1-13 そう、リストカットだね!


「それじゃあ、まずは詠唱練習!


 Merctorは日本語的な発音だと……、ていうとそれに縛られそうだからMerctorはMerctorで覚えておきなさい。ちなみに、意味はそのまま『水』だ。


 魔法言語を英語でいうとI want waterって感じだ」


 ……つまりは『私は水が欲しい』っていう意味じゃん。そのまんまじゃん。詠唱とか言っているけれど、単純に欲しているだけじゃん。


 Enos Dies,Merctor、とかいって単純に水を求めているだけなの、なんというか裏側を見たみたいで凄く寂しい気がする。


「それじゃあ、いつも通りにやるよ


 Enos Dies, Merctor」


「Enos Dies,Merctor」


「Enos Dies, Merctor」


「Enos Dies,Merctor」


「うん。接頭語練習が活きているのか、詠唱可能な範囲だね。よかったよかった」


 先生は満足したようにしている。まあ、及第点というところなのだろうけれど、詠唱がもう大丈夫ということは……。


「そう、リストカットだね!」


 にこやかに物騒なことを言わないでください。




 ◇


「ふーん、怖いのかぁ」


 いつまでたってもナイフで自傷行為ができずにいる僕は、流石に事情というか、感情についてを先生に吐露した。


「割と痛くはないんだよ?まあ、最初は痛いかもしれないけれど、だんだんと気持ちよくなってくるくらいにはなるから、とりあえず一発やってみようよ」


「……そう言われてもなぁ」


 結局、躊躇い続けて十数分ほどは経過している気がする。流石にこのままでは埒が明かない。ここで停滞しているようじゃ、魔法使いになることなんてできやしないのだから。


 僕は、ポケットからナイフを取り出す。仕舞い込まれている刃、ただの黒色の筒の柄の元を押し込んで、黒い刃がするりと音を立てて勢いよく外に出た。


「お、いいね。ようやくその気になってくれたか」


 その気にならなければ、これ以上話が進まないのだからしょうがない。このままでは、葵とか、他の生徒が来たら、恥ずかしい部分を見せることになる。それは少し避けたいように思ったのだ。


 刃を自分の皮膚に押し当てる。刃を持つ右手が震えていて、傷つけてしまうんじゃないかと恐怖を覚える。……いや、そもそもそれ以上に傷つけなければいけないのだから、そんな恐怖感は抱くべきじゃない。


 血を出さなければいけない。そのために必要な自傷行為。これを行わなければ、どこまでいっても魔法使いという存在にはなることができず、結局僕が思うような世界を歩むことができない。価値観も変われないままだ。


 ──よし、やろう。これ以上止まっていても仕方がない。


 うん。三秒数えて、それで呼吸が整っていたら野郎。もしかしたら人が入ってきて、そこに意識がそれてしまうかもしれない。


 いや、あれかな。呪文の詠唱はなんだったっけ。あれ、忘れてしまったから、まず呪文の確認をしたほうがいいんじゃないのか。


「……まだ?」


 外野から声が聞こえてくる。うるさい。こちとらこれからの行為に対して心の準備をしているんだ。それをじゃまするのはよしてほしい。


 うん、呼吸が整って、それでいて三秒が経過して、その勢いで皮膚を切ろう。見ないようにすれば痛さとかはないかもしれないし。うん。そうだ、そうしよう。


 一、二、……鼻が痒いから一旦ストップ。


「……」


 どこか痛い目を感じずにはいられないけれど、そんなのは無視だ。うん、鼻が痒いのは収まったから、今度こそ……。


 一、二──


「ああ、もう面倒だから僕が切るよ!!」


「──え?」




 ◇


 拝啓、お母さま。今夜はいかがお過ごしでしょうか。


 僕は元気です。僕は元気でいることが取り柄だと自分を信じてやってきているのですが、それが難しいのが現実問題だと、目の前の状況を見たらそう思わずにはいられません。


 ナイフをもって追いかけてくる自称教師。というか自傷行為を勧める自傷教師。そして、恐怖から逃げ惑う彼の生徒、すなわち僕の姿がこの空間では描かれています。


「待ちなさああい!」


 お母さま。先生の目がマジです。





「な、なにをやっているの?」


 先生との本気の追いかけっこから、互いに疲れて息を整えている最中に、葵と天音さんと明楽くんがやってくる。いきなり空間に現れるような感じで


「え、えと、お、鬼ごっこかな」


「楽しそうだね」


「……うん」


 それ以上は答えを紡ぐことはできない。だって、バレたら恥ずかしいから──


「ちがうよ、環くんがナイフ苦手だって言うから!」


「普通に言わないでください!!」





 空間の片隅に僕は体育座りをして、黄昏れる。葵にはバレたくなかったから、それが普通に暴露されたのが、どこか恥ずかしくて仕方がない。


「別に恥ずかしくなんてないと思うんだけどなぁ」


 立花先生に話を聞いて、葵がフォローのように独り言を呟いているけれど、聞こえないふりをする。どちらかといえば、これは僕の意識の問題なのだから、何か言葉をかけられたところで、立ち直る気にはならない。


「これは重症だな……」


 先生がそんなことを呟いている。


 いや、あんたが原因だから。これについてはあんたが原因だから。別にナイフで追われなくとも、あの時は確かに切ろうとする気持ちはあったんだ、本当に。


 そんな憂いを抱えていると、視界の外から靴音がこつこつと響いてくる。誰かがこちらに来ているような、そんな雰囲気。葵だろうか、それとも先生だろうか。僕は目を逸らした。


「……わかるよ」


 ──男の声。先生ではない男の声。だから、消去法で考えられるのは──。


「──明楽くん?」


 僕がそう呼ぶと、明楽くんは、ああ、と頷いた。


「ナイフ、怖いよな。というか、血って嫌だよな。わかるぜ」


「……明楽くん」


 こちらの気持ちに寄り添うように、そして耳元で声をかけてくる。


「あいつら頭おかしいんだよ……まるで普通のようにリスカするし……、俺はそれが苦手でなかなか魔法が使えないけれど……、ようやく同志を見つけた気分だ」


「……まさか、明楽くんも?」


「──ああ。俺も、血が苦手だ」


 ──その言葉に、僕は初めてここにきて、救われたような気がした。






「格好つけているところ悪いけど、明楽くんもこの後、練習だからね」


「……ういっす」

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