異世界の果て、その始まり

@kokukosetsu

第1話 異世界勇者……ではない人

 力強く生い茂る森林の木々を打ち付けるように強風が吹いている。風に揺らされた木々の葉が擦れ合い、それがざわめきとなって辺りを賑わしていく。そのような喧騒の中でぽっかりと穴のように丸く切り抜かれたような森林の一角があった。その開けた場所は全体が真っ赤に染まっており、まるで森林が大きく口を開けているかに見えた。その中心地にポツン、ポツンと人影が二つ、森林の口に放り込まれたように倒れている。


 風の音が過ぎ木々のざわめきが止む程度の時が経つとその人影の一つがもぞもぞと蠢き出した。その動きは生まれたての赤ん坊のように辿々しく、また弱々しい。そのうちにごろんと転がるようにして大手を開き、仰向けに寝転ぶ形になった。


「こ、ここは……一体……」


 青年にも少年にも見える男の口から溜め息に似た言葉が漏れる。男は驚嘆と落胆を合わせたような複雑な表情を浮かべたが、その内に己の身体を預ける場所が何か赤い液体で滴っているのに気付いた。


「これは……ま、まさか……」


 その赤い液体の正体を知ろうとした時、男の意識は急激に覚醒し始めた。男は先ず自分の身体をぎこちない動作で触診した。どうやら自分の血では無いようだ、と安堵の息を吐くと男はべっちゃりと赤い液体に浸った背を引き剥がすようにゆっくりと身体を起こした。


(身体は……大丈夫、怪我は無いみたいだ。それにしても、ここは一体どこなのだろう? 俺は一体どうしてここに……?)


 男は周りを見渡したが、理解できたことは木に囲まれている事と、この開けた場所が赤い血液の様な液体でぐっしょりと濡れているという事だった。その異常性を肌で感じて身の震えるような悪寒が身体にまとわりつくが、男はそれよりも先に誰かに監視されているような視線を背中に感じた。男は感じるままに背中の方へとくるりと身体を向ける。向けた視界の下方には身体中に赤黒い血を身体中にべっとりと付けた女性が横たわっていて、男は思わず大丈夫か、と声を出そうとしたが、それは先程も感じた強烈な視線に阻まれた。男が覗いている視界の奥、この血溜まりから延びる様に点々と続く赤い足跡の先に真っ黒な甲冑が佇んでいた。


 甲冑の重厚な出で立ちは中世の騎士と言えば聞こえは良いが、その禍々しささえ感じる黒色と足元に滴る真っ赤な血が男の脳裏に危機感を覚えた。


(こんな所に何故騎士が!? 足元の血から考えるに倒れている女性をこ、殺したのは……こいつなのか……?)


 男はその有り得るような、有り得ないような現実感の無い思考が堂々巡りしていて、上手く現実を飲み込めずにいた。そんな男を嘲るかの様に、黒い騎士はゆっくりと、しかし堂々とした様子で男に近付いて来た。


 黒い騎士はずしり、ずしり、と一歩進めば地が歪みそうな迫力を伴いながら男に向かって歩を進める。数歩進むとその足は血溜まりに差し掛かり今度はべしゃり、べしゃりと血を蹴りながら黒い騎士は進んだ。向かってくる黒い騎士にたいして男はただ呆然と見詰めている。


(俺はこ、殺されるのか……? 逃げなければ……!)


 男が逃げなければと思うほど身体に震えが走り、黒い騎士に背を向ける事すら叶わない。背を向けた瞬間に斬られるかも知れないと、男にはそう思えたからだった。そして遂に黒い騎士は男の目の前まで来ると腰に差した真っ黒な鞘ごと剣を抜いた。


「や……止めてくれ……!」


 口からやっと絞り出せた男の言葉に黒い騎士は溜め息でもつくかの様に大きく肩を上下させると首を左右に振った。


「ふしゅるるる…………ぐわぅごぅぅぅーーーっっ!」


 黒い騎士の口元から漏れた鳴き声とも咆哮とも取れるその言葉の意味は男には分からなかったが、声と共に振り下ろされた物に対してただ手を掲げる事しか出来なかった。


「うわぁぁーーーっっ!」


 男の叫び声が辺りに響くと同時に、ゴンッと鈍い音が鳴り響いた。黒い騎士が鞘ごと振り下ろした剣で男の頭を叩いたからであった。


「あっ……が……くっ…………!」


  声にならない激痛が男の頭上から降り注ぐ。それは頭の先から首、果ては足の爪先まで衝撃が走ったかの様で、男は只々目を見開いて頭を抱えその場に踞る事しか出来なかった。


(な、なんだこいつは! いきなり頭をぶっ叩いてきやがって!)


