第5話 異世界行商その②:津軽塗(あるいはゾーヤの大失敗)

 津軽塗つがるぬりとは、青森県弘前市周辺で作られている漆器である。


 遡ること江戸時代中期から、津軽の地では漆器が作られてきた。

 津軽塗の調度品は朝廷や公家、幕府への贈答品としても重用されており、津軽藩によって大事に保護されてきたという。

 だが、それまでは『津軽塗』という名称はなく、その呼び方が使われるようになったのは1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会に出品されてからのこと。

 日本政府が初めて公式参加し、日本館が建設された万博でもある。


 名誉ある博覧会の出品物に選ばれるほどなのだから、津軽塗の芸術的価値たるや、すさまじいものがある。以降、津軽塗は日本の伝統工芸として、その地位を確固たるものにした。


 色漆を数十回塗り重ねて研磨を施す独自の工法により生み出される、幾重にも重なった美しいまだら模様の『唐塗』。七々子塗ななこぬり紋紗塗もんしゃぬりもあるが、やはり一番目に留まりやすいのはこの『唐塗』であろう。


 色漆の艶と鮮やかさ。

 朱、黒、緑、黄の華やかな色彩のコントラストが、深みを感じる漆の艶と重なって奥行きが生まれる。


 何度も漆塗りされているから丈夫でもある。

 堅牢さと優美さを兼ね備えている漆器の傑作――。






「…………。主殿あるじどの、恐らくあれはまずい。悪人にでも見つかったら命が危ない。あれ一つで嫁入り道具になるぐらいの逸品だと見た」

「あ、やっぱり?」


 腹が膨れて店を出る。言うだけあって『踊る仔馬亭』は非常にいいお店であった。肉が旨くて野菜も旨い。パンもしっかりしており、砂を混ぜてかさまししているような粗悪な小麦を使うようなお店とは訳が違う。

 香辛料をしっかり使った料理を提供できているということは、やはり儲かっている飲食店なのだろう。

 お値段もその分しっかりしており、銅貨ではなく銀貨での支払いとなった。だが満足である。


「私には芸術品の審美眼はないが……あの優美さは尋常ではあるまい。下手すると、どこぞの貴族の家宝になっていてもおかしくない」


 小屋に帰る道すがら、ゾーヤはあれやこれやと説明してくれた。

 黒狼族のゾーヤの一族では、獣の牙に彫りものをして作った首飾りや、毛皮や煙草を嫁入り道具にするらしい。それもそれで興味がそそられる。ちょっと見て見たい。


 彼女曰く、この津軽塗も、それらに劣らぬ出来栄えだという。


「もしなるべく高値で売りたいなら、質屋だけじゃなくて商人ギルドに持ち掛けてもいいかもしれない。幅広い販路があるはずだから、主殿あるじどのの手間が省けるかも――って、え、小屋!?」

「?」


 小屋に入ろうとした瞬間、説明の途中でゾーヤは素っ頓狂な声を出していた。何かに驚いたらしい。

 しばらくして俺は気づいた。


(あ、そうか。何でだか知らないけどこの小屋、現地の人に認識されてないんだっけな)


