嘘をつくなら墓場まで
川線・山線
第1話 嘘をつくなら墓場まで
「先生、このことは母には絶対に言わないでほしいのです!」
ご本人を交えない病状説明の場で、戸田さんの息子さんは、強く私に迫ってきた。
「う~ん…」
と私はうなってしまった。
戸田さんは、この病院に古くから通院されている患者さんだ。お年はもうすぐ94歳を迎えられる。長年、院長先生が診察されていたが、院長先生も85歳を超え、加齢による難聴で患者さんとの会話もままならず、聴診器でも聴診ができなくなってきたそうだ。それで、半年前に外来診療をお辞めになり、院長先生から引き継ぐ形で私がかかわるようになった方である。
引継ぎ当初はお元気だった戸田さんだが、長谷川式認知症スケールは15/30点と認知症を疑う得点。日付の感覚と、近時記憶(少し時間を空けた後の記憶力)に少し難があった。
「94歳だし、日常生活に支障も出ていないし、こんなものだよなぁ」
と引き継いだ時には考えていた。しかし3か月前の診察の時だろうか、急に、一カ月で2kg近く痩せておられるのに気がついた。
「最近、お痩せになっていませんか?」
と尋ねたが、
「この夏は暑いでしょ。あまり食欲がないのよ。夏バテ気味なのよ」
とおっしゃられていた。
「院長先生のカルテを見ても、しばらく検査をされていないようなので、胸のレントゲンとか、血液検査とか、一度検査をしましょう」
「先生、夏が終わってもスッキリしなければ検査を受けることにします。ちょっと待ってくださる?」
戸田さんはやんわりと検査を拒否された。本人が嫌がることを強制することはできない。その日の外来では、そこで留まらざるを得なかった。
ところが思わぬところで検査の機会が訪れた。戸田さんがご自宅で足を滑らせて転倒。左胸をテーブルにぶつけたそうだ。「数日、胸のぶつけたところが痛いので胸の写真を撮ってほしい」ということで、心配された息子さんといっしょに戸田さんが受診されたのだ。
「胸が痛いとお困りでしょう。胸のレントゲンとCTを確認させてくださいね」
と伝えて胸部の画像評価をした。
出来上がった写真を見ると
「あぁ、やっぱり」
と思ってしまった。胸部レントゲンでは、右中下肺野に4cm大の腫瘤影があり、その他、左右の両肺野にいろいろな大きさの結節影が散在していた。胸部CTを確認すると、明らかな肋骨の骨折はないが、右胸腔には多くはないものの胸水が貯留しており、右下葉に4cm大の腫瘤影、そして、左右ともに大小さまざまの結節影~粒状影が散らばっていた。左右の主気管支リンパ節、大動脈弓下リンパ節、気管分岐部リンパ節も大きくなっている。多分肺がんの多発転移だろう。
ただ、病気を見つけたところで、如何ともしがたい。仮に、院長先生が1年前に病気を見つけていたところで、大きく話は変わらないだろう。年齢を考えると「根治」は望めないということである。
最初に戸田さんと息子さんを呼び込み、レントゲンの結果を説明した。
「レントゲンでもCTでも、肋骨の骨折はなさそうですし、肺が傷ついて、空気が漏れた『気胸』という状態もありません。レントゲンやCTで分からない肋骨や肋軟骨の骨損傷はあるかもしれませんが、もしそういうものがあったとしても、痛み止めで様子を見る、ということになります。また、細かな所見は、週に1回、写真を見て診断をつけてくれる放射線科の先生が診てくださるので、次の診察でご説明しましょう」
「あぁ、肋骨が折れているのかと心配しました。もしかしたら骨に傷がついているかもしれないけど、様子を見る形でいいんですね。よかったです。
と戸田さんと息子さんは診察室を出ようとされた。
「戸田さん、足が少し弱っているのかもしれないから、息子さんに注意することなどお話ししますね。戸田さんは待合室で待っていてください。息子さんはちょっと残ってもらえますか?」