 男は痛みが増すと共に怒りが沸き上がり、先程までは恐ろしくて仕方がなかった黒い騎士相手とはいえ怒りが恐れを塗り潰し、とにかく文句を言ってやろうと痛みに耐えながら顔を上げた。しかしそこには黒い騎士が遠ざかっていこうとする背が見えるだけであった。


「お、おい! あんた一体何なんだ! いきなり襲ってきたり……それに、ここは……?」


 男の問いに黒い騎士は近寄って来たときとは逆に、べしゃりべしゃりと血溜まりを踏み荒らしながら一瞥もくれずにゆっくりと遠ざかっていく。男は黒い騎士の行動に混乱するばかりで、頭の痛みさえも忘れてしまいそうだった。しかし、黒い騎士が森に差し掛かった時、その脇にある草木がガサガサと大きく揺れた。


「グガァァァァッッッ!!」


 揺らした草木を薙ぎ倒し、咆哮と共に現れたその熊は2メートルをゆうに超えた巨体で、黒い騎士に向かって上げた両手を今にも振り下ろそうとしていた!


「お、おい、逃げろ! 聞こえてないのか!?」


 男の叫び声にも似た呼び声にも黒い騎士は応じることは無く、腰の左に提げてある剣を右手で握ると、そのまま勢いよく熊に向かって振り上げた!


 その瞬間、熊はべちゃっと身体が水風船かのように破裂し、頭と四肢をその場に残し、破裂して露になった血と内臓が後ろに弾け飛び、辺りの草木を赤く彩った。


 男は呆然としてその光景を見つめていたが、やがて黒い騎士がそのまま事も無げに森の奥へと消えていったのを切っ掛けに男は深い安堵の息を吐いた。


「な、なんだったんだあいつは……」


 男の声は森のざわめきの中へと消えていく。男はその現実離れした光景と、今自分が陥っている状況の答えが出せずに頭を抱えた。その瞬間、頭に鋭い痛みが走った。


(いてて……叩かれた所がこぶになってら。そりゃなるよな、あんな力で叩かれりゃ……でも、あの黒い騎士が本気なら今頃俺は……)


 男は辺りに散らばった熊の残骸を見ながらぞっとする思いを感じた。火薬を使った訳でも無いのに、あれではまるで……と考えて男は頭を振った、そう考える事ですら荒唐無稽に思えたからだ。そう……まるで魔法の様だ等とは決して言えなかった。


「……んっ、うぅ……」


 男の耳に呻き声が届く。それは目の前で横たわる女性のもので間違いなかったが、男は俄には信じられなかった。刃物で何度も刺されたであろう服の損傷から察するに、とても生きているとは思えなかったからだ。


「お、おい……大丈夫か!?」


 男は恐る恐るといった腰の引け具合で女性の元へと辿り着くと妙な事に気付いた。女性の服は所々切り裂かれた様にボロボロで、その切り口から溢れ出たかの様に鮮血が拡がっていたが、切り口から見える肌には傷の一欠片すら見付けられなかった。それも一箇所だけでは無く、どこの切り口も一緒であった。


「この女性……怪我をしている訳じゃない……いや、まるで怪我が治ったような……これではまるで……」


 魔法だ。と、寸での所で言葉を飲んだ。そんな事は有り得ないという観念がどうしてもその言葉を男に飲み込ませた。


「とにかく、この人をこのままにしておくのもな……せめて意識を取り戻してくれれば良いけど……」


 男は横たわる女性を軽く揺さぶってみる。所々を鮮血で彩られた服は男には見慣れない民族衣装の様にも見えた。


(しかし……怪我している訳では無いから、切り口から見える肌がかなり際どいな……倒れている女性には失礼だが……)


 揺さぶる度にちらりと見える女性の肌が男を刺激したが、男はいかん、いかんと頭を振るとまた呼び掛けに集中した。その内に女性の呻き声の間隔も短くなっていき、遂には女性の眼がゆっくりと開かれるに至った。


