【027】黒き魔の手

「何だ……何が起きている……?」


 先ほどまでの怒りの様相が嘘のように掻き消えたトルナスは、空を見上げてそう呟いた。いつも余裕を見せている彼にしては珍しく、その額には汗が浮かんでいる。


 そこへナナリーゼの裂くような声が響く。


「トルナス、決闘は中止です! あの光の意味、あなたにもわかるでしょう!?」


 その声で、その場にいた全ての者が己の置かれている立場を思い出した。そして、このままではまずい状況になるだろうということも。


 この場で最も選択権を有していたのはトルナスだった。このまま決闘を続行するのか、それとも異常に対処するのか。


 トルナスは一瞬、イオリへ視線を投げた。そしてすぐに明後日の方へ見た後に口元を歪めて叫んだ。


「チッ……! サルティム! トゥイス! 辺りの状況を探れ! フィスタ! お前は備えろ!」


 それは、決闘中止の合図だった。トルナスの激が飛び、呼ばれた三人――トルナスの手下たちは、その声で己のやるべきことを理解したようだった。


 そしてすぐさま指示に従い散会した三人は、辺りの状況確認を始めた。


 その拍子に拘束を解かれたゼラフィーナは、拘束されていた腕を振り切るように自身の胸元へ抱くと、すぐさまイオリの元へと駆け寄ってきた。


「イオリ様……! お怪我は、お怪我の具合は……!?」


 自分の方こそ心配したくなるような格好をしているというのに、何よりもまずイオリの怪我を心配しているようで、ぼろきれのような服がはだけて肌が見えていることにも構う様子がない。


 悲鳴のような声を上げる彼女の体は、僅かに震えていた。きっと、彼女自身も恐ろしかったはずだ。だと言うのに、彼女はまず、何よりも先にイオリなのだ。


「大丈夫だ……」


 イオリは土まみれのあちこち痛む上半身を、ゼラフィーナに支えられながらなんとか起こした。そして目のやり場に困る彼女の姿を見て、自分の上着を彼女に渡す。


「汚れちまってるけど使ってくれ。それと……悪い、俺のせいで……巻き込んだ」


 手渡された上着を抱くように受け取ったゼラフィーナは、涙をいっぱいに溜めて首を横に振った。


 惨めな気分だった。あれだけ啖呵を切って、結局はトルナスの言う通り、ゼラフィーナ一人碌に守れやしない。


 無力だった。ゼラフィーナを悪意から守れるだけの力も足りなかった。彼女が泣かなくていいように、イオリ自身を守るための力すら足りていない。


 敵を倒すための力が足りなかった。


『威勢ばかりの子供と同じだ。今のお前では、私に届きすらしない』


 あの時――初めて魔力が暴走した時、魔王に言われた言葉が蘇る。威勢ばかりの子供。まさにその通りだ。


 トルナスにすら及ばない、己の無力に歯を食いしばる。握りしめた拳には、誰かを守るための力は未だ掴めてなどいなかった。


「お兄様……傷が痛むとは思いますが、今は状況が状況です。緊張を切らないでください」


 悔しさを噛み締めていると、頭の上からナナリーゼの声が聞こえた。


 視線を上げればいつも以上に表情を引き締めた彼女が、マテューと共に傍に立っていた。


 いつも厳しい表情をしているが、今はそれが一段と目立つ。少しの動きすら見逃さない、警戒心を剥き出しにしたような表情だ。


 それが何より、今が異常な事態であることを物語っていた。


「……何がどうなってる?」


 ゼラフィーナに支えられながら、沈む気持ちを何とか持ち上げてイオリは立ち上がる。トルナスに執拗に蹴られた左腕や左わき腹がジンジンと痛んだ。


 蹴った張本人は少し離れたところで指示を飛ばしているが、未だ異変の元凶は見つかっていないらしい。


 立ち上がったイオリを見上げて、ナナリーゼは首を横に振る。


「わかりません。だからまずいのです。今回集められたのはいずれも手練ばかり。彼らが同時に、それも対処不能の事態に陥るなんて本来あり得ません。何かが起こっているとしか……」


 辺りを見渡したナナリーゼに続いて、イオリも辺りに視線を巡らせる。視界に入るのは昼間だというのに薄暗い森ばかりだ。相変わらず、イオリたち以外の生物の気配は感じられない。


