第10話



 目的地最寄りの駅に到着し、下車すると澄み切った空気に混ざるほのかな緑の匂いを感じた。

 気のせいかもしれないし、そうでないかもしれない。少なくとも、僕の隣で大きく深呼吸をする彼女には、確かに感じられたのだろう。満足げに息を吐いた顔は充実感に満ち溢れている。

 そこからさらにバスで十数分、徐々に少なくなる建物を眺めていて、ようやく本来の目的地に到着した。


「さて、目的の場所に到着したのはいいものの、こりゃ随分とハードな一日になりそうだね」


 遥か先まで続くなだらかな坂を前に、彼女は頬を掻く。

 石畳の坂道は幅広く、太陽の光が道を優しく照らして周囲の寂しげな枯草を温かな風景に変える。

 きっと、彼女の視界には緑がたくさん生えているのだろう。昔に来た時の記憶を遡ってみると、整備された山道は遅咲きのツツジがずらっと囲うようにどこまでも続いていた。彼女にはそんな景色が映っているのかもしれない。


「歩いて登らなくても、ちゃんとリフトがあるよ。ていうか、ここは登山禁止だから」


「あ、そうなんだ。危うく貧弱な身体に鞭を打つか、翔琉くんにおぶってもらうかの二択を選ばなきゃいけないところだったよ」


「毎回、貧弱な僕が貧弱な涼音をおぶる選択肢があるのが疑問だよ」


 真横にそびえる山を見上げると、つい先日行われた行事の残り香を感じた。

 おわん型の山というよりはどでかい丘のような形状をした、立派な観光名所にもなっているここは、二月の半ばに毎年山焼きという伝統行事が行われる。名の通り、山を焼くイベントで、山麓から一斉に火をつけ、標高五百八十メートルの山頂まで炎を駆け巡らせる。その様は圧巻で、山肌を黒く焦がす猛炎を初めて見た時は、足元から全身に震えが駆け上ったのを覚えている。

 元々は新芽の成長を促すためや、景観維持、害虫駆除などの目的のために行われていたらしいが、最近ではただの観光行事になっているらしい。


 焼き払われたばかりの山はまだ炭黒く、臭いまでしてきそうだ。そのため、今日は観光客なども少なく、散歩道として歩く地元の人間がまばらにいる程度だ。

 少し下の方にあるテニスコートでは、今日は高校のテニス大会が開かれているらしく、軟式のゴムボールを弾く軽快な音と、時折聞こえてくる歓声が混ざり合って、熱気が色濃く伝わってくる。


「テニスかぁ、ウチの高校も参加してるのかな?」


「してるよ。毎回、この地区予選で負けるらしいけど」


 隣でテニスのサーブの真似を不格好にする彼女を一瞥する。薄手の白いブラウスは肩から腕の半分までフリル調で、そこから覗く透明な肌が彼女の溌剌さを表している。どこか春の名残惜しさを表すような花柄のフレアスカートがひざ下でその裾を風になびかせた。歩きやすそうな薄ピンク色のスニーカーのせいか、今日は彼女と僕の視線が上下する。


「そりゃ、残念。どうせ時間も余るし、あとで応援に行く?」


「涼音はともかく、僕が行っても逆効果な気がするけど」


 彼女がリュック越しに僕の背中をバシッと叩く。


「そんなことないって。翔琉くんは自分のことを過小評価しすぎだよ。あと、クラスメイトと話さなすぎ」


 まったくもってその通りで、言い返す言葉も見つからないから、そっぽ向いて歩きだす。


「あー、こら! 逃げるなぁ!」


 山麓のだだっ広い公園には、恐竜の形を模した遊具がたくさんあって、子供連れの家族がいた。子供はマフラーを今にも落としそうなくらいはしゃいでいるが、その傍らで見守る親はポケットに手をつっこんで、身を震わせている。

 僕も無意識に手をコートのポケットにつっこんで歩いているのに今さら気が付く。上下厚手の長袖だし、マフラーは絶対に外せない。山というだけあって、海の風寒さとは違い、空気そのものが凍り付くように冷たい。

 駆け足で隣に並び立つ彼女の細い腕は、やはり粟立っていた。それなのに、彼女はむしろ暑そうなそぶりで、自分の身体的異変にまるで気づいていない。


「寒くないの?」


「えっ? まさか、今日は特に暑いよ。家の中だったら、Tシャツすら着ないかもしれないね」


 彼女の親はどう思っているのだろう。学校か休日に会う程度の僕でさえ、せめて服装はこちらの季節に合わせてもらいたいと思っている。じゃないと、いつか身体を壊してしまう。ただでさえ、彼女は寝たきりだったから体力も落ちているというのに。

