『ディープ・イン・ザ・アビス』
碌な人生じゃなかった。
覚えている中で一番古い記憶は、煙草を吹かしながら母を殴る父の姿だった。それが何を意味するのかは当時のあたしには分からなかった。年を重ねた今でも分かっていない。
当時の光景はそのまま地続きであたしの人生は流れ、長きにわたってあたしを苦しめた。
碌な人生じゃなかった。
親からの迎えがなかなか来ず、一人、また一人と親に連れていかれ最後にいつも教室で独り取り残される幼稚園時代。父に殴られ、母に罵られ、友達も出来ず、後ろ指を指され続けた小学生時代。
認めてくれる教師も受け入れてくれる友達もおらず、あたしはいつも独りだった。この頃になると父と呼んでいた男が忽然と姿を消し、母と呼んでいた女は殆ど家から出ずに酒ばかり飲むようになった。
家にはもう何日も帰っていないし、学校にもほとんど出向いていない。
代わりにあたしは、あたしのような人間に相応しい薄汚れた裏路地に足を運ぶようになっていた。
どうしてそこに行こうと思ったのかは、もう覚えていない。惨めな自分を見られたくなかったからか、惹かれたからか。……理由なんかどうでもいいか。
ともかくあたしは自分から薄暗がりへと身を沈めた。
暗がりに逃げ込んだあたしの日常は、陽に当たっていた時と変わらない。喧嘩、喧嘩、喧嘩。今までの鬱屈を晴らすように、誰彼構わず襲い掛かった。
もう誰にもあたしを舐めた目で見させない。その思いで、そう思って。
気が付けばそれなりに名の通った
あたしと同じような惨めな負け犬で、あたしに引けを取らない程荒んでいた『綾子』と、何でこんな所にいるのか分からないほど綺麗でカワイイな『リリー』の3人。
『
で、その結果がこれ。
チーム『ドッグハント』。名の知れた悪ガキの集団。
眉唾物の噂。だが、その噂を裏付けるような暴力性は、噂が真実なのではないかと思ってしまうほど壮絶なものだった。
奴の異能は『怪力』。電柱をひっこ抜いて振り回し、車を持ち上げて投げ飛ばす。化物みたいなやつだった。
ドッグネックに目を付けられた理由は、なんてことは無い。難癖付けてきたドッグハントのメンバーをボコボコにしてやったからだ。
ボスに言いつけてやる! という捨て台詞を残して這う這うの体で逃げ去る下っ端ども。それから間を置かずに、ドッグネックはあたしたちの前に現れた。
何度も何度もあたしたちはあいつに攻撃を加えた。なのにあいつは倒れなかった。あたしの加速させた拳も、リリーの強化した拳も、綾子の狙いすました打撃も。まるで効いちゃいなかった。
あたしたちの攻撃はまるで効かないのに、あたしたちは奴のたった一撃の攻撃で撤退を余儀なくされた。
あたしたちは逃げた。とにかく逃げた。遮二無二に前へ前へと足を動かし、少しでも遠くへ走った。
でも無駄だった。どれだけ逃げても奴らの気配は消えず、撒けはしたが、綾乃が言うには向こうにも探査系の異能持ちがいるから、見つかるのは時間の問題だという。
膝に手をつき、息を整えようとしたけれど、もう十分休んでるはずなのに、呼吸が定まらなかった。
脳裏にちらつく、ドッグネックの下卑た視線。思い出しただけで吐き気がした。あいつに捕まればどうなるかはあたしでも分かる。
そういう目に合っている奴は何度か見た。今度は自分がそうなるというだけだ。
逃げなければ!
そう思った。
でも何処へ?
顔を上げる。視線の先は真っ暗闇だ。あたしの人生と同じで、なにも見通せず、何も無い。
あたしは、自分の体を掻き抱いた。
碌な人生じゃなかった。
奪われて、笑われて、後ろ指を指されて、奪われて、追いやられて、傷つけられて、その果てがこれか?