 突然小屋が現れたら確かに驚く。

 認識阻害の魔術だよ、と適当なことをうそぶいておく。

 はー……、と感心したような声を上げたゾーヤは、恐る恐るといった様子で小屋に足を踏み入れた。

 この鏡を安心して小屋においておけるのも、この目くらましの魔術があってのこと。

 どういう原理なのかは分からないが、非常にありがたい話であった。


「で、これが国を渡る鏡ね。……そうかあ、商人ギルドかあ、つてがあると嬉しいんだがなあ」

「え、え、え」


 動揺収まらぬ間に、次々と情報が出てきて困惑している様子のゾーヤだったが、俺は無視した。


「鏡、え、何だ? 鏡って、え、本当に?」

「ほら、こうやって入るの。ほら」

「うわああああっ」


 腕を入れてみると腰を抜かしていた。可愛い。

 だが俺は、商人ギルドや津軽塗の売り方の話がしたい。こんな手品で驚かしたい訳ではないのだ。


「……酔ってるかも、すまない主殿あるじどの、ちょっと落ち着かせてくれ」

「いいよ、俺の部屋で水を飲むといい」

「あ、いや、私は酔い覚ましに外で小用でもしてこようかと――」


 小用、そういえば異世界の便所事情について全然詳しく聞いてなかった。

 いずれその話も彼女から聞かないといけないだろう。

 思い返せば二人とも、昼間からずっとお手洗いに行ってなかった。俺もちょっとトイレに行きたかったところだ。



 というより外って。



「お嬢さんがそんなのでは駄目です。ほら、俺の部屋の方が近いし」

「あ、ちょっ、やめ、魔に魅入られる! 夜の鏡は怖いってお婆様がっ」


 手を繋いで鏡の中に入る。

 多分こうすれば彼女も日本に来ることができるはず。勝手にそう考えて、俺は抵抗する彼女を無理やり鏡の中に連れ込んだのだった。






 ◇◇◇






「はーっ、はーっ、はーっ……」


 半泣きだった。

 ぺたりと腰を抜かしたゾーヤが座り込んでいた。

 可哀そうに、股間を強く両手で抑えたまま一歩も動けない様子であった。


 帰って来たるは愛しの我が家。

 四畳半の狭いワンルームである。当然トイレはユニットバス。


「大丈夫か?」

「…………しっ、死ぬかと思った………」


 はーはーと息が荒い。ちょっと悪戯が過ぎただろうか。

 少し心配になって足元をみたが、ぎりぎり漏らしていなさそうだった。


 ひょっとして鏡が怖かったのだろうか。

 ともあれ彼女にとっては初めての日本である。


「ど、どこ、え、白い部屋、何これ」

「あ、待ってて、俺先にトイレ行くわ」


 俺も大概小便が近い人間である。本当はレディファーストなのだろうが、逆もある。私の後にトイレに入らないで、と意識してしまう女性は結構いる。なので俺から先に終わらせる方がいいだろう。

 時間もかからない。


「あ、主殿あるじどの、一人にしないでっ」と可愛い声が聞こえてきたので、早めに済ませてあげることにする。確かに異世界人からすれば、白塗りの壁紙のワンルームはちょっと怖いかもしれない。

 教会の墓場とか、礼拝堂とか、そんなのに近いのだろうか。


「腰が抜けたのかー? 落ち着くまでじっとしとけよー」


 しょうがないので、トイレで大声を出して会話してあげることにする。

 人生で一度も腰を抜かしたことがないので、その辺の感覚はよく分からない。腰を抜かしたら人は立ち上がれないというが、本当だろうか。となると俺が肩を貸してあげる必要があるかもしれない。


 トイレを流す。

 扉を開ける。


 ゾーヤは、半泣きで「あ、あ」と呻いていた。

 これはまずい。

 俺は駆け寄った。


「立てるか? よーし俺に肩を回せ。酔っぱらってるときに急に立つと危ないからな」

「…………」


 息が荒い。本当に危なそうである。

 幸い、小鹿みたいな震える足でゾーヤは立つことに成功していた。危ないのでトイレの目の前までは連れて行ってあげることにした。


「あとは一人でな、女性だし」

「! え、え!?」


 流石に女性のはしたない姿を見るわけにはいかない。背を向けてちょっと離れようとする。

 途端、わしっ、と強い力で肩を掴まれた。痛い。


「ど、どれっ!」

「? あ、今水が流れてる音がするやつが便所な。間違っても風呂にするなよ」

「――――――」


 声に余裕がない。

 と、同時に、風呂の蓋がばたんと倒れる音。「ひぃっ」と短い悲鳴。何か当たったのだろう。


 あいつ今のに驚いて漏らしてやしないだろうな――と急に心配になる。


(いや、振り返るな、今のは風呂の蓋の音だ。ゾーヤが転んだわけじゃない)


