第3話 オークの少女
深い新緑の木々の間を抉るように出来た道を力一杯に踏み荒らしながら走る影が二つある。その内の一つは抱えた槍を時には右手、左手、果ては両手と器用に持ち換えながらひた走っていた。
そしてそれを追うようにその何倍もの大きさの巨影が前の影ごと踏み潰す勢いで追う。踏み出す一足は大地にめり込む程の重量を持ち、異形にも見える鉱物のような筋肉で固まった腕は周りの木々を薙ぎ倒していく。
巨影から必死に距離を取っている影ーー王国騎士団辺境探査団員の一人、エカテリーナは休む間も無く走り続けていた。
(くっ、何なんだこのばかでかいオークは! こいつに見付かってからというもの、かれこれ数時間は走らされているぞ!)
リーナはちらりと背後を窺いながら悪態をついた。背後の巨大なオークは正にこの瞬間にその丸太の様な腕を振りかぶり、リーナを目掛けて真っ直ぐに振り下ろそうとしていた。
「グオオォォォーーーーーッッ!!」
(ま、まずいっ!)
空気を鈍く切りつけながらオークの腕は深々と地面に叩き付けられる。その衝撃は轟音と共に辺りの木々を揺らしながら広がった!
(……あ、危なかった! もう一歩ずれていたら私は潰されていた!)
一歩の違いで道に穿たれた穴が自身の墓穴になっていたのかも、とリーナの背筋に冷たいものが伝う。
(うぅ……このままではいずれ捕まって殺されてしまう!)
リーナは息を切らせて苦悶の表情でとにかく走っていた。リーナの装備が如何に魔石を応用した軽装な物だとしても、その重みが着実に負担となりリーナの体力を確実に削っていく。それとは対称的にリーナを追うオークは腕を振り回しながら薄ら笑いを浮かべている。その二人の表情から見ても形勢の逆転は不可能であり、いずれはリーナにとって残酷な結果を残してしまう事は火を見るより明らかであった。
(それにしても走っても走ってもセーニャ達が見えないが、まだなのか……っ!? 先程微かにこえたセーニャの声と遠目にうっすらと見えた目印のような物を頼りにここまで走ってきたが……このままでは……っ!)
今にも折れそうなリーナの心を辛うじて奮い立たせているのは、この巨大なオークが響かせる轟音と身体を突き抜ける衝撃の最中を縫って聞こえた幻聴のようなセーニャの声だった。
しかし今となってはそれは本当に幻聴、幻覚だったのかもとリーナは弱気になっていく。それを切っ掛けに徐々に自身の四肢から力が抜けていくのが分かる。
(……やはりあれは幻聴だったのかもしれないな……あれからどれだけ走ってもセーニャ達の影も形も見当たらない。こうなっては私も直に後ろのオークに……)
「ーーリーナ! おいリーナ!」
(……また、幻聴か。それにしてもこんな時に聞こえる幻聴が先程出会ったばかりのエルフの物だとは……我ながら交遊関係の稀薄さが伺えてしまうな)
「聞いてるのかリーナッ!」
「えっ!? あ……セ、セーニャか!?」
ハッとして声の方へリーナは顔を向けると、そこにはいつの間にかリーナと並走しているセーニャの姿があった。
「そうしてぼうっとしていると後ろの奴に踏み潰されてしまうぞ! いいかリーナ、この先に固い蔦を寄り合わせた即席の縄が線を引くように置いてある。それを飛び越すまでに私達はもう少し後ろのオークと距離を取らねばならない。まだ走れるか?」
「ふん、当然だ! この王国騎士団の底力、とくと見るがいい!」
(居た! やっぱりあの声はセーニャだったんだな! うぅ……あの時の声を信じて走ってきて良かったなぁ……)
リーナは並走するセーニャの存在がとても心強く、思わず目頭が熱くなるのを感じた。
「……なぁリーナ、お前……もしかしてちょっと泣いてないか?」