鼻をすする音がして、そっちに顔を向けると、リリーがめそめそと泣いていた。あやすようにリリーの頭を撫でる綾子も、その顔は暗く、肩が震えていた。
あぁ……。
いつも気丈に振舞っていた綾子のそんな態度を見て、あたしはすっと諦めがついた。
もう一度暗がりを見る。何も無い暗闇が目の前に広がっている。何も無い。
奇跡なんてない。世界は美しくもなんともなく、泥と、血と、悲鳴と暴力に満ち溢れ、幸せというものは絵本の中の夢物語でしかない。
絵本で読んだ王子様なんていない。魔法使いなんていない。
この世界に、神様なんていないんだ。
気付けばあたしは笑ってた。泣きながら笑ってた。
糞みたいな人生だった。でも、これで終わり。あたしは、あたしたちはこれで終わるんだ。
そう思った。
……この世界に神はいなかった。でも、悪魔はいたんだ。
最初に気がついたのは綾子だった。
暗い顔をしていた綾子が、急に顔を上げ、目をぱちぱちとしばたき、首をかしげて訝しんだ。
どうした?
あたしは聞いた。
綾子は言っても良いのか迷っているようだったけど、結局言う事にしたようで、困惑を顔に滲ませながら告げた。
ドッグハントの反応が消えている、と。
意味が分からなかった。あれだけあたしたちに執着していたドッグハントが急にいなくなる訳が無い。
そんな訳があるかとあたしは怒鳴ったが、綾子は終始困惑しっぱなしで、それに当てられてあたしの突発的激昂は収まった。
とりあえずあたしらはドッグハントが消えたという地点へ行ってみる事にした。
まだドッグハントがそこにいるかもしれないという懸念はあったが、あたしたちはもう死んでもいいと思っていたから、そこまで恐怖は無かった。
おっかなびっくりを足を運び、少しずつ目的の場所へと近づいて行く。
やがて、ドッグハントの反応が消えたという場所にたどり着いたあたしたちは、そこで、悪魔と出会ったんだ。
あたしは目を丸くした。あの怪物たちがそこかしこで倒れ伏しピクリとも動かない。
「おや、今日はよくよく野良犬に会う日です」
声がして、それと同時に、雲間から月明かりが差し込み、悪魔が姿を現した。
あたしたちは息を呑んだ。
透き通った空のような水色の長い髪。深海を思わせる深い青色の瞳。仕立ての良いスーツに身を包んだその少女は、まさに悪魔そのものだった。
少女が纏う冷たい空気と、ドッグネックが足元にも及ばない暴力の圧が、本来なら決して交わる事の無い空気が混然一体となって場に満ち、あたしたちに重くのしかかった。
口が開けない。世界が色を失い、目の前の悪魔だけがその中で鮮やかな色彩を持ち、冷笑を浮かべながらあたしたちを深淵の双眸で見下ろしていた。
「あなた方に一つ提案があるのですが」
悪魔が発した言葉が、あたしの薄らぼんやりとした頭に入り込む。そして、リリー、綾子、あたしの順に目を合わせた。
どきりとした。深い青色の瞳が目に焼き付いた。
「受けるかどうかは、任せます」
あたしたちは悪魔から目が離せなかった。焼き付いた深い青。月明かりに照らされて艶やかに光る水色の髪。鈴の音のような声。
「どうしますか?」
そう言って、悪魔はあたしたちに手を差し伸べた。
差し出された手。言わんとすることは、本能が理解していた。服従するか、それとも惨めなまま死ぬか。選べというのだ。
あたしは右を見た。リリーが神様でも見たみたいな顔をして、ゆっくりと頷いた。
あたしは左を見た。綾子が処刑台に上る決意をした死刑囚のように頷いた。
あたしは前を見た。悪魔は待っていた。
何を? 決まっている。契約だ。
あたしたちは示し合わせてもいないのに同時に膝をつき、同時に頭を下げて、同時に手を伸ばし、同時に悪魔の手を取った。
あたしたちは悪魔と契約した。この日から、あたしたちはこの人の犬になったんだ。
あの人の、あの男の、
■
どうも、イミテーションです。7歳です。あと2,3分くらいの命です。
脇腹に受けたフックは予想以上に体力を削っていたようで、サイドキックを避け損ね、肩を打たれた。
後ろへ引くことは辛うじて間に合い、大きく後方へ跳ね衝撃を少しでも減らす。
「ンンンンン!!!」
教官殿から放たれる強烈な踏み込みからのストレートパンチを上体を逸らしてかわし、そのまま反転、サマーソルトキックを繰り出す!