とお二人に声をかけ、戸田さんを待合室に戻し、息子さんに残ってもらい、ぼかしていた肺野の病変について話をした。おそらく肺がんで多発転移があること、年齢的には「根治」させるすべはなく、年齢を考えても、このままそっとしておかざるを得ないことを説明した。
「先生、それなら、このことは母には絶対に言わないでほしいのです。だって、治療の術もないのでしょ?なら、わざわざ「肺がん」だという必要もないじゃないですか」
現在では、病状については原則として正直にご本人に伝える、ということが医療の世界では主流である。例えば、疼痛が強くなり、「麻薬」を使うときなど、当然自身の病気を知っておくほうが、その必要性を納得しやすいからである。積極的治療を行なうにしろ、緩和ケアを行なうにしろ、ご本人に「本当の病名」を知っておいてもらった方が治療の納得度が違う。
何となれば、法律的なことを考えると、「本人の同意を得ない」治療を行なうことは「傷害罪」の要件を満たすわけである。
その一方で、息子さんの言われることにも一理も二理もある。
高齢で理解力の低下し始めている戸田さんに「肺がんだ」と伝えることは、戸田さんご自身にとってどれだけの利益があるのだろう?「知らぬが仏」というわけではないが、息子さんが懸念するように、「病名告知」だけで心が参ってしまうかもしれない。私の外来に来られてからあまり経ってはいないが、毎回「私も年やから、いつお迎えが来てもええけど、楽に生きたいなぁ、余計な治療はしていらんなぁ」とおっしゃられていた。その希望を揺さぶってしまわないか、と考えると自信がない。
「う~ん…」
と30秒ほど、逡巡した。そして方向性を決めた。
「わかりました。息子さんのおっしゃることも最もだと思います。それが「最善」かどうかは何とも言えませんが、「肺がん」である、ということは戸田さんには「秘密」としましょう。ただし、私も頑張りますが、息子さんも、「嘘」をとことんつき通して下さいね」
と伝えた。ということで、戸田さんの「肺がん」は、本人には「秘密」となった。
その後も、戸田さんは月に一度私の外来に受診された。「肺がん」はおそらく院長先生に通院されたころからあったのだろうが、一度衰弱が進み始めると、どんどん進んでいく。
「先生、最近、食欲がなくて困っているんです」
「そうですか。高齢になると、基礎代謝も落ちてくるので、必要なカロリーが減ってくるのは事実です。それに戸田さんも高齢なので、そろそろ、神様が『こっちに来る用意をしといてな~』と伝えてくれてはるのかもしれませんね」
「先生、そうかもしれへんねぇ。わたし、ここまで長生きできると思わんかったよ。戦争の時は本当に死ぬ思いをしたし、十分生きたかなぁ、と思てますわ」
「そうですねぇ。寿命は神様が決めはるから、医者がどうこうすることはできないけど、栄養のサポートで、「エンシュア」っていう缶ジュースみたいなものがあるから、食事取りづらければ飲んでくださいね。食欲をサポートする薬も出しておきますね」
と伝えて、悪液質に対してステロイドを処方したりしていた。
そんなある日、警察から私に電話がかかってきた。
「もしもし、こちら河内警察署刑事課の大林と言います。先生の外来に通院されていた戸田さんですが、ご友人が自宅を訪問したところ、布団の中で亡くなられていました。先生の外来にどのような病気で通院され、どのような薬を飲んでいたのか、確認したいのですが」
とのことだった。
そうか、戸田さん、亡くなられたのか…。前回受診時も、「食欲はない」とおっしゃっていたけど、「痛いところやしんどいところはない」、っておっしゃってたから、天寿を全うされたのだなぁ、よかった、と思った。
警察の方には、これまでの経過、内服薬を伝えた。
何とか私も、ご家族も「秘密」を守り通せたのだなぁ。と思った。戸田さんも、苦痛なく天寿を迎えられてよかったと思っておられるだろうか。
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