【029】炎魔

 イオリ目掛けて振り下ろされていた真っ黒い腕が、ぴたりと空中で制止した。


 それが静止したのではなく、それ以上僅かたりとも動かせないほどの力で押さえつけられたことに気づいたのは、ナナリーゼがその光景の終始を目撃していたからに他ならない。


 黒い腕の動きを阻むのはイオリの右手。ゼラフィーナの血に濡れた真っ赤な右手が、黒い影の手首を掴み、捻り上げていた。


 咆哮。そして緊張。その後に不気味な静寂が張り詰める。地面ごと揺れているような錯覚と共に、ナナリーゼは言葉を失った。


 魔力の気配が溢れかえる。元来、人が感知することはできないはずのそれが、肌を焼くような緊張感を伴って目の前に歪みとして現れている。


 砂漠に浮かび上がる蜃気楼のように、そこに確かに在りながら、触れることを許さないもやのような何か。


 それは何より、恐怖を覚えるほどに不気味な光景だった。


「お兄……様……?」


 ゼラフィーナの体を地面に横たえたイオリが、ゆっくりと立ち上がった。その服はどこも彼女の血に汚れ、どす黒く染まっている。


 しかし、ナナリーゼがその姿に恐怖を覚えたのは、血だらけの様相を目撃したからではない。それ以上に、イオリのまとう不気味な雰囲気がナナリーゼの視線を捉えて離さなかったからだ。


