1章

第1話

 代わり映えのしない高校二年の十二月の出来事。彼女は烏の濡羽色みたいな長い髪をなびかせ、何食わぬ顔で担任の後に続いて教室に入って来た。

 喧騒けんそうに包まれていた室内が、一瞬にして静寂に包まれる。

 彼女はガラス玉を想起させる丸っこい透き通った瞳で教室を端から端まで一望して、静黙せいもくを余儀なくされた僕たちに向けて勢いよく口を開いた。

 僕は彼女の自己紹介を話半分でしか聞けず――正確には、しっかりと聞くつもりだったのに耳に入る情報がそのまま半分ほど滞留することなく通り抜けていった。というのも、そもそも彼女が教室に来たのは朝のホームルームなんかではなく、もうすぐ太陽が真上に昇りそうな三限の終わり際。そして開口一番、彼女は自身の名前を述べるよりも前に「桜が綺麗で、見ていたら遅刻しました」なんて訳のわからないことを口にしたから。


「ということで、今日から転校してきた雨笠あまがさだ。まあ、色んな事情はあるが、みんなほどほどに仲良くするように」


「先生! 雨笠涼音すずねです! ちゃんと名前まで言ってください!」


 すかさず名前の補足を入れる彼女に、気怠そうな担任の背がさらに丸くなる。

 まだ彼女が姿を見せてからほんの数分だというのに、なんだか余計やかましくなりそうだな。そんな容易に想像が付く思いに馳せていると、担任が僕の名前を口に出す。


「あー、それじゃ鳥野ちょうの、放課後少しだけ職員室に顔を出してくれ」


 調子のいい人間なら、ここで彼女と同じようにちゃんと名前まで言ってくださいとか言って、クラスの少しの人間を笑わせるんだろう。でも、僕にはそんなことが出来るわけもなく。


「はい」


 結局、いつも通り発した小さい呟きのような返事は、笛のような甲高い隙間風にかき消される。それでも、みんなの視線が僕に向いていたのか、眼前の彼女も僕に目を向け、不覚にも目を合わせてしまった。

 ニコッと眩しい笑顔をつくる彼女に、僕は軽く会釈をすることしかできなかった。



 初手の印象があまりにも謎過ぎた彼女が、すでに関係が構築されたクラスに馴染むまでには時間がかかると思ったが、結局、彼女は放課後までには持ち前の明るさを全開にして、すんなりとクラスに溶け込んでいた。

 多くの人に囲まれて質問攻めにあっている彼女を尻目に教室を出て、職員室に向かう。担任の佐渡さわたり先生は疲れを全面に見せて、椅子からずり落ちそうになっているところだった。ぼさぼさの髪に、剃り残しの目立つ髭、目元の隈はいつ見ても色濃く存在を主張している。


「おー、来たか」


 四十過ぎのおじさんに相応しくよっこらしょなんて言葉と共に座りなおした佐渡は、不意に僕の後ろに視線を向けた。


「なんだ、雨笠も一緒に来たのか。ちょうどいい」


 〝雨笠〟と〝ちょうどいい〟という二つの単語に、厄介な用事だなと瞬時に確信した。

 僕の肩をトンっと白磁の細い手が触れる。次いで斜め下から覗き込むように彼女が僕の隣に立つ。

 色白な肌は彼女の明るい性格には似つかわしくないなと、悪気もなく素直に感じた。


「やあ。ずっと後ろつけていたのに気づかないから」


 彼女の言葉に反応するわけでもなく、正面に視線を戻す。


「何の用ですか? 先生」


 佐渡は缶コーヒーを苦そうに一口飲み、手元のプリントを雑に机に放り投げる。


「まあ、簡単に言うとだな、学級委員の鳥野には雨笠の面倒を見てやってほしい。それだけだ」


「それだけって……」


「雨笠は転校してきたばっかりだし、つい最近まで長いこと入院していてな、勉強なんかも随分と遅れている。ほら、お前は成績も良いから、頼むよ」


 佐渡の用事というのは、僕が想像していたよりもはるかに面倒な内容だった。正直に言えば絶対にやりたくない。何かと人目をきそうな彼女は、どうせ更なる面倒ごとを持ち込むに決まっている。