 ユニットバスの扉ぐらい閉めとけよ、と思ったが、そんなことを異世界人の彼女に要求するのも酷であろう。

 かといって閉めたら『閉じ込めないで!』とか泣かれそうである。

 こんなことになるなら、外でさせたほうが良かったかもしれない。


「……っ、……ぅっ」


 ――呻いている。何に苦戦してるのだろう。

 訝った俺は、一応念押ししておいた。


「言っとくけど今タンクに水が流れてるやつだからな、風呂は違うぞ風呂は」

「……っ、む、難し……ぁぁっ」

「?」


 たぱぱ、と床にこぼれる音がした。

 嘘だろトイレの蓋開けるだけだぞ、と俺は思った。だがしかし。


(あ、もしかしてトイレの蓋が分からない……?)


 気付いた瞬間。


「わああっ!?」


 ずでん、とこける音。

 これはまずい、と俺は振り返った。酔っぱらいがこけると頭を打ったりして大変である。


 そこには、トイレの真横から足を滑らせて、浴槽に背中がはまっている間抜けな女がいた。あられもない。


「ぁ、ぁ……」

「あー………」


 滴る水。

 首筋まで真っ赤になったゾーヤは、大粒の涙を浮かべて震えていた。






 ◇◇◇






 確かに水洗トイレのタンク部分は、蛇口があって水が出てくる場所である。あれは手を洗う機能なのだが、知らない人からすると分かるまい。

 あれは俺の説明が完全に悪かった。


『水が流れてくるやつ』


 その説明を聞いたゾーヤは、トイレに蓋があるなんて知らないものだから、上のタンクの水の流れる蛇口あたりを目掛けて小用を済ませようとつま先立ちで頑張っていたらしい。

 涙ぐましい。そりゃあ半泣きにもなる。

 そもそもゾーヤの腰の高さよりも高い。

 可哀そうにも彼女は、不幸な行き違いでそんな無謀なことを必死でやっていたのだ。


 酔っていて、腰が抜けていて、ふらふらの状態で、余裕がなくて半ばパニックになって。

 で、漏れそうになって焦りの末、転んでしまったと――。




「…………っ」

「ごめんごめん、泣くな、俺が悪かった」


 とにかく身体を綺麗にするため、石鹸でわしゃわしゃと全身を丸洗いする。

 毛が深い分、とても泡立ちがいい。ゾーヤの身体は今や全身泡だらけになっていた。


 大型犬とかそういうペットを洗うときって、こんな気分になったりするのだろうか。

 こういうとき、ユニットバスでよかったと俺は思う。

 トイレと風呂が近い。だから粗相があってもこうやってすぐに丸洗いができる。


 砂だか泥だか分からないが、泡立てるたびにくすんだ汚れが出てくるので、お湯で流しては再度泡を立てる。

 今度はリンス入りシャンプーで、ちょっとだけ毛のキューティクルにも気を付けて。

 大きい生き物を丸洗いするのはちょっと楽しい。毛の束を手で持って湯通しする感触。


「…………ご、誤解するな、主殿。こ、黒狼は、こんな、はしたない失敗など」

「はいはい、分かった分かった」


 ぐずぐずの声で弁明が入った。


 つんとした汗のような匂いや、人間の皮膚の匂い、獣臭い匂いがどんどん落ちていく。代わりに、俺の愛用しているシャンプーの甘い香りがほんのりと。


「…………」

「なあ、商業ギルドの話していいか? 色々教えてくれよ」


 すん、と鼻をすする音。

 こくりと小さな頷きが返ってきた。


 絶対に今するような話ではないと思うが、まあ、こういう時は気の紛れることを考えるのが一番いい。

 面倒くさくなったので、ついでに俺も一緒に風呂に入っちまおうか、と俺は泡で濡れた上着を脱ぎ始めた。






 ―――――――

 可哀そうは可愛いっていうもんね

 黒い狼とか言うかっこよさそうなお姉さんの尊厳を粉砕するの楽しいです()


 現在、コンテストに向けて執筆頑張ってます!

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 これからもよろしくお願いいたします。

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