 視線を下げる僕を、彼女が下から意地悪気に覗き込む。


「想像しちゃった? 翔琉くんはエッチだなぁ」


 赤の他人の僕が心配しているというのに、当の本人はこの調子なんだから、馬鹿らしくなる。もう子供じゃないんだし、体調の管理くらい自分で出来るだろう。


「帰りはお弁当丸々一個、僕が全部食べさせてあげるから覚悟してね」


 想像したのか、思いだしたのか、彼女は頬をほんのり桜色に染め、下手くそな口笛を吹く。


「ふう、ロープウェイ楽しみだなぁ」


「ロープウェイじゃなくて、リフトね。涼音はもう少し感情の隠し方を勉強するべきだね」


「うーっ……翔琉くんやっぱりドSだよ」


 この何気ないやり取りも、あと半年で出来なくなる。そう思うと、急に胸が痛くなった。行き着く先に別れがあると知っていて、笑い合えるほど僕は強くない。

 だから、彼女には申し訳ないけど、こうやって彼女と共に行動するのは、僕の未来のため。彼女から得られる何かがまだたくさんあると確信しているからであって、彼女との思い出をつくりに来ているわけじゃない。

 何気ないやり取りで、不意に忘れそうになるけれど、忘れてはいけない。ちゃんと線引きをしないと、後々辛くなるのは明白だから。


 リフト乗り場は随分と閑散としていて、従業員も退屈なのか、表情が重たそうだ。表面での笑顔に迎えられ、チケットを二枚買う。

 リフトに腰を掛けると、隣の彼女と身体が密着した。二人乗りとはいえ、ずいぶんと小さなリフトで、大人二人が乗ると隙間をつくる余裕はない。

 またからかわれると覚悟をするも、彼女は特に何を言うでもなく、僕の服の袖を軽く握りしめていた。


「……もしかして、怖かったりする?」


「そりゃ、人間は宙を浮けるように出来ていないわけだからね」


 おびえた子犬のような彼女に、従業員のお姉さんは大層にこやかな微笑みを僕に向けた。きっと、何かを勘違いしているに違いない。先ほどまでの暗い笑顔はどこへやら、まるで遊園地のアトラクションスタッフのような陽気な仕草でリフトの出発を合図する。

 一度、リフトがその場で軽く揺れ、そのまま斜め上に向けて緩やかに動きだす。


「ひぃぇえっ……! 危ない! これは非常に危ないよ翔琉くん!」


 いつの間にか両手で僕の腕を掴んで離さない彼女。耳にかかる彼女の息と、密着した肌に心臓が強く鼓動を打つ。僕と同じく異性への免疫が無さそうな彼女だが、今ばかりは恐怖心が上回っているらしい。


「あの、楽しんでいるところ申し訳ないけど、足が届きそうなくらい地面近いからね?」


 ロープウェイと違って、リフトはむき出しで手すりがあるだけの空中ブランコみたいなものだ。そんな高いところを登るわけじゃない。


「そ、そうなんだけど、いつ急にロープが切れて後ろに転がり落ちるかわからないじゃん!」


「想像力豊かだね」


「人生、何が起きるのかわからないんだから、怖いものは怖いんだよぉ」


「その理論だと、電車とかバスも駄目なんじゃない?」


「……」


 少しの沈黙の後、彼女は痛いくらいしがみついていた手をほどき、急に大人しくなった。


「ど、どうしたの?」


「いや、そういわれたら車とかの方がスピード出てて怖いなぁって。そしたら、急に怖くなくなった」


 まるで小学生と会話しているみたいだ。


「僕の中でたった今、涼音がうっとおしいから怖いに変わったよ」


「うっとおしくても、可愛いでしょ? 見てよこのプリティーフェイス」


 顔を斜めに傾けると、すぐ近くに彼女の顔があって、すぐに目をそらした。ただでさえ身体が近いのに、顔なんてまともに見れたもんじゃない。悔しい話だけど、彼女は周りの目を容易く惹かせる容姿の持ち主だ。実際、転校してきて二か月だというのに、もう何度か告白された話も本人から聞いた。