「うぅ、こ……ここは……?」


 女性の絞り出したような声に男は女性の意識が回復したことに喜んだが、直ぐに男は苦々しい顔で首を振ることになる。


「俺にもわからないんだ、すまない……。俺も今さっき気付いたばかりで何も状況を把握できていないんだ」

「…………むっ!」


 その瞬間、眼を見開いた女性が差し出された男の手を掴んでぐっと男の手を引き寄せ、そのままの勢いで男をぐるりと引き倒して男に跨がるようにして体重を掛けた。男の視界はぐるりと回り、次の瞬間どすんと乗られた勢いでぐえっと呻き声が漏れ出る。


「貴様……何者だ!? あいつらの仲間かっ!?」

「うぐっ……い、いってぇ……よくわからないけど、多分違う……!」


 息も絶え絶えな男の返事に女性は納得しない様子で続ける。


「おい、もう一度聞く。返事次第では貴様の眼球を潰す……ここに私の里を襲ったオーク共がいたはずだ! あいつらは何処へ行った!」

「しら、知らない! 俺も気付いた時には此処に倒れていて……俺自身もさっき気が付いたばかりなんだ! 本当だ、信じてくれ!」


 女性は両膝で男の両肩を押し潰すように押さえ付け、その鋭い眼光で男を見下ろしている。男は両肩の痛みに耐えながら、必死に助けを訴えていた。すると一瞬、男の胸辺りが淡く光輝いて見えた。それを見た女性は一瞬目を見開いて驚いた様子を見せたが、やがてふうっと一息吐くと男から降りた。


「む……そうか……とりあえず今はその言葉を信じよう。いきなり押さえ付けてすまなかった。私はセーニャ・クィンという。セーニャと呼んでくれて構わない」

「あー、俺は柏崎宗一、宗一でいい」

「そうか、珍しい名前だな。えーと、宗一は……人間か?」

「当たり前だ。セーニャには俺が人間に見えないのか?」


 若しくは人間に見えないほど顔が崩れているとでも言うのかと、祐一は視線で訴えた。するとセーニャは首を振って言葉を続けた。


「いやなに、逆に人間にしか見えないから不思議だと思ってな。このような深山の奥深い所に人間が来れるとは思えないのだが……それより近くの湖にでも行かないか。お互いの身体が血塗れでとても見るに耐えない」


 セーニャはそう言って先導するかのように歩き始めた。宗一はその後をとぼとぼと着いていく。己の現状を省みても、他にどうすることもできそうに無かった。


 湖への道すがら、セーニャは幾つかの木の実と草を手に取っていた。宗一がそれは食べるのかと聞くと、セーニャはこれは食べるものではないよと笑って答えた。そんなやり取りをしながら歩いていくと、やがて二人は広く大きな湖へと辿り着いた。


「さてと……宗一、この木の実と草を擂り潰して置いてくれ。そこらにある適当な石を使ってな、だけど出てくる液体は溢さない様にしてくれよ。私はその間に焚き火の用意をしておこう」


「……はぁ、分かった。擂り潰せばいいんだな?」


 宗一は半ば諦めたように返事をした。渡された木の実と草を手に取ってまじまじと眺める。宗一には見たことの無い物だったので、セーニャがこれを使ってどうするのかは宗一には検討も付かなかった。


 そうして暫くの間、ごりごりと石の上で木の実と草を擂り潰していると、セーニャが此方の様子を伺いに来た。


「どうだ、出来たか? よしよし、上出来だな。此方も今しがた火が付いた所だ。では先ずはお前から湖に入るといい。宗一が擂り潰したこれも持っていけ」

「セーニャ、一体これは何なんだ? この苦そうな汁が何の役に立つんだ?」

「ふふふ、これはな、こうして衣服に付けて洗うと……こんなに汚れが落ちるんだ! どうだ? 吃驚しただろう? 血の汚れもきちんと落ちるんだぞ!」


 セーニャが少し興奮して説明すると宗一は納得した様子で頷いた。


「そうか、これは洗剤の代わりになるのか。確かにお互い怪我はしていないが血だらけだからな。ありがとう、早速使わせて貰うよ」


 宗一は洗剤代わりの汁を手に取ると、脱いだ衣服も手に持ちながら湖へと入っていく。湖の水は長く入るには冷たすぎたが、その冷たさが宗一のどこか浮わついた気持ちを引き締め、同時に宗一の記憶をゆっくりと呼び覚ましていった。