「わかりました。出来る範囲で善処します」


 僕の思いとは裏腹に、口を衝いて出る言葉はいかにも優等生な発言でうんざりした。でも、先生の頼みだし、仕方ない。いつも通り、抵抗の言葉を飲み込んだ。


「鳥野みたいな生徒がいると、本当に助かるよ。それじゃ、よろしく」


 話は終わりだと告げるように、佐渡は姿勢を崩す。

 隣を一瞥いちべつすると、彼女もこちらを見ていたようで視線が交わる。彼女は面倒ごとを押し付けられた僕に申し訳なさなんて一切見せずに、嫣然えんぜんとした笑みを浮かべた。


「よろしくね、鳥野……何くん?」


翔琉かける


「へー、なんて書くの?」


 職員室だというのに大きな声で話す彼女に、僕は周囲からの視線が気になって仕方なかった。


「ほらほら、続きは外でやりなさい」


 佐渡が都合よく助け船を出してくれた。彼の性格を鑑みるに、多分普通に邪魔だっただけだと思うけれど。


 職員室を出て、彼女に校内を案内してまわる。その際も彼女はとにかく溌剌はつらつで、一緒にいるだけでいつもの何倍も疲労を感じた。

 十六時を知らせる鐘が校内に響き渡る。


「とまあ、こんなもんだけど、他にどこか見ておきたい場所とかある?」


 自販機の前で真剣に唸る彼女に声をかける。結局、悩んだ末に二つ飲み物を買った彼女は、その片方を僕に差し出す。


「はい、お礼!」


「え、いいよ別に。先生に頼まれただけだし」


「駄目だよ。親切にされたら、親切で返さなくちゃ」


 受け取らない僕に、彼女は念を押すように差し出したペットボトルをさらに近づける。


「本当に大丈夫だってば」


「むー……。じゃあ、お近づき記念! ほいっ」


 彼女はペットボトルを僕の目の前で頭上高く持ち上げると、ぱっと手を離した。思わず、手を出して落下するそれをつかみ取る。


「えへへ、ナイスキャッチ!」


 彼女はくるっと回るように踵を返して、歩き出す。


「ちょっ、お金払うよ」


「いらなーい。それより、屋上行ってみたい!」


 まるで人の話を聞かない彼女に、僕はため息を漏らす。これからしばらく、こんな調子で振り回されるのかと思うと、もう二、三度先払いで重い息をついてもよい気がしてきた。


「屋上はこっち。そっちからは行けないよ」


 後ろ手を組んで陽気に歩く彼女が、こっぱずかしそうに振り向く。


「もー、早くに言ってよ」


「君の行動が早すぎるんだよ」


「君じゃなくて、涼音!」


 ふくれっ面を浮かべる彼女。


「……雨笠さん」


「す、ず、ね!」


「どうしてそんなに名前に固執するの?」


 僕の質問に彼女は当たり前だと言うように答える。


「私が、私だという証明だからだよ。だから、ちゃんと涼音って呼んでくれなきゃヤダ」


 その時の彼女はやけに真剣で、力強い言葉に気圧された。大きな黒い瞳に吸い込まれてしまいそうで、思わず目をそらす。


「……涼音」


「よろしい! 優等生くん!」


「おい、今の流れはそうじゃないでしょ」

 

 彼女は楽しそうに駆け出し、僕を追い抜いて階段を駆け上がる。そして、僕を見下ろす形で振り返る。


「冗談だよ、翔琉くん! ほら、早く行こ!」


 天真爛漫な彼女に置いて行かれないように、いつもより足早に階段を登った。

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