「邪魔ァ、すンじゃあ……ねエ……!」


 イオリの口から、吐息のように言葉が漏れる。


 続けてブチブチと何かがちぎれるような、不穏な音が鳴り響いた。


 それがイオリの鷲掴みにしている、黒い腕から鳴る音だと気付いたのは、化け物が苦しそうに身悶えしたが故のことだった。


 痛覚があるのか、それともそう見えるだけなのか。化け物の不気味な顔が歪んだように見え、そして。


「オオオオオオアアアアッッッ――!」


 獣のような咆哮を上げたイオリがその腕を力任せに引きちぎり、化け物は悲鳴にならない悲鳴を上げた。


 のたうつようにふらつく化け物相手に、イオリは無感動な瞳を向けていた。そしておもむろに化け物に向けて自身の左手を突き出すと、小さく呟く。


「消え失セロ……!」


 ナナリーゼの視界に眩い光が映り込んだのは、それから一瞬後のことだった。


 光の正体は、イオリの手のひらに生み落とされた茜色の炎の球。


 ナナリーゼは始め、それが魔法球グレイアなのだと思った。しかし、そうではないことをすぐに思い知る。


 直後に放たれた火球が、空を切る音を上げて化け物に着弾する。その途端にけたたましい爆音を上げて爆発し、炎上したのだ。


「きゃあッ!」


 爆発の衝撃によって生まれた爆風が、ナナリーゼたちを真正面から襲う。その暴風を凌いだ先で、彼女は目の前の光景に呆然と呟いた。


「何……あれ……」


 標的にされた化け物の体が衝撃で千々に吹き飛び、その断片一つ一つが黒煙を上げながら茜色の炎に蹂躙され、消滅していく。


 いくらイオリの魔力が膨大と言えど、これほどまでの威力を第一階梯の魔法で生み出すことは不可能だ。明らかに、威力が普通のそれを逸脱している。


 だとしたら、魔法を碌に使えないはずの兄は一体何を放ったのか。俊才と謳われるナナリーゼをもってしても、理解することができなかった。


 絶句するナナリーゼに構うことなく、辺りを囲むように集まってきた化け物たち目掛けて、イオリは次々と火球を打ち込んでいく。


 その度に爆発音が鳴り響き、辺りの木々を粉砕し、化け物たちを焼き尽くす。


 外れた火球はメジオブロープの幹に当たり、木っ端みじんに打ち砕いた。そして砕かれた木々は自重を支えきれずにバキバキと音を立てて倒壊し、辺りの影たちに襲い掛かる。


 それはまるで赤い流星群が降り注ぐ、美しい地獄のようだった。


 目の前の光景に、ナナリーゼもトルナスもすっかり言葉を失っていた。


 先ほどまでの苦戦が嘘のように、化け物たちがあっという間に打ち砕かれて、その残滓と炎、そして今なお倒壊を続ける木々の数々だけが取り残された。


 やがて全てを焼き尽くしたイオリは、辺りをぐるりと見渡す。まるで、次の獲物を求めるかのように。


 倒れる仲間たちの姿も、ナナリーゼやトルナスの姿も、その瞳には映りもしない。


「お兄様……?」


 その様子に思わず、ナナリーゼは声をかけた。なるべく刺激しないよう平静を装ったつもりだったが、聞こえた自分の声音は予想外に震えていた。


 しかし、イオリは答えない。いや、やはりとでも言うべきだろうか。


 この状況に、ナナリーゼの理性が警鐘を鳴らす。


 魔力の暴走は、強い魔力と強い感情がお互いに作用し合うことで相乗効果を生み出し、結果そのどちらもが制御不能になる状態を指す。


 そして魔人は深刻な暴走に陥るほどに理性を失い、暴れ狂う獣へと変異していく。


 かつて魔王と戦った際に起きたイオリの暴走は、そういう意味ではまだほんの入り口でしかなかった。言葉を交わし、人としての戦い方を忘れていない、暴走の入口。


 しかし、今のイオリは違う。


「――ッアアアアアアアアァァァァァ……!!」


 雄たけびのようにも、叫びのようにも聞こえる声を上げるその姿は、まさに獣だった。


 イオリの足元から、茜色の炎が噴き上がる。溢れ出た魔力が魔素と結合し、炎となって辺りを焼き始めたのだ。


 まずい。そう思ったナナリーゼは、倒れたままのゼラフィーナを氷の壁で守りながら叫んだ。


「トルナス! お兄様から離れて!」


 次の瞬間、イオリを中心に灼熱の炎が膨れ上がる。熱風は周囲に広がるなり触れるもの全てを焼き尽くした。


 以前の暴走時にこれを見ていたナナリーゼと、その戦闘経験の豊富さから彼女の声にいち早く反応できたトルナスは辛うじて魔法障壁で己が身を守ることに成功した。


 そしてトルナスはその際、傍に転がったままになっていたフィスタの体をも守りきる。


 その障壁の先で、瀕死の化け物たちが防御もできずに熱風に直撃し、メジオブロープの破片ごと吹き飛んだ。


「はぁっ……はぁっ……!」


 ナナリーゼはいつしか、自分が肩で息をしていることに気づいて、落ち着くために額を右手の甲で拭った。


 甲にはぐっしょりと汗が伝っていた。


 防御が間に合ったが故に、何とかなった。だが、次は上手くいくかわからない。そもそも、本当に防ぎ切れるのかさえも。


 もし防ぎきれなかったなら、先ほど吹き飛ばされた化け物たちのように、今度はナナリーゼたちが焼き尽くされることだろう。


 明確な死の恐怖がナナリーゼの背中を伝う。今のイオリはもはや、周りに破壊をもたらすだけの災厄と成り果てていた。


 やがてその災厄は、いつかそうしたように、自身の生み出した炎をまとい始めた。炎を操り、鎧に、翼に、尻尾に変える。


 しかし暴走の影響なのか、その大きさは前見たものより明らかに大きくなっており、鎧と言うよりはもはや体の新たな部位のようだった。


「お兄様――!」


「――ッ!!」


 ナナリーゼの声を無視するように、イオリは次の獲物に飛びかかった。


 燃え盛る森の中から、なおも現れる化け物たち。その化け物たちと、数十メートルはあったはずの距離を、イオリはたった一足で踏み抜いて肉薄する。


 そして自身を見下ろすようにもたげられた頭を掴み、そのまま近くの幹に目掛けて叩きつけた。


 あまりの衝撃故か、叩き割られた木の幹の中心で、砕けた頭と共に化け物が痙攣する。その沈黙を確認する前に、イオリはすぐに次の獲物・・を探して視線を走らせる。


 すぐ傍に居たひと際大きな化け物に向かって襲い掛かり、つんのめるように態勢を崩したそれの首を掴み上げ、イオリは地面に組み伏せる。


 そして何度も何度も、その顔面へ自身の拳を叩きつけた。


「オオオオオアアアアアアアアアッッッ!!」


 獣のような雄たけびを上げながら、イオリは何度も何度も、何度も何度も何度も化け物の顔面を殴りつける。


 初めは抵抗して足掻いていた化け物も、やがて抵抗を諦めたのか――それとも力尽きたのか。


 その細長い体躯をピクリとも動かさなくなり、イオリの拳が突き刺さる衝撃に合わせて、痙攣けいれんしたように細かく跳ねるばかり。


 それはもはや戦いではなく、一方的な虐殺だった。


「お兄様……やめて……」


 静寂と灼熱が覆い隠す森の中で、虐殺の音だけが響き渡る。一体、また一体と化け物がイオリに襲われ力尽き、或いは焼き尽くされて消滅する。


 ナナリーゼもトルナスも、呆然とその姿を眺めることしかできないでいた。


 そして気付けば最後の一体となった化け物を、イオリは右腕から噴き出した炎によって焼き尽くし、化け物の体は茜色の炎に呑まれて完全消滅した。


 終わった。何もかも。これで惨劇も収束する。


 ――しかし、それが勘違いであることにナナリーゼはすぐ気が付いた。


 ゆっくりと、イオリの視線がナナリーゼに、そしてトルナスに向けられた。


 続けてイオリの足元から吹き上がる茜色の火炎。それはイオリの魔力が未だに収まることを知らず、溢れ続けていることを意味している。


 そしてそれがどういうことなのかも、ナナリーゼは瞬間的に理解した。


「……トルナス。構えてください」


「……まさか」


「その、まさかです」


 吹き上がる炎はやがてイオリの周りに集い、舞い踊るように噴きあがる。まるで次の戦い・・・・への期待に胸を膨らませるかのように。


「クックク……ハッハハハッ! ヒャハハハハハハハ!!」


 イオリは笑う。愉快そうに、楽しそうに。その手にどす黒い血を滴らせて。それは破壊の使徒。或いは、終末の王の姿を思わせる。


 炎で模った尻尾を揺らし、イオリは確かに口にする。


「次はテメェだ……トルナァァァァス!」


 金色こんじきに輝く双眸そうぼうは、狂気によって彩られていた。

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