(俺は……そうだ、買い物帰りにトラックに轢かれたんだ。いや、轢かれる瞬間、眩しい光に包まれたような……そもそも何でトラックに轢かれたんだ? えーと、確か……近くに住み着いていた猫のミケと犬のポチが道路で喧嘩していて、あいつらが轢かれそうだったから助けようとしたんだ)


 宗一の脳裏に段々とその時の光景が映し出されていく。しかしいくら記憶を探っても倒れていた場所には辿り着かなかった。


(あの時に助けたミケとポチは無事だろうか、俺は迫ってくるトラックからあいつらを助けられたのだろうか。もしかしてあいつらもあの時の光に包まれて……)


「…………い、おい! 宗一、何をぼさっと突っ立っている!」

「え、う……うわぁ! 何でお前がここに……しかも裸じゃないか!」


 宗一はセーニャの方から目を逸らそうと身体を捻った、するとその反動で足を滑らし、バランスを崩して湖の中へと突っ込んだ。


「何をやっているんだ! おい、しっかりしろ!」

「げほっごほっ! お前こそ何をやってるんだ裸で! 恥ずかしくないのか!?」

「そんな子供みたいな事を言うな! さぁ日が暮れる前にまだまだやることがあるんだ。ぼーっとしてないで服を洗え!」

「わ、わかったよ……」


 そう言って宗一はセーニャの立って居ない方を向きながら衣類を洗った。木の実と草を合わせて擂り潰した汁の効果は思いの外に凄まじく、あれだけ血塗れだった衣類からは血の跡すら感じさせない程であった。


「これは……凄いな」

「んふふ、そうだろう? 我々エルフは森の恵みを最大限に活かす術を知っている。このような事、造作もない!」

「……今何て言った?」


 動きを止めて、宗一は聞き返した。


「……森の恵みを最大限に活かす術を知っているぅ!」

「違う、そこじゃない。もっと前だ!」

「…………んふふっ!」

「それは遡り過ぎだ! あーもう、これじゃ埒が明かないじゃないか!」


 苛立った様子で振り向いた宗一を、まるで悪戯を仕掛けた子供のようにセーニャは笑った。宗一にはその眼前の光景が一枚の絵画に見えた。湖の浅瀬に立つセーニャ、その透き通るかの白い肌、日の光を受けてなお輝きを増す流れるような金色の御髪、すらっとした均整のとれた身体。そしてそれらに似つかわしくない程の存在感を放つ緋の眼差し。セーニャの細かい息遣いが起こす水面の揺れも湖畔に佇む木々すらもセーニャを祝福して見えた、少なくとも宗一にはそう感じたのだ。


「な、あ……」


 宗一は言葉に詰まって二の句を告げる事は出来なかった。そして振り向いた顔を戻しても、脳裏に焼き付いた一枚の絵画の余韻が宗一に深い溜め息を吐かせた。


(美人だなとは思っていたが、血の汚れが落ちた今はそれ以上に感じる。正直、見た俺の方が気圧されてしまうぐらいだ。なのに……)


「……セーニャ、お前は男の俺に見られて恥ずかしくないのか?」

「……さてな。何せ男というものをこれ程近くで見たのは初めてだからな。どうせだから後学のためにもっとよく見せてくれないか?」

「……絶対に嫌だね! 俺はもう上がるぞ!」


 捨て台詞に近いものを吐き捨てて宗一は水辺から上がり、パチパチと音をたてている焚き火の元へと近寄る。後ろからはつまらん奴だと野次があがったが、宗一は態と後ろを意識しないように歩いている、宗一のせめてもの反抗であった。それから暫くしてお互いの衣類が着れる程乾いた後、改めて宗一とセーニャは焚き火を挟んで向かい直した。


「さて、これで漸く一心地ついたな。それでは宗一、先ずはお互いの状況の整理を……」

「待て」


 そう言って手を構えながら宗一はセーニャの言葉を制した。言葉を止められたセーニャは宗一を睨み、言葉を投げた。


「……今度は何だ、話の腰を折りたがる奴だな」


 やれやれとでも言いたそうな顔のセーニャに宗一は無言のまま羽織っていた上着を脱いで差し出した。これで宗一が着ている物は簡素なシャツ一枚になってしまうが、ちらちらと視界に漂い宗一の煩悩を刺激するセーニャの柔肌を覆い隠すには仕方ない事であった。


