14.ブラジル育ち

 同日夜7時ごろ。吉祥寺にあるスポーツ用スタジオで、仙川怜央せんがわれおはカポエイラの中級クラスのレッスンを終えたところだった。

「念の為、後で湿布貼っておいた方がいいよ。明日になって晴れたり、痛みが強かったりしたら、病院か整骨院行ってきな」

 さっきアクロバティックな技を放った時にバランスを崩して倒れ、肩をしたたか打ってしまった。まだじんじんと疼く。

「はい、ありがとうございます」

 頭を下げて、レオこと仙川怜央は帰り自宅をする。カポエイラとはブラジル由来の武術と格闘技の中間みたいなものだ。なんでも十六世紀以来アフリカからブラジルへ奴隷として連れてこられた黒人たちが、植民地の支配階級から、民族の伝統的な武術を禁じられたため、踊りと偽って継承していたとか。

 レオは週に2回、吉祥寺にあるレッスン場に通い、大人たちに混じって練習している。高校生はレオ一人だが、年長者たちができない技もさらっとやってのける。周囲は「高校生なのにすごいね」と褒めてくれるが、レオ本人は「別に『高校生なのに』はいらないじゃないか」と思う。レオはブラジルで8歳からやっている。競技歴7年だ。対して、中級クラスの生徒は競技歴一、二年の人がほとんどだ。レオの方が上手くて何も不思議はない。

 

 国領渚は結局、地域文化研究部に入部しなかった。彼女と同じクラスの高井戸楓から、

「渚、入らないって」

 とだけ伝えられた。

「検討の余地もなさそう?」

「渚は誰がなんと言おうと嫌なものは嫌っていう子だから」

 決定事項らしい。レオは別にそれ自体は悪いことだとは思わない。むしろ自分の意志をはっきりと表明する態度に好感を覚える。たとえ入部しなかったとしてもこれからも国領渚とはいい関係を築いていきたい。そう思える子だ。

 あの日、部員と打ち解けていた楽しそうにしていた渚が、顧問が来てからは居心地が悪そうだった。あの場にいれば誰だって、渚が入部しなかった理由が、飛田宏だろうと推測できる。そうだとしたらレオとしては少々複雑な気分である。レオが地域文化研究部に入るきっかけを作ってくれたのは顧問の飛田であり、彼には感謝していた。だから渚と飛田が半目し合っていると、彼は板挟みにあったような気分になるのである。レオが飛田と仲が良いのを知っても、渚は気にしないだろうか。

(「まあ難しいよなあ、日本の高校生には」)

 まわりから豪胆な性格にみられがちな仙川怜央であるが、そのイメージはだいぶ誇張されている。それを知っているのは、友人の桜ヶ丘竜也くらいだ。

「だいたい、レオっていう強そうな名前が俺には恐れ多いんだよなあ」

 帰りのバスに揺られながら、周囲の仙川怜央像と実態とのギャップについて考える。サッカー部を辞めた時も、たくさんの人に「どうして?」と聞かれた。一番多くあったのが「先輩たちと衝突したのか?」という声だった。中には「サッカー部がレオのレベルについていけなかった」という声すらあった。誰が流したのか知らないが、勘弁して欲しい。ブラジル育ちというのもバイアスになっていたかもしれない。実際にはシンプルに「つまらないしきつかった」からである。きつかったのはサッカーのレベルの高さではなく、上下関係や運動部特有の雰囲気だったが。

 サッカー部をやめた理由をリュウに話した時、「レオのイメージから、誰もそうは思わないだろうな」と笑われた。

「『きつくてやめました』ってなんだか情けない感じするじゃん? 仙川怜央はそういう情けないことは絶対やらない。困難なことから逃げない。そしていつも凛々しい」

「そんな人間いるのかよ。俺、もっと標準的な高校生として扱われたいよ」

「お前贅沢だな。ほとんどのやつは、自分をいかに普通より上に見せるかに必死なんだからな。俺も含めて」

 とにもかくにも運動部のノリにはついていけず、1年生の夏合宿後に退部した。時間にゆとりができたので、好きだったコーヒーを自分でいれはじめた。はじめてみるとコーヒーの世界の奥深さに気がつく。豆を選んでいる時は「どんな味が出せるのだろう」とワクワクするし、豆を挽く時の感触と音も大好きになった。もちろんいれたコーヒーをじっくり味わう時間は幸福である。

 今日も家に帰ったら、コーヒー豆を挽こう。そう思うと心が落ち着いてきた。バスの外でピカッと稲光りがした。雨が降るならその前に帰りたい。それにしても最近雨が多いな。やたらと寒いし。


 最寄りのバス停で降りると、すでに雨が降っていた。そのせいで一層寒さを感じる。傘を持っていなかったので「仕方ない、走って帰るか」と決めた時、電話が鳴った。楓からだった。

「今学校に雷が落ちたの! 新館の部室あたりに直撃したみたいで火災が……!」

 地域文化研究部の部室は新館最上階の四階に位置している。今日はレオはカポエイラのレッスンのため参加していないが、部活のミーティングがあったことは認識している。

「みんなどうしてるんだ? 大丈夫?」

「雷が落ちたのは、みんなが部室出た後だったので、全員無事。ただまだ火事が鎮静していない。みんな成り行きを見守っている」

 とりあえずみんな無事だと分かった。今から自分が行ってもできることは何もない。疲れているし、雨も降っているので、正直このまま帰りたい。しかし楓はまだ電話を切らない。このまま「じゃあまた」と電話を切ってはいけない空気を感じる。

「じゃあ、俺も今から行くよ」

「ありがとう。待ってるから」

 相手はその言葉を聞きたかったようだった。


 校舎に近づくと消防隊が新館で発生した炎を消しており、その周囲に人々が群がっていた。地域文化研究部の面々も見つけたので、とりあえず合流しようと歩き始めると、校舎裏からカラスの群れか空に飛び立つのが見えた。その群れの中に異様なものが混じっていた。それは他のカラスよりはるかに巨大なカラスだった。いや、カラスというより黒い衣装を纏った人間に翼が生えて空を飛んでいくようだった。ふと先日部室で話した鳥人間や天使の噂を思い出す。

「これか……」

 確かにこれは「#鳥人間」で拡散されておかしくない。


 同じ光景を柴崎聖も別の場所から国領渚とともにみていた。人間のように見える巨大なカラスは、入学式の前日に夢の中で自分が変身した姿そのものに思えてくる。

 その光景は聖には不気味と恐怖でしかなかったが、隣に立つ渚は気分が高揚していた。窮屈で退屈な日常を、何かが壊してくれる予感がして。

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