「アタラナイヨ~!」
嘲り笑いを漏らしながら教官殿はすでに後方。俺の蹴りは空を切った。
「ウィピピ~!」
「ぐッ!?」
着地間際の隙を、教官殿は刈り取った。瞬時に間合いを詰めてきた教官殿は接近の勢いを乗せた手刀突きを放ってきた! 右腕で防ぐも、重い一撃に呻き声が漏れる。
間髪入れずに逆の手でボディブローを打ち込んできた! これは左腕で何とか防ぐ!
「だりゃ!」
「あらら」
痺れる両腕を強いて動かし、教官殿の服の襟と袖部分を掴み、後方へ投げ飛ばす! 教官殿は膝を抱えて空中でクルクルと回り、姿勢を整えて難なく着地した。
距離が離れた! 明確な隙! ここで密かに習得しているあの技を使えば瞬時に間合いを詰め、尚且つ攻撃すら可能であろう技を、しかし行わなかった。
理由は、未だ完璧に使いこなせていないのと、俺の体が未熟すぎて一回使っただけで体がボロボロになるからだ。
まだだ。まだ使ってはいけない。まだ奴にこの技を知られる訳にはいかない。今後あの技を奴の前で使用する事があるとすれば、それは計画を実行に移すとき、即ち奴を殺す時である。
だから、俺はこの攻撃を甘んじて受け入れた。
教官殿の掌打が胸を打った。
「ガッ!?」
衝撃で胸が軋む!
「えいや」
「うぐッ!」
腹への膝蹴り! 肺の空気が全て外へと吐き出される!
「たあ」
「~~~~~~~!!!」
前かがみになり、垂れ下がった俺の顎を、教官殿のサマーソルトキックがカチ上げた。
視界が明滅し、髄の奥にパチパチと火花が散った。体が弛緩し、消えかかる意識を己を強いて何とか繋ぎ止める。
ダメージを耐え、何とか空中でバランス感を取り戻し、膝をついて不格好に着地する。
「そりゃ」
着地を狙った前蹴りを片腕を掲げてブロック。教官殿の打撃は重く、弛緩した体は踏ん張りが効かず体勢を崩す。
「えい」
教官殿のハンマーパンチが俺の脳天を打った。
暗転。明滅。
霞む視界に最後に映ったのは、ハイキックを繰り出した教官殿の靴裏であった。
((まだ……届かんか……!))
がつん。
衝撃。暗転。浮遊感。
そこで記憶は途切れた。
■
目を開ける。見慣れた天井が視界一杯に広がった。
朽ちた天井。死んだ換気ファン。7年の時を得て、朽ちた天井は更に朽ち、死んだファンはもっと死んだ。
身を起こすと、全身が思い出したかのように痛みを伝えてきた。神経が燃えるような苦痛に、歯を食いしばって耐える。
数秒も耐えれば、苦痛に慣れ親しんだ体はすぐに動くようになった。俺は立ちあがり、教官殿の姿を探した。
医務室には彼は何処にもおらず、耳を澄ませて気配を探るが、すでに出かけているようで、この施設には俺以外の存在はいないようだった。
好都合。
服を脱いで手早く治療し終え、俺は着替えを済ませてから外へ出た。
表通りを抜け、脇道へ入り、裏路地を進み、右に左に何度か曲がり、奥へ奥へと進んでいく。そうすると侘しく開けた無人の通りが姿を現す。伽藍洞の通りをさらに進み、やっとこさ目的の朽ちかけた廃ビルがみえてくる。
ここの廃ビルは以前はある不良集団が占拠していたのだが、俺たちが巣くっていた野良犬どもを駆除し、以来仮の拠点として使っているのだった。
廃ビルへと入り、エントランスを横切って階段を上る。3階まで登り切り、ところどころが崩落した廊下を進む。次第に視界の先にうっすらとした光が見えてくる。
進むにつれて光は強くなる。明かりの灯っていないビル内で、唯一明かりの漏れる部屋が見えた。部屋の中からは3人分の話し声と、それをかき消さんばかりのロックミュージックが聞こえた。この空き部屋が、彼女たちの巣だ。
ドア前に立ち、ノックを一度する。その瞬間に部屋から聞こえていた話し声がやみ、それから何か聞くに堪えない罵り声とどたばたとした騒音。そして遅れて音楽が消え、廃ビル内に何日かぶりの静寂が戻ってきた。