「着ろ、いや……着てくれ」

「何のつもりだ? 私は別段寒くは無いのだが……」

「違う。その……セーニャの服は所々穴が開いていて、俺は目のやり場に困ってる。このままじゃとてもそっちを見てられない、だから俺ので悪いんだが、とりあえずその服を着てくれないか?」


 宗一はセーニャから顔を伏せながら言った。セーニャにとっては穴だらけの服などは多少風通しが良くなった程度にしか思えなかったが、宗一が伏せた顔からでも分かるくらい赤みを帯びた顔をしていたので、仕方なくその服を受け取った。


「わかったわかった、宗一がそこまで言うなら仕方ない。それならほら、代わりにこれを受けとれ」

「代わりにってなんだよ……」


 セーニャが代わりにと差し出してきた何かを受け取ると、宗一はそれを確認するなり顔を上げた。


「いやいやこれはセーニャの服だろ、俺はいらないよ……ってまだ服を着てないじゃないか! せめて着てから寄越せ! いや、いらないけど! あーもう、何なんだよ!」

「お互いの服を交換しようという事じゃなかったのか? まぁいい、私がこの宗一の服を着ることでお前が満足するなら着てやろう。ふむ……しかしこの留め具は中々難しいな。宗一、すまないが代わりに付けてくれ」

「そんなことできるか! ボタンぐらい自分で留めてくれ!」

「しかしなぁ、うーむ……うむ……よし、無理だな。まぁ前が開いていても構わんだろう。それで、お互いの情報をだな……」

「……こっちはちっとも良くない! ちょっと待ってろ!」


 ひらひらと上着の裾が揺らめく度にセーニャの透き通るような白い肌がちらりちらりと宗一を悩ませる。宗一はこのままではとても冷静に話を出来るとは思えなかったので、苦々しい顔をしながら、セーニャの上着のボタンを留めていく。


(……見知らぬ場所で、見知らぬ女性の上着のボタンを留めるとかどういう状況なんだ。くそっ、緊張してボタンが上手く留められない!)


 宗一の動作はぎこちなかったが、それでも一つずつゆっくりと留めてられていくボタンを見てセーニャは微笑んだ。


「宗一は器用なんだな、私にはこのボタンは少し小さすぎる」

「五月蝿いぞ、こっちは集中しているんだ……」


 宗一が下から一つ、また一つとボタンを留めていくと遂にはセーニャの胸元へと辿り着いた。均整のとれた身体といってもセーニャの胸の膨らみは女性らしさをこれでもかと主張していて、その存在感が宗一の手をピタリと止めた。

「ん……どうした、あとたった三つだろう?」

 挑発的な響きを持ったその声にも宗一の手は動かない。むしろその声と慈しみさえ感じる眼差しが宗一の動きを完全に止めたといっても過言では無い。


「セーニャ……あと三つ、このあとたった三つぐらい……自分で留める事は出来ないかな?」


 止めた手は微かに震えを伴い、それが声に伝染したかのような震え声の必死な抗議。それが窮地の懇願ではなく羞恥の果てというのは、宗一の顔に朱が染まっている事から明らかであった。


 するとセーニャは「ふぅ……」とまるで子供をあやすような微笑みを浮かべた息を吐きながら、宗一の手を自らの手で掴み、胸元へと引き寄せた。


「あと三つだ、子供では無いのだから……最後までやらねばな……?」


 それはボタン程度を自分で留められないのと、どっちが子供だ! と咄嗟に出そうな言葉は宗一の喉奥に埋まったままで、セーニャに抑えられたままの手はそのまま上着越しにセーニャの胸へと微かに触れる。


