第4話 おはよう

 ――――名前が聞きたい。

 あの子の名前を、あの絵本から出てきたような女の子の名前を。

 俺は居間のテーブルに参考書を広げて、外を見る。先程から何度も参考書を開き直して「よし! 集中するぞ!」と意気込んでも気づけばうわの空だ。


「――――綺麗だったなぁ」


 俺は素直に思う。

 あの子は綺麗だ。だから、せめてあの子の名前を知りたい。別に知って何かをする訳ではないが、俺の心が無意識に彼女の名前を求めている。


「――――やっぱり、彼氏くらいいるのかな?」


 俺は結局その日はこのまま何一つ集中することなく、肘をテーブルにつき、手で顎を抱えて、頭をボーっとさせたまま勉強を終了させて布団に潜り込んだ。



 ★翌朝★



「眠れなかった――――」


 昨晩、頭の中にずっとあの子の顔、声、走る姿、後ろ姿が脳にこびりついて離れなかった。

 しかしどんな夜を過ごそうと新聞配達の朝は自動的にやってくる。俺は布団からまだ眠くてだるい体を起こし、テーブルに置いてある母からの手紙を見る。その内容は「今日からしばらく泊まり込みでパートをするので帰ってきません。だからあとはよろしくね!」と書いてあった。

 泊まり込みでパートってなんだよ――――。と思いつつも俺もこれから新聞配達のバイトなので、手際良く準備をして、冷える外に身を出す。


「うぅ〜、さぶ!」


 別に冬ほどの痛い寒さでは無いが、首筋を優しくなぞるようなふわっとした冷気があって、長袖を着ていても肌が冷える。

 しかし、寒いからといってバイトが休みになる訳では無いので俺は上下真っ黒のダサい服で身を包み、アパートの階段を降りる。すると、俺のアパートの前に一人の女の子が信号で止まっているのが見えた。

 彼女は後ろからでも分かるくらいの美人な雰囲気を出していて、髪も遠くから見てもサラサラしていると分かる。さらに彼女は自転車に乗っていて、荷台には何か乗っている。もしかして俺と同じ新聞配達のバイトかな?


「――――あれ?」


 なんかあの子どこかで見たことある気がする。あのスタイルとあの髪色。

 もしかして――――。


「――――昨日の子?」


 そう、あの子。あの銀髪ロングの女の子が俺のアパートの前にいる。しかも新聞配達をしながら。


「あの、もしかして――――」


 俺は彼女に後ろから歩み寄り、弱々しい声で話しかける。


「え? あ、昨日の人?」


 彼女の耳にどうやら俺の声は届いたようで、こちらを振り向いてくれた。


「うん。こんな朝早くからどうしたの――――?」

「見ての通り新聞配達だよ。私は今欲しいものがあるから、そのためにバイトしてるの」

「――そっか」


 彼女はなんと真面目な女の子なんだろう。

 普通これほど美人なら男を手玉に取って、お金をずるずると男から引き出すこともできるだろうに、この女の子はそんな図々しいことはせずに懸命にバイトをして、自分で自分の欲しいものを買っているのか。


「そういう君はここで何をしてるの?」

「あ、俺も朝から新聞配達なんだ――――」

「えー! うそ! 君も一緒なんだ! じゃあこれから何度かすれ違うかもね! また会ったらよろしくね!」


 彼女はやや大袈裟にリアクションしてくれた。そして、信号が青になったので、彼女は再びペダルに足を置いて、自転車を漕ぎ出す。俺は違う方向なので、その信号から垂直の方向に体の向きを変えて歩き出す。


 ――というか、また名前を聞けなかった。最後、なぜか「うん。またね」って言えなかった。せめて名前くらい聞いても良かったんじゃないか?

 だが、彼女はもうすでに信号を渡り終えようとしていて、彼女の背中は小さくなって見えた。こんな状況で遠くから「お名前なんですかー?」なんて聞くのはちょっとアレだしな。今日はもう諦めるか。


「はぁ〜〜〜」


 俺は深い溜め息をする。別に何かあった訳でもないが、凄く振られた気分だ。


 だが、俺がこんなふうに若干落ち込みながら下を向いていると、彼女がこちらに戻ってきた。しかも立ちこぎで。そして、彼女が俺の体スレスレに自転車にブレーキをかけて止まる。


「あと! おはよう!」

「――え?」


 この勢い感に俺は呆然としてしまった。

 だってわざわざ「おはよう」を言うために一度別れたのにまた戻ってくるなんてどんだけ礼儀正しいんだよ。


「だから! おはよう!」

「あ、おはよう……」


 俺は挨拶を返した。

 そして彼女はニカッと笑ってこの場から全力の立ちこぎでまた去っていった。

 俺はまたもやこのこの空気の温度感の差にボケーっとしてしまった。


「――――でも言えた。よかった」


 

 




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