【002】魔王子の目覚め

 混濁する感覚の中、イオリは意識を取り戻した。夢を見ていたらしい。それも、すこぶる不愉快ないつもの夢を。


「夢か……」


 先ほどまでの最悪の光景――母の葬式――が、夢であることを確信するために、あえてわざとらしいセリフを口にする。背中をうっすらと覆う汗と、耳に届いた自分の声が、全て夢だったのだと教えてくれた。


 もやもやするような、むしゃくしゃするような重い気持ちが腹の中を駆けずり回る。不快、と言う単語では言い表せないほどにイオリの胸中は複雑だった。


 横になった体を無理やり起こし、重い気持ちを引きちぎる。そうしなければ立ち上がれなくなりそうだったから。


 そうして勢いに任せて上半身を持ち上げたところで、頭の奥に激痛が走った。


「い゛っ……つう……!」


 目の奥がジンジンと鳴り、瞼には自然と力がこもった。頭の中のにぶい痛みと、脳を何度もかき回されたような不快感。眼球の奥に繋がるあらゆる神経が、起き上がった拍子に引きちぎれたかと思うほどだ。


 異常の原因を突き止めようと、瞼を開いて自分の体に視線を巡らせる。しかし、イオリの思考を胃の奥から押しあがってきた強烈な酸味と匂いが邪魔をした。


「う゛ぇ……気持ちわる……」


 少しでも頭を傾けようものなら胃の中の物が全て流れ出てしまうかもしれない。乗り物酔いを激しくしたような、とにかく酷い気分だ。


 先輩の言っていた二日酔いという奴は、こういう感覚なのかも知れない。飲んだこともない酒の味を思い浮かべながら、喉の奥まで競り上がる酸味を飲み下す。


 それから少しして、飲み下した酸味に喉を焼かれながら、ようやくイオリは自身の置かれた状況に気が付いた。


「はぁ……? どこだここ……?」


 今まで自分が眠っていた場所は、全く見覚えのないベッドだったのだ。


「俺……何してたんだっけ……」


 やけに小綺麗で造りのいい、広いベッドを見渡しながら記憶の中を何とか探る。


 こういう時は大抵、登場人物が記憶を失うところから物語が始まるものだが、生憎とイオリにはこれまでの記憶が全て揃っていて、壮大な冒険なんて始まるわけもない――はずだった。


「……確か、朝起きて……仕事行く準備して……それで……」


 記憶がない。否、正確にはここに来るまでの記憶がない。


 ……更に正確なことを言うのであれば、ぼんやりとは覚えているのだが……とても現実とは思えないような突拍子のない出来事ばかりで、どう考えても夢の一部にしか思えない。


 何せ突然、自分の足元が眩く輝いて、気付いたらここに居た……なんて。


 頭が痛む。記憶を呼び起こそうとしたせいで頭痛が更に酷くなったようだ。


 思わず右手が側頭部に伸びる。側頭部を叩きつけ、痛みで痛みをごまかしてやるつもりだったが、しかしその目論見は脆くも崩れ去ることになった。


「……なんだ……これ……」


 硬い何かが、頭に張り付いていた。


 ザラザラとした、僅かに体温より低く、硬い感触。ちょうど側頭部の辺り、皮膚を突き破るようにして何かが覗いている。


 それは一度横に伸びた後、その切先を正面に向け直すように捻じ曲がっていた。


 一瞬、骨が飛び出ているのかと思ったがそうではない。そもそも人間の頭に、こんな細長い骨はない。


 試しに引き抜いてみようと力を籠めると、まるで頭蓋骨ごと引き剥がされるような鈍い痛みが襲う。


 どうやら何かを後から付けた、と言うわけではなく、本当に身体の一部として伸びてきているようだ。


 嫌な予感が背中を伝う。何が生えているのかはわかっていた。ただ、理性が理解を拒んでいた。


 イオリがその指を硬い何かに這わせた拍子、今度は肩から髪がこぼれ落ちた。ばらりと崩れるそれに目を引かれ、そしてまたしても思考が止まる。


 一瞬、大量の血が飛び散ったのかと錯覚した。その原因は、胸ほどまで落ちる髪の色だった。


 赤だ。髪が赤いのだ。正確には暗い赤、ワインレッド。イオリのそれが記憶にないほど長く伸び、肩から溢れ落ちてきていた。


 何が起きているのか理解するより先に、イオリの体は動き出していた。頭痛も吐き気も、もはやどうでも良い。


 転げ落ちるようにベッドから出たイオリは、一瞬立ち眩みを起こして体勢を崩しかけたが、何とか踏みとどまって部屋中に視線を巡らせる。


 薄暗い部屋だ。それに広い。窓はカーテンで閉め切られ、その隙間からわずかに日が差すばかり。灯りらしい灯りは見つからない。


 そんな薄暗い部屋の広さは、イオリが住んでいた賃貸の壁を全て取り払っても勝てそうにないほど広々としていて、部屋のあちこちに鎮座する家具たちは素人のイオリから見ても高級そうな物品ばかり。