「お、おい……! 触ってる、触ってるって……!」

「胸元にあるのだ、多少は触れねばボタンは留められまい?」

「胸に触れられてなんでそこまで気にならないの!? もしかして気にしてる俺の方がおかしいの!? あーもう! じっとしてろ!」


 宗一は羞恥心を隠すようにして声を荒らげると上着のボタンをパパっと二つ留めた。


「はいっおしまい!」

「おい、まだ一番上が残っているぞ?」

「首元のそこを留めると息苦しくなっちまうから留めなくていいんだよ」


 宗一の返答にセーニャは納得しない顔で「だが……」と続ける。


「……首元のボタンを止めてなくても、私は胸元が息苦しい……ぞ?」


 上目遣いに宗一を覗き込んだセーニャの胸元は、男物の上着を無理に着せられた所為でボタンを弾け飛ばしそうな程にくっきりと隆盛を見せており、宗一は思わず息を飲んだ。


「……それはもう、我慢してくれとしか……」


 上着のボタンとボタンの間に見えるセーニャの乳房の重なりが谷間となって宗一の目を惹いたが、そこから無理矢理に目を逸らして呟いた。その言葉にセーニャはふぅ、と息を吐くと宗一に向き直った。


「まぁいい。では、そろそろ本題に入ろうか。先ずはお互いの状況確認からにしよう」

「そうだな。俺から話すか、信じて貰えるかは分からないけどーー」


 宗一はゆっくりと自分に分かっていること、今の状況への推測をセーニャに話した。自分の生い立ち、トラックに轢かれそうな犬と猫を助けようとしたこと、気付いたらここに居たこと、そして黒い騎士のこと。セーニャはどうやら全てを理解した訳では無い様子だったが、ふーむ、と一呼吸してから口を開いた。


「……宗一、色々反論もあるかもしれないが先ずは落ち着いて私の話を聞いてくれ」

「そう改まって何だよ……色々ありすぎて今更何を慌てる事があるんだ……?」

「私が思うにどうやら君は……この世界の住人では無い、と思う」

「……何だって?」

「だから、君はどうやら他の世界から転生、或いは召喚といった形でこの世界に導かれたのだと思う」

「…………何だって?」


 セーニャは一瞬、むっと顔をしかめると右手を振りかぶって宗一に向けた。


「……もう一度言おうか?」

「分かった、分かったからその右手を降ろせ。セーニャの場合本気で平手打ちをしそうだから怖い」

「……まぁ信じられないのも無理は無い。だが、ここには日本等という国は存在しないし、宗一の言う言葉の殆どが私には、いや……この世界の住人には分からない物ばかりだ」

「……そんな馬鹿な話があるかよ、俺は信じないぞ! 大体、ここが日本じゃ無いとしたら一体ここは何処なんだよ!?」


 宗一は頭を振って否定したが、セーニャは落ち着いた口振りで語りだした。


「……宗一の意見がどうであれ、その内に否が応でも信じざるを得ない事になる。私達エルフの種族はこの世界をネイゲアと呼んでいるのだが、宗一は聞いたことが無いだろう?」

「……さっきは聞きそびれたが、セーニャはその……エルフなのか?」

「ん? あぁ、エルフだぞ。と言っても、人間との違いなんて外見上は……この耳ぐらいじゃないか?」


 セーニャがさっと髪をかきあげると宗一の物より多少ツン、と上へ尖った耳が現れた。


「ほ、本当にエルフなのか……俺の世界にはエルフなんて居なかった。ここがそのネイゲアだとして……もしかしてこの世界にはもっと他の種族もいるのか?」

「そうだな、色々な種族が存在するぞ。私達は森の奥から滅多に出ないから会うことは殆ど無いが、オーク、ゴブリン……見たことがあるのはこれぐらいか。あっと、それと人間も見たぞ! 今目の前に情けない顔をして座っている!」


 ふふん、セーニャは誇らしげに胸を張るが、情けないは余計だと言葉を返す気力は無かった。セーニャがはっきりと人間を別種族として捉えている事を知ったからだ。


(そうか……当たり前の話だが、セーニャ達エルフにとっては人間は別種族なんだな。そうなると、セーニャは何故別種族の筈の俺を助けてくれたんだろうか?)


