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七夕ねむり

第1話 灰色びいどろ(1)

 影は走る。金属の山を飛び越え、軽やかに舞い駆け抜ける。街は遠く、眩い光を灯している。影は音も立てずに悠々と闇に紛れた。視界の端に朧げな輝きが漂っている。いくつもの光を通りすぎたのち、影はようやく足を止め、ふわりと空へ身を踊らせた。半月のような口元は静かに闇へと沈んでいった。


「お兄さま、今日もたくさんお話ししようね」

 ランプの灯りが少女のほんのりと色づいた頬を照らしていた。時刻は午後十時。空には白い月が昇っている。

「俺はお前のせいで寝不足だ」

 声変わりが伴ったばかりの声色に少女はくすくすと笑みを溢す。

「だって、夢の話なんてできるのお兄さまぐらいだもん」

「学校で言えばいいだろ」

「クラスで言ってみたけど笑われちゃった。昨日の夜夢で見た話なんてみんな興味ないんだって」

 少女は眉を下げて兄の手を握る。きゅっと掴まれた力が思いのほか強く少年は押し黙った。

「……霞の話を笑う奴がいるのか」

 兄のワントーン低くなった声に霞は口元を綻ばせる。

「薊兄さま、お顔がとってもこわい。心配しなくても私いじめられたりしてないよ」

「そうかよ」

 そうよと霞はくすくす笑って、薊の眉根をそっと抑えた。

「クラスメイトのみんなも、この町の人もみんな優しい。そんなの私たちが生まれた時からじゃない」

「そう言うなら思わせぶりな言い方なんかするな」

 穏やかな両親に、大切な妹、優しい町の人々。自分は恵まれていると薊は思っている。暮らしには何一つ不自由しておらず、町の景気もまずまずだ。勉強はあまり得意ではなかったが、この豊かな土地を継いでいくには必要なものだろう。今の暮らしに不満は何もない。

「私、薊兄さまの夢の話も聞いてみたいな」

 きらきらとオレンジ色の灯りの中で無垢な眼差しが輝いている。薊はゆっくりと息を吐くとひらひら手を振った。

「……俺の話はいいだろ。それで? 昨日の夢はドラゴンを倒す夢だったか?」

 昼間に聞いた話の続きを促すと霞は首をこくこくと縦に振った。

「そうなの! 私がおっきなドラゴンをやーって倒したの!」

 魔法でやっつけたんだとベッドの中で息巻く妹を寝かしつけながら薊は内心一息ついた。大切な家族がいる、優しい人々が周りにいる。だからべつにこれは大したことではない。

 人が夢を見ると知ったのはいつ頃だったか。多分ほとんど覚えていない頃だったから、うんと幼い時の話なのだろう。自分以外の、誰かの言葉でそのことを知った。人間は眠る際、時折夢を見るのだと。初めて聞いた時は耳を疑った。夢では勇者にでも魔法使いにでもなれるのだという。嬉々として昨日見た夢を話すクラスメイトを眺めることしかできなかったことは覚えている。薊は今まで一度も、夢を見たことがなかったから。

「お兄さま? 聞いてるの?」

 夢を話す霞の口調はいつもとても楽しそうだ。薊は口にこそしたことがなかったが、妹の話を聞くのが好きだった。

「話しすぎて目が覚めたとか言うんじゃないだろうな」

 いつのまにか跳ね除けられていた毛布を小さな肩へ掛けてやる。だってまだ眠くないもんと霞は口を尖らせた。

「ねえ、私のお話退屈だった?」

 毛布を口元まで引っ張り上げて、大きな瞳がこちらをそっと伺っている。カタンと庭先で何かが倒れる音がした。きっと母さんの庭園で野良猫が植木鉢でも倒したのだろう。薊はくしゃりと妹の頭を撫でてやった。

「続きはまた明日な」

 少年はそう口にして、柔らかな亜麻色の前髪をそっと梳く。

「うん」

 おやすみなさいと紡がれる言葉はすでに溶けそうな音をしている。さっきまで眠くないと言っていたのが嘘みたいだ。薊は妹の小さな額をそっと撫で、再び毛布を目一杯引っ張り上げてやる。一段と冷える夜だ、風邪など引いてはいけない。近々、港町の方へ学校のみんなで遊びにいくのだとあんなに楽しみにしていたのだから。

 規則正しいリズムで繰り返される呼吸に耳を傾け、彼女の部屋を後にする。自分が寝るには少し早い。薊は庭園へと足を向ける。最近よく姿を見せる野良猫は実は少し懐いてきているのだった。ふわふわと自分の足元に擦り寄ってくる黒猫を思い出して薊は口元を緩ませる。廊下に灯るオレンジ色を一段階暗くした。すると、ぱりんと何かが割れる音がした。