「はいはい、可愛いですよ」


「むー、テキトーだなぁ。ま、でも照れ隠しということにしておきましょう」


 リフトは約六分かけて山頂まで到着した。リフトから足を降ろし、不意に振り向くと、緩やかに見えていたリフト道が意外に急こう配で驚いた。

 周りを眺望すると、久々の景色に手が疼く。町々や林がどこまでも遠く広がっていて、奥に見える海原はここからでもわかるくらい眩い輝きを放っている。色が寂しい冬の時期にこれだけの景色なのだ。初夏の新緑にまみれた世界で見る景色は、本当に言葉に出来ないのだろう。

 現に彼女は僕と同じように辺りを見渡してから、一言も発していない。この前同様、頬に涙の筋をつくって、口元に微笑みを浮かべてその景観に見惚れている。

 彼女の邪魔はしたくなくて、僕も一言も口にしなかった。


 この山は頂上をスプーンでくりぬいたような形状で、山頂はそのくりぬかれた外円を指している。中央の噴火口跡が大きく凹んでいて、なんとも珍しい山なんだと思う。今は山焼きを行った直後なので、山全体が真っ黒に焦げた年に数日しか見ることのできない景色だ。

 これが世界で一番の景色だとは思わないけれど、この景色を彼女と共有できないのは、凄く残念だ。


「やっぱり、すごく良い景色だね」


 いつの間にか、彼女は涙を拭って満足げに頷いていた。


「涼音も来たことあるの?」


「あるような、ないような」


「いや、どっちなのさ……」


 珍しい形だと思っていたけど、似たような山は思ったよりも存在しているのだろう。正直、山は素人から見たら大まかな形状と大きさでしか判断のしようがない。


「あ、写真売ってる!」


 リフト降り場に隣接された売店の店先を彼女は指さす。モニターが何分割にもなっていて、リフト一台ずつの途中地点での写真が映しだされていた。

 僕よりも先に小走りで見に行った彼女が、何かを目にして引き返してくる。


「どうしたの?」


「いや、ちょっと写真はいいや」


「なんでさ、せっかくだから買わないにしても、見ようよ」


 彼女の引く袖を無視して、モニターに目を向ける。利用客が少ないおかげか、すぐに僕らの写真は目に止まった。それを見て、思わず小さく吹き出してしまった。雄大な景色をバックに添え、引きつった顔で僕の腕にしがみつく彼女と、何とか彼女から距離を取ろうと、最大限身体を彼女とは反対に傾ける僕。


「いいじゃん。面白いから買おうよ」


「いらないって! 私、すんごくブサイクなんだけど!? 写真撮られるのがわかってたら、もっと顔つくったのに!」


 子供のように喚く彼女を尻目に、店員に二枚写真を貰って、一枚を彼女に渡す。


「そんなことないって。涼音はこんな顔でも十分可愛いよ」


「その可愛いはなんかすごく嬉しくないんだけど! あと、こんな顔言うな!」


 態度とは裏腹に、僕が差し出した写真を素直に受け取る彼女に、もう一度思い出し笑いがこみ上げる。


「こら、レディーの顔を見て笑うのは失礼だぞ!」


「ごめん、ごめん。何か、いいなぁと思ってさ」


 うまく言葉に出来ない感情を誤魔化して、歩き出す。ふくれっ面の彼女には、あとで何か美味しい物でも奢ってあげるとしよう。

 山頂の外周は約一キロでぐるりと周回することが出来る。彼女の体調が心配で、僕から進んで提案することは無かったが、やっぱりと言うべきか、彼女は最初からやる気満々といった様子だった。