 宗一はセーニャから視線を外して頭を抱える。ネイゲアの話

、異世界の話、エルフ等多種族の話、それらの話は荒唐無稽で宗一の常識の範囲からは大きく離れていたからだ。そしてそれを否定するには材料も乏しく、また否定したからといって今以上に状況が良くなるとは思えなかった。


「……それで、セーニャは何故あそこに倒れていたんだ?」


 パチッと爆ぜた枯れ枝の音を追いかけるように、宗一はそう切り出した。自分の身の上で話せることは既に無く、ここが異世界であるのなら、少しでも情報が欲しかったからだ。


「ふむ、話せば長くなるが……短くもできるぞ?」

「そうだな……俺はこの世界の事を殆ど知らないからな……説明しながらで頼む! 但し短めに!」

「……ふーむ、ふざけた奴だ。まぁいい、私の名前はセーニャ、クイン。これはエルフの種と里全体を表す言葉だ。つまり、クインの里のセーニャという意味でもある。私達の里はこの森のずっと奥にあってな……」


 宗一は遠くを見詰めるようなセーニャの視線を追いかけたが、焚き火の灯りは数メートルも離れれば霧散したかのように頼りなく暗闇を際立たせているだけだった。


「それで、そこで私は狩り等をして暮らしていたんだ。森の中で生き、森の恵みを享受し、森で生を終える。クインの里のエルフ達はそうやって何百年も生きてきたんだ。しかし……」

「……しかし?」

「森の中が少しずつおかしくなっていった。大きな変化は見当たらなかったが、森の中では少しずつ見慣れぬ奴が現れるようになった。更に暫く経つとオークが暴れるようになった。それが私があそこで倒れる様になった原因だ」

「……俺はオークを見たことがないから何とも言えないけど、あそこにオークらしき死体なんて無かったよな? 俺とお前が血溜まりに倒れていただけだ」

「あぁ、そうだな。私は何匹ものオークに追われてあの場所に追い込まれたんだ。そしてオーク共が一斉に槍の穂先を私に向かって振り下ろした。幾つもの熱を帯びた強烈な痛みと私を見下ろすオーク共の下卑た顔が私の最後の記憶だ。そして気付いたら宗一が私の側に居たという訳だ」

「それってやっぱり……セーニャは一度オークに殺されたって事だよな?」

「そう……だと思う。とても助かるような状況ではなかったから、私はあそこで一度死んだのだろう……」


 セーニャは俯きながら呟いた。宗一にはその表情は見えなかったが、少し震えた声がセーニャの表情を容易に想像させた。


(……セーニャも自分の状況に混乱しているのかもしれない。だけど見慣れぬオークとやらに黒い騎士か……とても今の状況が安全だとはいえないな。どうやら暫くはセーニャの助けを借りた方が良さそうだ。あとは……)


「……なぁセーニャ。最後に一つ、聞きたいんだが……どうして俺にここまで親切にしてくれるんだ? お互いにさっき初めて会ったばかりで、更に最初はセーニャに組み伏せられたりもした。俺にはそこが本当に分からない」


 セーニャは顔を上げて「そういえばそんなこともしたな……」と自嘲気味に呟いた。そして自分の髪をゆっくりかきあげながら宗一に片手を差し出した。


「これは……?」


 宗一は差し出されたセーニャの手を前に首を傾げた。常識的に考えれば握手を求められているのかもしれない、しかしここがネイゲアという世界ならこの差し出された手には違う意味があるのでは、と思うと宗一にはその手をじっと見るしかなかった。


「……じれったい奴だな。早く手を握ってみろ!」


 発破を掛けるような物言いに宗一は一瞬ビクッと首を竦めると、渋々といった様子で差し出された手をそっと握った。


(……や、柔らかい!)


 宗一に率直な感想が思い浮かんだ。この優しささえ感じる柔らかな手が出会い頭に自分を組み伏せてきた物と同一であるとは信じられなかった。


「……では、いくぞ……?」


 どこかボーッとした様子の宗一を気にする事もなく、セーニャは握られた手を意識しながらゆっくりと目を閉じた。


「…………っ!」


 セーニャが握った手に少し力をいれた瞬間、ビクンッと宗一は背筋に電気が走ったよう身を強張らせた。それはお互いに握った手を中心に広がる波紋のような衝撃を感じたからだった。


「お、おいセーニャ……これって……?」

「いいから、自分の胸の辺りを見てみろ」


 言われるがままに宗一は自分の胸の辺りを伺った。そこは服越しでも分かるぐらいに輝いていて、まるで自分の心臓の辺りに光輝く玉を入れられたようだった。


「一体これは何なんだ……?」

「……それは光の適正者に現れる力の源であり、その証しだよ。万物を照らす生命エネルギーを司る顕現者……このネイゲアではそれを勇者と言い伝えている……」


 宗一の胸は依然として輝いている、それをじっと見つめながら宗一は自分の世界の事を思い出していた。


(……俺の世界ではこういう話が多々存在した。転生だの召喚だのと流行りに流行った話だ。だけどそれらと同じ状況に俺は今存在しているっ! つまり……)