ため息を吐き、ゆっくりとノブを回し、室内へ入っていった。
「う、ウッス! 『ボス』! おはようございます!」
ヤンキー面の茶髪の少女が、こわばった顔で俺を出迎えた。
「えぇおはようございます『チワワ』」
「おはようっすボス!」
「おはよ……ござ……ま……す……」
遅れて黒髪の『ポメラニアン』が片手をあげ、この4年でさらに大きくなった『シバイヌ』が顔を真っ赤にしながら消え入りそうな声で続いた。
「随分はしゃいでいたようですが、きちんと訓練は出来ていますか? どうですか?」
苦笑交じりにそういうと、3人は目を彷徨わせた。目を眇めると、ポメラニアンが2人の前に立って弁解を始めた。
「いや、訓練自体はきちんとやってるっす! 嘘じゃないっす! ただ、その……訓練後にちょっと息抜きしていただけっす! ほんとっす! 信じてください!」
「……」
手をわちゃわちゃさせて捲し立てる様に言うポメラニアンを無視し、3人の具合を頭からつま先まで観察する。
……嘘ではないようだ。
「……まあ、サボっていない事は分りました。息抜きも、まあ良いでしょう」
「「マジすか!?」」
ポメラニアンとチワワが同時に言った。
「ヤッタ!」
「ぃぇぃ」
「ただし」
チワワとシバイヌが顔をほころばせてハイタッチしあうのを見ながら、俺は3人に釘を刺した。
「もう少し音量を押さえなさい。外まで聞こえていましたよ」
「「あ」」
固まって脂汗を流す犬どもに、わざとらしいため息を吐く。びくりを身を震わす3匹に、小さく息を吐きながら手招きし、ついて来るように促す。
無言で追従する犬を連れて、俺たちはビルの1階にある大ホールへと向かった。
「構えなさい」
大ホールに入り、整列した3匹の前に立って言った。
「ウッスおねがいします!」
「よっしゃ!」
「……!」
基本的に彼女達にやってもらっている事は訓練である。本編までまだ時間があり、俺がその間にできる事は備える事だけだ。余計な動きはかえって瑕疵を与え、想定された本編通りの動きから逸脱してしまう可能性がある。
全ては予想の範疇にあってもらわなければならない。だから備える。鍛え抜き、耐え忍び、機を見たらすぐに行動する。事を成すには力がいる。振り切るための力を。拒絶できるだけの力を。
「来なさい」
「「うぉおおおお!!!」」
手招きする俺に、3匹の犬は雄たけびを上げながら突撃してきた。
チワワの右ストレートをいなし、シバイヌの水平チョップを上体を逸らしてかわし、身を低くしたタックルで組技に持ち込もうとするポメラニアンに、地面に手をつき、身を捻りながら蹴りを放って吹き飛ばす。
着地して正面に向き直る。眼前に迫るチワワの拳。目にもとまらぬ素早いジャブを首をかしげてかわし、反撃のボディブロー。
腹を押さえて後退するチワワを庇うように前に出るシバイヌに、踏み込みながらの中段正拳突きで吹き飛ばす。
さらに踏み込んでダメージから復帰した直後のチワワにサイドキックを打ち込む。
残心。
構えたまま、俺は犬たちを凝視する。
チワワが血の混じった唾を吐きながら不敵な笑みを浮かべた。ポメラニアンは頭を振るい、乱れた平衡感覚を振り戻しながら拳を構える。シバイヌは無言で2人の前に立ち、俺から反撃の機を窺っている。
降り注ぐ三つのギラギラとした視線。ハングリー精神にあふれた凝視。舐めた連中に一泡吹かせるという心構え。
「来なさい」
「「「……!!!」」」
しばらくの沈黙の後、3匹の犬は再び飛び掛ってきた。
訓練は、まだ始まったばかりだ。
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