「体調、大丈夫なの?」


「もう退院してから二か月だよ? リハビリは終わってるし、そろそろ体育に出てもいいってさ」


「そうなんだ。安心したよ」


 彼女は驚いたように僕の方を見る。


「およ? やっぱり心配してくれてたんだ。翔琉くんはドSだけど、優男だねぇ」


「僕が涼音をおぶる心配をしてたんだよ」


 半分ほど外周を歩くと、遠くの方で小さく富士山が見えた。ここから見ると、まるで富士山の方が、この山よりも小さく見えて、変な感じだ。


「うひゃー、富士山ってここから見えるんだ。日本って狭いんだね」


「天気が良ければ、スカイツリーとかも見えるらしいよ」


「スカイツリー!? 東京だよ? なんだか距離感バグっちゃうよ」


 その後も他愛のない会話を繰り広げながら、ゆっくりと外周を回る。

 こんなにゆったりと過ごしていていいのか、もっと良い時間の使い方があるんじゃないか、彼女との会話の裏に、ずっとそんな考えが渦巻いていた。

 終わりが見えていると、時間の進みが何倍にも早く感じる。僕が彼女の立場だったら、こんな風に笑っていられるだろうか。


「この場所はね、私の思い出の場所なんだ」


 不意に、彼女は今までの会話に微塵も見せなかった、哀愁を含んだ呟きを零す。


「思い出って?」


「昔、絵で見たの。すっごく素敵な絵で宝物だった。お父さんが間違えてゴミと一緒に捨てちゃったんだけどね。でも、ずっと忘れられなかったから、引っ越したら一度来なきゃって思ってた」


 彼女は懐かしむような瞳で地平線を眺める。


「この景色が、絵を描いた人にはあんな風に見えてたんだね」


「その忘れられない絵って、どんな感じに描いてあったの?」


 ただの風景画に、一個人がこれほど忘れられない強烈な何かが、その絵にはあった。それは、もしかしたら僕が一番求めているものかもしれない。


「うーん、翔琉くんには内緒。画風なんて人それぞれだし、君は真面目だから、どんな絵だったか教えたら、きっと引っ張られちゃうでしょ?」


「それは……否定はできない」


 彼女は僕以上に僕のことをわかっているのかもしれない。

 目に映ったものを、ただキャンパスに模写するだけの絵が、誰かの宝物になんてなりえない。宝物とまでは言わない。ただタイムリミットが来る前に、彼女には僕の絵を見てもらいたい。彼女が気づかせてくれたこと、惰性な日々を抜け出す勇気をくれたこと、色んなことへの恩返しがしたい。

 そのために今、僕がすべきことは何なんだろうか。


「くしゅんっ」


 彼女が小さくくしゃみをする。

 心臓が一度、強く脈を打つ。彼女は何も気にしていないが、僕は焦った。おもむろにマフラーを外して、彼女に差し出す。山頂の凍てつく空気が首をなぞったが、そんなの関係なかった。


「風邪、引くから」


 彼女は首を傾げる。


「え、暑いしいいよ」


「暑いわけ、ないだろ……」


 自分でもびっくりするくらい低い声が出た。

 彼女は周りをゆっくりと見回す。僕ら以外にもぽつぽつと人はいるが、その全員が二月の厳しい寒さに耐えるべく着こんでいる。

 今日も、何度視線を感じたか数えきれない。そりゃ、そうだ。この季節に夏服の少女がいたら、変な人だなって絶対に思う。付き人にだって、同じような視線を向ける。でも、彼女はそんなこと気にしてなくて、僕だけがずっと嫌な視線を意識していて。


「涼音には六月に感じられても、今は二月なんだよ。現に、君は朝からずっと鳥肌が立ちっぱなしだ。鼻もずっと赤い。そんなんじゃ、本当に身体壊すよ?」


 ずっと、言ってもいいのかわからなかった。失季病の彼女に季節の話をすることは憚られた。きっと、彼女は気にしないんだろうけど、底知れぬ罪悪感が僕にはある。


「私の心配をしてくれているんだよね? ありがとう。やっぱり、翔琉くんは優男だね」


 彼女はばつが悪そうに困った笑みを浮かべる。


「そんなんじゃない。涼音が別の季節を歩んでいることは、よくわかったよ。でも、僕はやっぱり友達として、君が心配なんだ」


 彼女は大きく息を吸い込んで、空に吐き出す。白い水蒸気が立ち上り、消える様子を僕は目で追っていた。頬と鼻のてっぺんに赤を添えて、優美な景色を背景にする物寂し気な少女。夏では成り立たない、僕の世界でないと完成しない作品がそこにはあった。


「でもね、私は私の見る景色を、私の感じる季節を否定したくない。周りがどんなに変な目で見てきたって、関係ない。自分を捨てて周りに合わせるくらいなら、それこそ死んだ方がマシ。私は、消えるまでずっと私でいたいんだよ」


 僕は気が付くと、彼女を指のフレームに収めていた。生に満ちた彼女を、描きたくてしょうがなかった。恋なんかじゃない。でも、僕は確かに彼女に惚れていた。


「んー、でも身体を壊すのはからなぁ。そだ、温かい物食べに行こ! 夏に熱い食べ物ってのも、乙なものでしょ!」


 彼女は僕の手を取って、駆け出す。

 いつか僕も、彼女みたいになりたい。そう、思ってしまった。

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