「な、泣いてない泣いてない! この王国騎士団員の私が泣くはずないだろ! 出鱈目言うな、バカセーニャ! うおおおぉぉぉぉーーーーーーっっ!」
零れた涙を隠すように声をあげてリーナは一直線に走っていく。左の腕で両目を拭って、涙を決して悟らせないようにしてセーニャとオークを大きく引き離していく。
「ちょ、おいリーナ! 下、下をちゃんと見ろっ! 縄が置いてあるって言ってる……あぁっ!」
「えっ? あっちょ、どわぁぁぁぁーーーーっ!」
リーナは足元に敷かれた縄に足をとられると、勢いもそのままにゴロゴロと転がった。その余りの滑稽振りにセーニャは頭を抱えたが、直ぐに気を取り直して声をあげた。
「全く……いいかよく聞けバカリーナ、お前はそのまま転がってでもいいからとにかく距離を稼げ! それと宗一、準備はいいな!?」
「えぇぇっ!? くっ……え、えぇーーーいっ!」
「こっちは準備万端だ! いつでもいいぞ!」
リーナがゴロゴロと転がって行く道の脇の茂みから宗一は返事をする。その手には蔦を寄り合わせた縄がしっかりと握られている。縄は道の脇にどっしりと鎮座している巨木の側面を通り、そのまま対面側に生えている巨木に結び付けてある。つまり宗一が縄を引くと巨木から巨木に道を塞ぐように縄を張れるようになっていて、今は巨木から巨木を挟み、全体としてはL字を描くようにして宗一の手元まで敷かれている。
これは少しでもオークの巨体を抑える為に考えた即席の罠である。例え宗一とセーニャが思いきり引っ張りあったとしても、オークの巨体を抑えきれずにお互いが引っ張られるだろう。片方を巨木に結んであっても厳しい、なので少しでも摩擦をかけてオークを転ばせる可能性を上げために、と宗一とセーニャは事前に打ち合わせをしていた。
(さて、先ずはあのオークの足を上手く引っ掛けないとな。その後の作戦は上手くいくか分からないけど、これを失敗したらセーニャ達が危ないんだからしっかりしないと……)
宗一は緊張からか額には汗が滲み手足が強張るのを感じたが、ゆっくりと深呼吸をしてセーニャが縄を飛び越すその瞬間を待つ。
「よしっ! 宗一、縄を思い切り引けーーっ!」
セーニャの声が宗一の耳に届く。その瞬間、宗一が自身の身体を意識するよりも早く跳ね上がるように身体が反応して縄を思い切り引っ張った。引っ張られた縄は人で言うと腰の辺りの高さにあったが、尋常ならざる体格のオークが相手ではそれでも脛の辺りまでにしかならなかった。
「オオオォォォォーーーーーーーッッ!!!」
みしり、と縄を引く宗一の手が逆に引っ張られる。オークの足が縄に引っ掛かったのだ。
(来た、掛かった! 引けっ! 一瞬でいいんだ、体勢を崩すまで引っ張れぇぇぇーーーーっ!)
「うぅおおぉぉぉりゃぁぁぁーーーーーーっっ!」
宗一は逆に引っ張られながらも尚も足を地面に突き立てて踏ん張り、渾身の力で引っ張り続ける。オークの巨大な体格からいって完全にその重みを受け止めるのは不可能だ。それでも突如現れた障害物に足をとられればどんな生物でも体勢を崩すものだと宗一は考えていた。
「ゴオオオオォォォォォーーーーーーッッ!!!」
オークの咆哮と共に地響きが三人の身体を震わせる。オークの巨体が地面に伏したのだ。オークは倒れながらもその巨体から伸びる腕を真っ直ぐに地面を転がるリーナに向けて差し出した。
「え、わっちょ、ひ、ひぃぃっ!」
リーナは迫り来るオークの手を寸前の所で身を捩ってかわした。それを見ていたセーニャは安堵の息を吐き、素早く身を翻すと宗一が居るであろう場所へ声をかける。
「宗一っ! 早く縄を持ってこっちへ来てくれ!」
「あぁ、今直ぐにそっちへ向かう!」