 その中にふと、黒曜石のように磨き上げられた真っ黒な壁を見つけた。すぐさまイオリはその壁まで駆け寄って、そして。


 映し出された自身の姿に、言葉を失った。


「なん……じゃこりゃ……」


 つのが、生えていた。


 正直そんな気はしていたのだが、しかし実際に目にする方がはるかに絶望感があった。


 誰かの体に入れ替わったとか、そういう類ならどれほど良かったか。顔の造形や体の雰囲気は確かに、イオリのよく知るそれのまま。


 ただ頭から生えた角や、赤く染まった髪が、明らかに異形のそれになっているだけだ。そしてそれが一番の問題だった。


 いや、よく見ると髪や角だけではない。瞳の色は金色になっているし、爪だって心なしか鋭くなっている気がする。と言うか、体つきも全体的に引き締まっているような――


 その時、目の前の壁がコンコンと鳴った。


 突然のことに反応できず呆然としていると、その後すぐに『失礼いたします』と女の声がして、目の前の壁が手前に動いた。


「ぁ痛ア!!」


『え!? あ、申し訳ありません!!』


 壁とイオリの頭が激突する。衝撃で一瞬気が遠くなりかけてようやく気付いた。この黒曜石の壁がどうやら扉だったらしいことに。


 知らなかったとはいえ、扉の前でぼうっと突っ立っていたイオリの方が悪いのだが、扉の向こうの声はすぐさま謝罪すると扉を閉めた。


 何が何だかわからないままイオリが扉から離れたところで、今度は恐る恐ると言った様子でそれが開き、そして。


『イオリア様……! お目覚めになられたのですね……!?』


 イオリは思わずギョッとする。先ほどの声の主のその異様な姿に。


 そこに居たのは真っ黒い服を身にまとった、真っ白い肌の女だったのだ。


 同い年か、或いは少し年上くらいだろうか。病的なまでに青白い肌をした、人の温もりを感じさせない白皙はくせきとした女だった。


 髪は鎖骨ほどまであるミディアムロングで特段珍しい髪型というわけではなかったが、その色は白みがかった灰色。人間のそれとはとても思えない色彩だ。


 そしてその感想は、彼女の瞳を見ても抱くことになった。切れ長の涼やかな目元に輝くのは紫色の瞳。美しいが、だからこそ不気味だ。


 鉱石を思わせる無機質な白に人工物のような色彩。そして彫刻のように整った顔立ち。それらの行き過ぎた美しさが、彼女の外見から人の温もりを奪い去っているように見えた。


 イオリは思わず、そんな珍しい色彩の彼女を凝視してしまう。


 すると、喪服のような真っ黒い服をまとう彼女は、なんとイオリの顔を見るなりぽろぽろと涙をこぼし始めたのだ。


『イオリア様が戻られて三日……もしこのままお目覚めにならなかったらどうしようかと……!』


「わ、ちょ、何なんだよ急に……!」


 これには流石のイオリも狼狽うろたえた。


 頭に角が生えた現実をまだ受け入れ切れていないというのに、今度は見知らぬ女が自分の顔を見て泣き始めたのだ。


 その上、彼女が使っている言葉が異国の言語ともなれば、混乱するのも無理はなかった。


 しかし、そうして困惑しているうちに、イオリはある違和感に気付く。


「……待てよ。なんで俺、あんたの言ってることがわかるんだ?」


 そう。彼女が口にする異国の言葉の意味を、何故かイオリは理解できているのだ。


 しかし、問われた彼女は答えることなく、未だ泣き続けていた。無視をされている、と言うわけではなさそうだ。そもそも言葉が通じてない、と言った方が近いだろう。


 どうやら、イオリが一方的に彼女の言葉を理解している状況らしい。


 そしてそのうち、イオリはそうかと思い出した。なぜか、ではなく、イオリは彼女の使う言語を知っていたのだ。


『ええと……君は?』


 記憶の奥底から記憶を引きずり出して、ぎこちなくそう問いかける。すると上手く通じたらしく、彼女はその涙を指でぬぐって静かに答えた。


『覚えて、おられないのですか?』


『あーっと……何を?』


『私のことや、この国のこと、それからイオリア様やお母様のことを』


『俺と……母さん、のこと?』


 この言語を使うことに慣れていないせいもあって、イオリの言葉はややぎこちない。


 逐一頭の中で変換しながらそう聞いたイオリに、彼女は意を決したように頷いた。


『私は、ゼラフィーナ・アシュヴィ・クウィス・エルニエールと申します。イオリア様とは昔、数度お会いしたことがあります』


『俺と……? 悪い、全然……覚えてない』


『……幼い頃でしたから。ですが、私とあなた様の婚約は今も結ばれたまま。お帰りをずっとお待ちしておりました、イオリア様……』


 その時まるで、後頭部をガツンと殴られたような衝撃が走る。今彼女は何と言った?


『こん……やく……? 誰と、誰が?』


『はい。あなた様――イオリア・クロスフォード様と、私、ゼラフィーナ・エルニエールがです』


 頬を赤らめ、俯く彼女。涼やかな印象の彼女の意外な一面に思わずドキリと……する余裕もなく。


 異国の言葉の翻訳間違いを疑い、自分の勘違いを疑い、そしてその全てが過ちでないことを理解して。


 緩やかに訪れた衝撃的な文字列に、イオリは腹の底から声を上げた。


『――婚約者ァ!?』


 どうやら、とんでもない事態に巻き込まれたらしかった。

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