 それはわずかな音だった。それなのにぞわりと心臓が嫌な震え方をした。早足で廊下を進む。突き当たりの窓からは庭園がよく見えるのだ。

「やあ、ごきげんよう」

 それは音もなく現れた。

「今日はとってもいい夜だね」

 長身に絵本で見たようなステッキを持った男がいた。月明かりに映し出される端正な面持ちはこの町で見たことのない顔だった。

「あんた、誰だ」

 盗られそうなものに心当たりは幾つかあった。父の骨董品、母の分厚い古書。

「さすが箱入り坊ちゃんだ。ものの尋ね方を知らないとみえる」

 薄い唇が斜めに上がり、目元は細く弧を描いている。美しい顔立ちに似合わない軽薄な声が笑うように響いた。

「人の家へ勝手に入ってきた奴に礼儀なんかいるかよ」

 薊の唸るような声が冷たい廊下を這った。男は短い髪を耳にかけくすくすと楽しそうに笑う。

「威勢がいいのは素晴らしい」

 けれどと男がふわりと薊の前に舞い降りた。

「噛み付く相手を間違っちゃいけない」

 素早く薊の腹へ拳が入る。彼の胃の中が悲鳴を上げた。半径二メートルがゼロになるまで足跡一つしなかった。床に転がった少年を眺め、男はまたくつくつと喉の奥で笑った。くるりと陽気にステッキを回し、そこで少年の視線に気がついた。

「おや、まだ意識があったとは」

 珍しい昆虫でも観察するような視線を男は薊に投げかける。

「……誰だよ、お前」

 切れ長の目に宿る眼光は鋭さを錆びさせてはいなかった。呻きと共に吐き出した問いに男は再びにっと口角を上げる。

「誰? そうですね……あなたを起こしにきて差し上げた、親切な審査人ですよ」

 歌うようにそう告げる不快な声を耳にしながら、薊は瞼がずんと重くなるのを感じた。確かめないといけないことはまだあった。霞は、父は母は無事なのか。床に触れた衝撃で切れた口の中から血の味がした。空気を吐くばかりの口元が音を紡ぐことはなく、視界が徐々にぼやけていく。最後に捉えたのは美しい銀色だった。自分を興味深そうに眺める銀色の瞳。それは今日の月とよく似ていた。


*****


 ぱちぱちと何かが弾ける音で目が覚めた。次第にはっきりとしていく視界。瞬きをして辺りを見回すと知らない小屋のようだった。

「おや、お早いお目覚めですね」

 嫌味な言葉に記憶が一瞬で巻き戻る。そうか、自分はどうやら不審者に攫われてしまったらしい。意識がはっきりしてきた途端、じわじわと腹部から重い痛みと吐き気が迫り上がってくる。

「ちょっと吐くのはやめてくださいね」

 心底うんざりした顔で男はひらひらと手を振った。

「吐くなら外にしてください」

 男はそう口にし、ああそれは無理な話でしたねと今更気づいたように薄く笑った。俺は太い麻紐で縛られた両腕を眺めた。痛みはなかったが不快だった。嘔吐感を押し戻し、口に残る鉄の味を飲み込む。俺を殺すことが目的の内ならさっき気を失った時にできていたはずだった。何目当てかは知らないが、まだ俺を殺すつもりはないらしい。

「霞と、父さん母さんはどうしたんだ」

 意識を手放す前に聞きたかったことを口にすると、男は小首を傾げてさあとかぶりを振った。

「君の両親がどうしているかなんて知りません。もちろん大事な大事な妹君も」

 よく磨かれた革靴がこつりこつりと近づいてくる。短く滑らかな髪を揺らして、男は俺の顔を覗き込んだ。

「私が探していたのは君ですからねえ」

 一瞬ぎらりと鋭い光に射られる。穏やかな言葉とは真逆に人間味の無い表情だった。背中に冷たさが走る。

「俺を人質にしたいのか」

 何が望みだ。奥歯を噛み締め吐き出した俺の言葉を耳にすると、男は不思議そうな表情を作った。そして、次の瞬間心底おかしそうに笑い出した。

「もしや君、私が強盗か何かだと思ってます?」

 俺の表情を色素の薄い瞳がまじまじと見つめた。感情の読めない色だった。髪と同じ白銀がすっと見開かれて、それからまた弧を描いた。

「言ったでしょう? 私はただの審査人です」

 古い木造の椅子から立ち上がって男が近づいてくる。コツリコツリと革靴の音がよく響いた。俺の目の前までやってきた男は口元をゆるりと綻ばせる。

「君、夢を見たことがないでしょう?」

 断定的な質問が俺の悪態を掻き消した。

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