第44話 遊戯の終わり

朝日が差し込んだ室内でエレナは静かに宙を見つめていた。


(そろそろ、動かなきゃ)


遠くで人が動き始めている気配がする。侍女たちが部屋にやってくる前にエレナはいつも通りの自分を演じなくてはならない。

それがエレナに残された唯一の矜持であり、意趣返しでもあった。


闘技場は今日も多くの観客でにぎわっていた。中にはまだ年端のいかない子供も紛れていて、まるでこれから舞台でも観覧するかのように楽しげだ。

自分や周りが痛みを感じることがなければ戦争も処刑も娯楽でしかないのだろう。


歓声がひと際大きくなり、対面上に手枷を付けられたテオが姿を現した。たった一日会えなかっただけなのに、長年離れ離れだったかのような気になり泣きたくなる。今の自分は無表情を取り繕えているかも自信がない。


手の中の剣がずしりと重みを増し、開始の合図が鳴り響いた。


「状況は把握している。エレナ、大丈夫だ」


切りかかってきたテオと剣を交えるとテオがエレナの目を見て囁いた。その言葉で心の中の迷いが一気に晴れる。

テオが大丈夫だというのならエレナはそれを信じればいい。

その根拠や手段が分からないが、今エレナがするべきことは全力でテオにぶつかることだけだ。


小柄なエレナが隙を窺うように攻撃しては距離を取る様子は、観衆に期待や緊張感をもたらす。今まで一方的ともいえる実力差が均衡したことで、スリルのある展開に興奮はますます高まっていく。

それでも誰もが処刑人であるエレナの勝利を信じて疑っていなかった。


エレナの剣がテオの手から剣を弾き飛ばした。武器をなくした罪人に観客は歓声を上げる。それに違和感を抱いたのはカールだった。

与えた剣は粗末なものだったが、騎士は何があっても最後まで剣を手放さないよう訓練されるはずだ。エレナ姫の実力は評価しているが、純粋な力で騎士であるテオに押し勝てるものではないと予測していた。


そんな中エレナが好機とばかりに心臓に狙いを定めて切り掛かると、テオがエレナに向かって距離を縮める。自殺行為とも思える行動だったが、エレナの左手を思い切り引っ張りバランスを崩したエレナの攻撃は空を切る。

同時にエレナの背中に短刀が深々と突き刺さった。


驚愕の表情を浮かべ崩れ落ちるエレナを見て、テオが隠し持っていた短剣でエレナを刺したのだと分かった。だが目の前の光景に誰もが目を疑い、先ほどまでの歓声が嘘のように静まり返っていた。罪人が勝てば無罪放免だが、それは決して起こり得ないことと無条件に信じていたからだ。


動かないエレナをテオは丁重に抱きかかえる。

近くにいた兵士に声を掛けると、兵士が慌ててエレナの首筋に手を当てた。


真っ青な表情をした兵士は焦ったようにその場を離れるのを見届けて、テオは悠然とした態度で出口に向かう。兵士たちがその場に押しとどめようとすると平然とした口調でテオは告げる。


「勝てば無罪放免だったはずだ。何の権利があって邪魔をする」


それは遊戯の主催者に向けて発せられた言葉でもあった。


「牢の見張りに立てていた兵士を全員調べろ」


背後にいたフェイは命令を聞くなり即座に動いた。凍り付くような冷え冷えとした声で主がこれまでにない苛立ちを覚えていることを感じとったからだ。

誰かが騎士に毒付きの短刀を手渡した。背中を刺されたぐらいで死ぬわけがないが、姫がすぐに息を引き取ったのは毒が塗布されていたからだろう。


(もうすぐ手に入るはずだったのに――)


握りしめた拳に力が入るが、宝物を扱うかのように丁寧な手つきでエレナに触れるテオを見てふと冷静になった。


「勝てば無罪放免だったはずだ。何の権利があって邪魔をする」

「どこでも好きなところへ行くがいい。だが僕の側妃を勝手に連れて行くつもりか?」

「母親と同じ場所で眠らせてやりたい。……半年も経たず亡くなった側妃の墓をチャーコル国でご準備いただくものでもないでしょう」


テオの言葉にある種の正当性がある。一般的に考えると嫁いで間もない姫の亡骸を祖国に送り返しても、感謝されこそ文句をいわれる筋合いはない。


「行っていい」


僅かに礼をするとテオはそのまま姿を消した。


「ふふ、一瞬とはいえ騙されてしまった。この対価は支払ってもらうよ」


無人の室内でカールは独り呟いた。

何故わざわざ毒を使わなければならなかったのか。それはエレナが死んだことにしなければならなかったからだ。

テオの計画があっさり露見したのは、カールの毒に対する豊富な知識と経験ゆえだ。


(仮死状態にする毒の調合は個体差によって加減が難しい。あの侍女が用意していたものかもしれないな)


監視を付けて、姫が回復したタイミングで奪い返せばどれだけの絶望を与えられるだろうか。想像するだけでぞくぞくするほどの愉悦を覚えた。


「陛下」


掠れたような女の声に振り返ると王妃であるセシリアの姿があった。しばらく謹慎を命じていたせいか、美しく自信に満ちていた顔は疲労の色が濃く艶を失い、訴えるような瞳が疎ましかった。

カールの瞳に浮かんだ感情を理解したのか、セシリアは必死な様子で訴えた。


「まだあのような下賤な姫に心を傾けているのですか?!あの姫の心はもう永遠に陛下の物にはならない――」

「うるさいよ。感情を持ち込む王妃ならもういらない」


不快な発言を遮り、突き放すとセシリアの顔が絶望に染まった。それを一瞥するとカールは興味をなくしてエレナのことを考える。

エレナ姫はカールが執着した唯一の存在だと言ってもいい。他の者なら代わりはきくが、エレナの代わりなど想像できなかった。


(姫を閉じ込めるための檻が必要だな。拘束して心を壊してしまわないよう、綺麗で居心地のよい鳥籠を作ろう。もう二度と逃がさないよう、……?)


不意に脇腹に衝撃と灼熱感が広がる。

顔を向ければ凄絶な笑みを浮かべたセシリアとその手に握られた短刀が目に入った。


「やっと、私を見てくださいましたね」


咄嗟に突き飛ばそうとするが、力が入らず床に倒れ込んでしまう。毒に耐性のあるはずの自分に効くほどの猛毒、傍に控えているはずの近衛騎士の姿も見当たらず、カールはようやく自分の失態に気づいた。


エレナへの執着が自分たちの地位を脅かすことに気づいた古参の貴族や重臣たちが結託したのだ。腹心のフェイが傍にいない隙を狙って、セシリアの嫉妬を煽ってけしかけた。


「陛下、お慕いしております」


(人の妄執を見誤ったのが最大の失敗か…)


自分の上に馬乗りになった王妃が何度も短刀を振り下ろすのを、カールはただ見つめることしかできなかった。

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