までボロボロ…」
外に干されている服を見て、一段と深いため息が出そうになる。今時、貴族でない人々だってもっときちんとした服を着ていると思うんだけど…
そしていよいよ屋敷の入り口に到着する。これまで味わったことのないような、妙な緊張感を全身に感じながら、私は声を上げた。
「す、すみませーん…」
公爵の婚約者でありながら、ほかの貴族の屋敷を訪れたことなんてほとんどなかったから、なんと挨拶したらいいのかわからなかった。結局、お隣さんに挨拶するのと同じようなトーンと言葉になってしまう…
私の声が届いたのか、扉の奥から誰かがこちらに向かって走ってくる音が聞こえる。そしてその音がかなり近くで止まった時、扉が開かれた。
その姿を見た時の正直な印象は…評判通り、だった。伯爵の身なりはかなりボロボロな上、屋敷の中からは妙な匂いが鼻をさす。…あまり掃除などされていないことが、外から見てもわかるくらいだった。
「いらっしゃ…え!?馬一頭でここまで来たの!?馬車は!?」
伯爵は目を丸くして、目の前の光景に驚きを隠せない様子だ。私は簡単な挨拶を挟んだ後、ありのまま全てを伯爵に伝えた。
「そ、それはかなり疲れただろう…この後は二人で食事にでも行こうかと思っていたんだけど、それよりも今日はゆっくり休んでもらうのが先だ」
「?」
…妙に、違和感を覚えた。伯爵は身勝手で性格もかなり悪いともっぱらのうわさだっただけに、どんな無理難題を言ってくるのかと身構えていたけれど、意外な言葉が伯爵の口から出たからだ。
もしかしたら、あの噂にはなにか裏でもあるんじゃ…私はそんな事を考えながら、手招きされるままに屋敷へと足を踏み入れた。
「さあ、あがってあがって!」
お互いに簡単な挨拶を終えた後、私は伯爵に手招きされるまま、屋敷の中へと上がり込んだ。さすがは貴族家なだけあって、屋敷自体はそこそこ大きいように感じられた。ところがそれ以上に、気になるところが私にはあった。
まず何より、鼻をつくこの匂い。床のホコリの具合を観察するに、一応掃除は行われているようだけれど、かなり雑に行われているようだ。この屋敷の掃除担当の使用人は、かなり雑な人なんだろうか…?
「ソフィア?どうかした?」
妙な表情を浮かべる私の顔が気になったのか、伯爵は私に疑問を投げてくる。私は失礼に思われないよう、それとなく情報を集めることにした。
「あの、こちらのお屋敷にはどのくらいの方が住んでいらっしゃるのですか?」
私の質問に、伯爵は分かりやすく目を泳がせる。
「え、ええと…今は僕だけ…だね」
「へ?」
思わず、みっともない声を出してしまう。
「ま、まぁその…いろいろあって…ははは…」
伯爵はバツが悪そうに、苦笑いを浮かべる。その返事を聞いて、きっと私はぽかんと口を開けていたことだろう。だってそんなことがあるのだろうか?地方貴族とは言っても、貴族であることに変わりはない。人を集めることだって簡単にできるだろうし、何より家族の人は一緒じゃないんだろうか…?
「は、伯爵はお一人でこちらに…?」
伯爵はこくんと頷き、私に返事をした。にわかには信じられないけれど、それなら確かに説明がつくかも…洗濯や掃除を伯爵が一人でやっている上に、そのどちらも伯爵が苦手としているのなら、この惨状にも納得できる…
私は反射的に、伯爵に一つの提案を持ちかけてみる。
「伯爵!私実はお掃除が大好きなんです!早速やりたいです!」
決して掃除が好きなわけではないけど、公爵家でやり慣れているからもはや別に嫌いでもない。何よりも、この妙な匂いを早く取り除いてしまいたかった。
「き、君が来る前にやったばかりだけど、そう言ってくれるなら…」
やっぱり!!!!もおおおおおおお!!!!と、心の中で叫ぶ。私の予想は当たっていたようだ。キョトンとした表情を浮かべる伯爵をしり目に、私は受け取った掃除器具を手に掃除を始める。
――――
「この汚れは、乾いたぞうきんでふき取ると効果的なんですよ」
「おお!」
「こういうタイプのシミは、水でなく油で先に処理するときれいにできるんですよ」
「おお!!!」
「少し匂いがありますので、消臭剤を置きましょう」
「で、でも消臭剤はここにはなくって…」
「うーん…では、ラーフィアの薬草はありますか?」
「も、もちろん!ラーフィアはどこの家にもおいてあるからね」
「それが消臭剤の代用になります。布にしみこませて干しておきましょう」
「おお!!!!!」
――――
私の掃除の動作ひとつひとつに、伯爵は感嘆の声を上げてくれた。こんなことで喜んでもらえるなんて思ってもいなかったから、なんだか私まで嬉しくなる。
「ソフィアは博識だね!これをどこで勉強したの?」
「い、いろいろと…」
今度は私の方が、バツが悪そうに苦笑いで答える。かつてエリーゼによって自室に汚い水を日常的にまかれていたから、なんて言えるはずがない…けれどあの時の経験が、早速ここで役に立ってくれたようだった。
伯爵家はみるみるうちにピカピカになり、数時間後にはほとんどすべての汚れと匂いが取り除かれた。伯爵は相変わらず掃除は苦手なようだったけれど、懸命に一緒に掃除をしてくれた。誰かに手伝ってもらえるという経験がほとんどなかった私の心には、不思議な気持ちが湧いていた。
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