 ――いや、違う。何かが居る。


 目を凝らし、闇を睨む。森の奥、遠くの闇から何かが剥がれ落ち、うごめいたように見えた。


「何か……見えますか?」


 ナナリーゼに問われるも、イオリは答えない。否、答えられない。それが何なのかわからなかったから。


 視界の先にいたのは、黒い棒人間――或いは影。或いは闇。或いは黒塗りの絵を浮き上がらせた、人型の何かだった。


「傭兵……? いや、違う……あれは――」


 見れば見るほど、それが人間から離れた形をしていることに気付く。三メートルはあろうかと言う体長。異様なほどに細長い手足と胴体。そして子供の落書きのような、ぽっかり空いた目と口だけの頭。


 生物と呼ぶことを本能が拒絶する。あれを生きていると称するのは、生物に対する冒涜だ。


 ただ漠然とそこに在り、じっとこちらに顔を向けている。本来そこにあってはならないはずの、冒涜的な何かが、世界に違和感として貼り付けられていた。あれはきっと、そう。


「――化け物だ」


 そう称するより、適切な言葉が見つからない。


「――ッ! トルナス、正面です!」


 動きがあったのは、イオリの報告に危険を感じたナナリーゼがそう叫んだ直後だった。


「ごぁっ……!」


 籠るような声と共に、警戒に出ていたトルナスの手下、トゥイスが空から・・・戻ってきた。


 否、放物線を描くようなその軌道は、何者かによって放り投げられたのだ。


「トゥイス!」


 トルナスの視線の先に、受け身すらろくに取れないままトゥイスの体が転がり落ちる。よく見るとその体の下に、赤黒い何かが滲んでいた。


「あッ……!?」


 その時、今度は待機していたフィスタが短い悲鳴をあげた。気づいた時には彼の体が崩れ落ち、その場に倒れ込む。


「フィスタ!」


 それがあの黒い化け物によるものだと気付いたのは、先ほどまでフィスタの立っていた空間をえぐるように、化け物の細長い腕が伸びていたからだった。


 敵だ。この時誰もが、その存在を敵だと認識した。


「サルティム! 退がれ!」


 トルナスの叫びも虚しく、サルティムもまた離れた場所で崩れ落ちた。茂みの中に埋もれて見えないが、恐らくは彼の体の下にも赤黒い染みが広がっていることだろう。


 やがて、森の奥から化け物が姿を現した。長い距離をたっぷりと時間をかけて、緩慢な動きで全員が目視できる距離まで歩み寄ってきたのだ。


 背筋が凍るような圧迫感があった。


 上半身を前に傾け、上から覗き込むように、その化け物はイオリたちを見下ろしていた。

 その顔にぽっかりと空いた、感情の伺えない瞳を向けて。


「……まさか。でもそんな……!」


 不気味な化け物の、感情の読めないその顔を見て、唯一ナナリーゼだけが反応を見せた。


「知ってるのか?」


 イオリが問うと、歯切れの悪い答えが返ってくる。


「……本で読んだだけですが……しかし、もしあれがそうなら、生物ですらありません……!」


 ただ、何かを理解したらしいナナリーゼはそう叫んだ。しかし、事態は既に次の段階へと進んでいた。


「姫様! 周囲からも奴らが!!」


 それはマテューの叫ぶ、絶望の符牒。


 ハッとしてイオリも辺りを見渡せば、森の闇から這い出るように、一体、また一体と大小様々な人型の化け物たちがあちこちから姿を現した。まるでこの場所を目指して集まって来たかのように。


「何なんだこいつらは……!」


 気付けばイオリたちは、影の化け物たちに取り囲まれていたのだ。


「トルナス! マテュー! とにかく正面の敵に集中してください! まずは包囲を突破します!」


「わかっている!」


「はい、姫様!」


 ナナリーゼ、トルナス、マテューの三人が、最初の化け物に対して一斉に魔法を放った。


 それらは氷の牙、風の刃、土の塊となって化け物を襲い、化け物の頭部を穿ち、胴体を切り裂き、足元を打ちつけた。


 崩れ落ちるかのように後ろへ大きくのけ反る化け物の上半身。しかし、それ以上化け物が倒れ込むことはなかった。


「効いていない……!?」


 その光景を見ていたナナリーゼが声を上げる。化け物はあろうことか、氷に貫かれた頭を持ち上げ、再び立ち上がったのだ。


 魔素を繋いでいた魔力が消費され、突き刺さった氷が消滅すると、頭にぽっかりと空いた穴だけが残された。しかし化け物は相変わらず、緩慢な動きでこちらへ歩み寄ってくる。


 魔法が効いていない。それは何よりも絶望的な事実として、彼らの前に立ちはだかった。

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