「俺はこのネイゲアに勇者として呼ばれたって事だな?」


 ニヤリと上がった口角を抑える事もなく宗一は言った。この胸の輝きと高鳴りが勇者として証しだというなら、この胸が示すままにネイゲアという世界を生き抜いてやろう。宗一はそう思った、そしてそれと同時に勇者としての覚悟を決めたのだ。


「なぁ、そうだろセーニャ……?」


 宗一が顔を上げたそこには、先程までのセーニャの姿はそこには無かった。


「……えっ、はっ? ちょ、ちょっとセーニャさん? 何かあなたの身体が超眩しいんですけど!?」


 宗一の胸の輝きが夜を寂しく照らす豆電球ならば、そこに居たセーニャはまるで太陽だったといえる。真夜中だというのにその光は森の隅々まで照らすかのように眩しく強く輝いていた。正しく万物を照らす生命エネルギーの顕現者、勇者の姿がそこにはあった。


「……っ! はぁ、ふぅ……ふぅ……」


 セーニャが荒げる呼吸を落ち着けていく度にその光は輝きを失っていき、そうして遂には消え失せてセーニャの呼吸と焚き火のパチパチとした音だけが響いている。


「あ、あの……セーニャ、さん?」

「……ご覧の通り、今は私が世の勇者というわけだ。今の輝きを見れば理解して貰えたと思うが……」

「あ……はい、それはもう見事な光でございました。それで、あの、そうすると私奴の光は何だったんでございましょう、セーニャさんに比べるとまるで豆電球……いや、もう一瞬の火花みたいな物でしたが……」

「宗一、君の光は確かに弱々しい物だったが、その光を感じたから私はこうして宗一を信用しているんだ。そもそもこうして光の証が二人も出ることは今だかつて聞いた事が無いしな」


 そのセーニャの言葉に宗一は少なからず安堵の思いを抱いた。胸の光は弱々しいがこうしてセーニャが少しでも信用をしてくれるのなら、決して悪くは無いと宗一には思えた。


「……それでセーニャが勇者なら……俺は一体何なんだ?」

「そんなことを聞かれてもな……村人とかじゃないか? 勇者の側付きみたいな」

「なんだそりゃ! あーもう、やってらんねぇ!」


 宗一は言葉を吐き捨てるとゴロンと地面に寝転がった。


(異世界だかなんだか知らねぇが、勇者から村人まで急転直下な展開だよ! さっき自信満々に勇者をやる気で顔を上げたのが恥ずかしい! 俺のバカ!)


「ははは、まぁそう拗ねるな。私も勇者としては駆け出しの身でな、こうして同じ光の証しを持ったのも何かの縁だ。暫く一緒に行動をしようじゃないか」


 宗一はその申し出をはね除けようとも考えたが、右も左も分からないこの世界でセーニャの存在は非常に心強く思えた。


「……そうだな。俺はネイゲアの事は全く分からないからセーニャに全部任せる事にするよ、すまないけどよろしく頼む……」

「あぁ、こちらこそ。さて、これでお互いの状況は分かったが、何だか少し疲れたな。これからの事はまた明日にでも考える事にして休もうか……?」

「はーぁ……そうだな。俺も色々あって疲れたよ。おやすみ……」


 宗一の返事は溜め息にも似ていて、その言葉にセーニャは少し困った顔をしたがやがて、セーニャも膝を抱え込むようにして少しずつ意識を微睡みの中へと沈めていく。セーニャにとっても宗一と出会ってからの僅かな時間だが、情報を整理するのには色々な事が起きすぎた。


(目が覚めたら先ずは里の状況を確認したいな……私に里へ入る資格があるのかもわからないが……それにしても色々あったな……私も少し疲れた……)


 やがて、セーニャからも静かな寝息が聞こえ始めた。辺りは静謐に包まれ、焚き火から時折爆ぜる木片の音だけがパチリパチリと不規則に響いている……。

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