宗一は返事をしながら縄を持ってセーニャ方へと駆け寄った。その際に転んだ衝撃からか唸り声をあげながらも未だに身を起こさないオークの巨体に袈裟がける様に縄を引っ張りながらセーニャを目指す。これも二人の間で事前に決めていた作戦であり、その為に編まれた縄は大分余裕を持って作られていた。そして持ってきた縄をセーニャに渡すと、セーニャは手早く近くの木に縄を縛り付ける。こうして縄はオークの巨体を地面に抑える様にして縛り付けられたが、その巨体を完全に抑える事は難しくあくまで時間稼ぎにしかならないのは明らかである。
セーニャはオークが伸ばした手の先に踞っている、転がり続けたせいか少し土に汚れたリーナに声をかける。
「おいリーナ、いつまで踞っているんだ。出番だぞ!」
「……うっぷ、目が回って吐きそう。ちょっとま、待ってくれぇ……」
「早くしないとオークがまた起き上がってしまうだろ! 私達の中でまともな武器を持っているのはリーナだけなんだから早くしろ!」
「えぇ……そんな、うぷっ!」
「この、いい加減に起きろっ!」
セーニャは苛立った様子でリーナを引っ張り起こした。しかしその僅かな間にもオークを押さえ付けている縄はみしみしと軋みをあげていて今にも千切れそうであり、残された時間が多くは無いのを宗一は肌で感じていた。
「リーナ、俺からもどうか頼むよ。前にオーク達を一掃した技とかでなんとかこのオークを倒せないか? あの縄もそんなに長く持ちそうにないぞ」
「ちがっ、そうしたいのは山々なんだが……」
「山でも川でもなんでもいいからさっさとやれ! ばかリーナ! オークが起きてしまうだろ!」
「……できないんだ! もうこの魔石に魔力は残っていないし、私は元々魔法が得意では無くて、魔力を上手く出せないんだ……だからこの魔石に頼っていたのだが……」
リーナの言葉は段々と小さくなっていき、それに伴ってリーナ自身も俯いて萎縮していく。宗一がリーナの胸元に目を向けると、確かに以前に見た時と比べて胸元の魔石と呼ばれた部分は輝きは失せており暗く沈んだ雰囲気を漂わせている。
「……それならその槍で突き刺してみる、とか?」
宗一はリーナが持っている槍を見ながら言った。例え魔法が使えなくても槍としては使えるだろうとの提案だったが、リーナは力無く首を振るとぽつりぽつりと呟いた。
「うぅ……そ、それも駄目なんだ。これは普通の槍ではなくて、魔力を通すと切れ味が増す仕組みの魔装具だから、魔力が切れると槍というより鈍器に近いほど切れ味が悪くなる……」
俯き、がくりと肩を落とした今にも泣きそうなリーナを見て、宗一はまるで自分が苛めているようだと居たたまれなくなる。そこで助けを求めるように宗一は視線をセーニャに送った瞬間に、宗一達の後方からブチッと何かが弾けた音が響いた。三人は反射的に音のした方向を振り返る。
「グオオォォォーーーーーッッ!!」
「まずい……縄が千切れたぞ! 宗一、リーナ、今はとにかく逃げるんだ!」
オークの怒号と同時にセーニャが叫び、三人は堰を切ったように走り出したが、一歩、いや二歩も駆けた所で足を止めてしまった。それ以上はある集団に阻まれて足を進める事ができなかったからである。
「…………っ!」
三人の道を塞ぐように現れたのは、身体の局部を隠す最低限の布を身に纏った筋骨隆々なオーク達であった。その集団の双桙が三人を容赦無く射抜く。その重圧は三人の身動きを封じるには十分すぎる程であった。
「ゴアアアアァァァァァァーーーーーッッ!!!」
その場に居る全員が震え上がるほどの咆哮が各々の耳を劈いた。宗一が背後からの恐怖に思わず顔を歪めた時、視界の端でセーニャが小声で耳打ちをした。
(宗一、リーナ、聞いてくれ。一か八かオークの集団に突っ込むより、後ろの巨大なオークをすり抜ける方が幾分かマシだろう。振り向くと同時に走るぞ、いいな?)
