第8話
放課後の屋上で寝転がり、空をジッと見つめる彼女。今の彼女が見ている青空と、僕が見ている青空は本当に一緒なのだろうか。
身体を震わせる彼女にコートを差し出したら、「暑いから、大丈夫」と当たり前のように拒否された。
暑いわけがない。空っ風が顔を撫でて、耳が痛いくらいだ。
「……涼音には、今何が見えているの?」
膝を抱えて空を見上げてみるけど、僕には青いパレットが広がっているだけ。
「んー? もちろん、青い空と青白い顔の翔琉くんだけど?」
彼女はゴロンと身体を僕の方へ向け、上目で答える。
「そうじゃなくて……。えっと……僕にはまだ、寒く感じるんだけど、涼音はそんなことないんだよね?」
「うん、むしろ汗が滲んじゃいそう。翔琉くんとはいえ、男の子が近くにいるわけだから、今必死に汗腺締めてる」
面白そうに顔をわざとしかめる彼女が、冗談ながらも本気で暑いと感じているのだと、僕の直感が訴えかける。
喉元まで出かけた言葉を彼女に伝えてよいのかわからず、開いた口から音が発せられることは無かった。彼女は「金魚みたい。口パクパクーって」なんて言いながら面白そうに笑っていたけど、僕はそれどころじゃなかった。
口に出せば、何かが大きく動きだしてしまいそうで、ようやく慣れてきた彼女との関係も変わってしまいそうな気がした。いや、きっと変わるんだろう。その勇気が、僕に本当にあるのかわからないから、佐渡も彼女に直接問うように促したのだ。
「それでさ、明日は土曜日だし、少し遠出しない? もちろん、日帰りで帰って来れる範囲になるけ――」
「涼音、今って何月……?」
遮った言葉は何でもない質問なのに、声が震えて上擦った。
僕と彼女の間を静寂が漂う。
まっすぐ見つめる彼女の視線から、目をそらすことが出来ない。そらしてはいけないんだ。僕は、彼女の瞳に映るものが知りたくて、踏み込んだのだから。
どこか色っぽさすら感じさせる彼女の小さな口がキュッと結んだかと思えば、ゆっくりと開いた。視線が吸い寄せられる。
「――今は、六月だよ」
景色が後ろ向きに遠ざかる。彼女の声が脳裏を数回こだまして、ようやく言葉の意味を理解した。
脳みそを直接殴られたみたいな強烈な衝撃に、息が上がる。彼女の顔にいつもの笑みは無い。そのことが、彼女の発言が嘘偽りのない真実だと強く告げていた。
心のどこかでは、想像していた。彼女が今違う季節を歩んでいるのだと、予測はついていた。でも、そんなファンタジーのような話は存在しないと思い込んでいて。だから、僕は返事を用意できずにいた。
「それは……その、妄想とかそういう……」
「違うよ。私は紛れもなく、六月を生きてる。じわっとした暑さとか、新緑の匂いを、確かに感じてる」
彼女は口元に淡く笑みを浮かべる。どこか儚げに見える彼女は前方の山を指さす。
「翔琉くんには、あの山は何色に見える?」
彼女が指さす方向は、一面の枯れ木色で埋め尽くされていた。若葉が芽吹くには、まだ少し早い。
「私にはね、綺麗な一面の葉色に見える」
そんなわけがない。何度見たって、そこの山に緑なんて存在しなく、灰色の山肌を覗かせているだけ。
桜の冬木を眺めていた彼女が、枯れた花壇を見つめて僕を待つ彼女が、フラッシュバックする。その瞳に、何が見えていたのだろう。
僕にはわからない。彼女と僕の見ている世界はあまりにも離れていて、遠すぎる。
「失亡性離季病。長いから、私は
聞いたことのない病名に、思わず「それって……」と漏らす。彼女は初夏の空気を目いっぱい吸い込んで、吐き出した。
「季節がわからなくなっちゃう病気。正確には、季節がズレちゃう病。すっごい珍しいんだってさ」
色を感じさせない彼女の声に、胸の内が静かにざわめく。彼女の奥底に眠る不安という感情が、微弱な
いつもの明るい彼女は鳴りを潜め、それが僕を余計に苦しめる。
「……それだけなの?」
思わず掴んだ彼女の手はまるで氷のように冷たくて、やっぱり彼女は僕の目の前に確かにいるんだ。
初夏を生きる彼女からすれば、暑苦しいのだろうけど、僕は彼女の手に自分の熱を伝えるのに必死だった。
困ったように笑みを浮かべる彼女は、僕から目をそらす。そして、まっすぐに大空を見上げて――
「あと、六か月」
「えっ?」
息が詰まって、視界が狭まる。
「私のタイムリミットだよ。十二月に私は消えるの、この世界から」
焦り、困惑、戸惑い、憐み……たくさんの感情が水泡のように浮かんでは、破裂して消え去る。
言葉は出なかった。受け入れがたい事実に、返事をしてしまえば最後だと思ったから。
「入道雲、今年初めて見たよ。綺麗だね」
僕の見上げた空には天高く昇る白雲なんてなくて、どんよりとした灰色の雲がいつの間にか一面に広がっていた。
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