セーニャの提案に宗一とリーナは目配せをしながら頷く。
(よし……いーー)
「ねぇ、いい加減邪魔なのです。そこのおめーら、私達の邪魔なので早くこっちに退いて欲しいのです」
セーニャの言葉を遮りながらオークの集団からずいっと一歩前に出てきたのは、他のオークに比べると小柄なオークであった。
(これは……オークの女の子なのか?)
整えられた銀髪に控えめながらも衣服を押し上げて主張する胸元が宗一にそう思わせた。少女は武器などを手にしておらず、その無防備な振る舞いからも敵意は感じられない。
「えぇ、と……君達は俺達の敵じゃないのかな?」
「……んっ」
少女は宗一の言葉を無視して小さく宗一にだけ見せるように上を指差した。まるで、上を見ろと言わんばかりに……。
「ガアアアアァァァアアアーーーーーーッッ!!」
そこには巨大な握り拳が浮いていて、オークの咆哮と共に今正に落ろされようとしていた。宗一は咄嗟に手を頭上に翳したが、それで防げる物では無いと理解はしていた。
(逃げる……? いや、セーニャとリーナの二人を守らなきゃ……どうやって? 駄目だ、これ……全員が死ぬ!)
「むぅ……だから邪魔と言ってるです」
宗一が遅疑逡巡として戸惑っていると、突如視界がぐるりと回転する。それが少女の手によって持ち上げられたからだと気付くのは、その後直ぐに投げられてからであった。
(あの体格でなんつー怪力だよ! 俺を軽く投げ飛ばすなんて……それでこれってどうやって着地すれば……?)
その内に宗一の疑問はオークの手によって直ぐに解決される。後方に居たオークがその両手でがしっと宗一を軽く受け止めたからだ。それから後を追うようにセーニャとリーナも受け止められていた。どうやら宗一と同様に少女が投げ飛ばしたようだ。
「ははは……ナイスキャッチ」
宗一の言葉に受け止めたオークはニヤリと笑った。どうやらしっかりと言葉が通じるようだった。
「おめーら、とりあえずそいつらを持っていくです」
「へいお嬢!」
女の子の言葉を合図にオークの群れは素早く散開し始めた。それは宗一達を持ったオーク達も例外では無い。宗一は肩に担がれたまま、がっちゃがっちゃと乱暴に運ばれて吐きそうになっていた。
「も、もうちょっと丁寧に運んでくれよ! 余り揺らすとここで吐くぞ!」
「無茶言うな人間の小僧! 余り喋ると舌を噛んじまうから黙ってろ!」
「いて、いって! くっそ、本当に吐くぞぉぉ!」
宗一の陳情も虚しく、三人はオークの群れによって運ばれて行った。その後方で残っていた少女を含む少数のオーク達と巨大なオークは睨みあっている。
「グ、グゥゥゥ…………ッッ!」
巨大なオークは手で顔を覆っており苦しんでいる様子だったが、その手から垣間見える双桙が真っ赤に染まり、オーク達を睨み付けている。
「お嬢、粗方の退避は完了しました。そろそろ俺達も退きましょう」
「あい、わかっているです。煙幕の用意をすーー避けるですっ!」
「ガアアアアァァァアアアーーーーーーッッ!!」
咆哮と共に振り下ろされる巨大な拳をオーク達は素早く回避した。自身を狙った巨大なオークを見上げる少女の瞳には驚きと恐れが浮かんでいる。
(私達相手でも拳を振るうなんて……もう、ここまで……やはり、駄目なのですか……?)
巨大な拳が地面に衝突した際に巻き起こった噴煙を縫って、巨大なオークの周りからボシュッと何かが炸裂した。それはいくつも投げ込まれ、音をたてながら勢いよく煙を撒き散らす。
「ググゥゥ……」
煙に囲まれた巨大なオークは闇雲に辺りを当たり散らすが、女の子が率いるオーク達は既に姿を消していた。
(兄上……もう、私の事も分からないのですね……)
森の中を一目散に駆ける少女から一条の滴が落ちる。
(ここまで来たら……私も覚悟を決めるです……っ!)
涙を拭い、決意を新たにするその瞳には涙の跡すら見当たらない。代わりに燃えるような鮮血を思わせるオークの紅い瞳が、強く輝いていた。
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