第37話 泡沫の恋
「あら、ユリウス様だわ。今日はハーシェル令嬢はご一緒じゃないのね」
広い会場の中で、誰かがぽつりと呟いた。それもそのはず。今まで行われていた夜会やパーティーで、ユリウスはいつもリリアンと共にいたのだから。
そして今日も当然、二人はパートナーとして現れると誰もが思っていた。
しかし今日のユリウスの隣には誰も居なく「ならばハーシェル令嬢は一体誰と来るんだ」と疑問に首を傾ける。
皆の頭の中に思い浮かぶ人物が一人いたけれど、そんなわけがないと否定する。
その時、ドアが開かれた。
スポットライトを浴びながら入場してきた二人へと会場中の視線が集中する。
綿菓子のような桃色の髪をふわふわと揺らしながら姿を現したのは、まさにリリアン・ハーシェル令嬢だった。
隣で彼女をエスコートしているのは弟のユリウスではなく、クロード・ウィノスティン公爵だ。
「まさか公爵様がパートナーをお連れになるだなんて……」
今までどんな夜会やパーティーでも決して誰も連れて歩かなかったクロードが、初めて女性をエスコートしている事実にざわめきが広がっていく。
「まあ、ハーシェル令嬢はあんなにお綺麗でしたか?」
驚愕に包まれていた空気の中に、感嘆の声が響いた。まるで水面に水滴が落ちるように、その声は周囲へと渡る。
リリアン・ハーシェルといえば、良くも悪くも大人しく平凡な女性というのが人々の認識だった。それがどうだろうか。今のリリアンはクロードの隣にいても見劣りしないほど美しく見えた。
目は口ほどに物を言うとはよく言ったもので、クロードがリリアンを見つめる甘い視線が彼の好意を示している。
クロード・ウィノスティン公爵はリリアン・ハーシェル伯爵令嬢に本気なのだと、疑う者はもういなかった。
***
「リリアン平気か?」
「はい、大丈夫です」
ある程度覚悟をしていたとはいえ、やっぱり周囲から向けられる視線は凄まじかった。
それでも緊張で手が震えそうになる度に、クロードが心配そうにリリアンを伺ってくれるおかげで怖くはなかった。
その後、間もなくして皇帝と皇后が入場してくる。ビビアンの言っていた通り、現在他国にいる皇子はいなかった。
陛下の言葉が終わると華やかな音楽が会場に流れ出す。
「リリアン俺と踊ってくれるか?」
「はい、喜んで……?!」
頷いたと同時に突然、腰をグイッと抱かれリリアンは目を見張った。クロードは彼女をリードしながら囁く。内緒話でもするかのように、ひっそりと切実に。
「周囲のことは気にしなくていい。だから君は俺だけを見ててくれ」
「……勝手なひとっ」
もっと素直になりたいのに、リリアンの口からは可愛げない言葉ばかりが出てきてしまう。いつもそうだ。クロードを前にすると、どうしても素直になる事ができない。
「ああ、そうだよ」
なのにクロードはそんな態度も全て許容して笑うから、リリアンは余計に素直になれなかった。
タン、タタンッとステップを踏む度に、あっという間に曲のラストへと近づいていく。クロードは次は誰と踊るのだろうか。尋ねたかったけど、勇気が出なくて口を結んだ。
「何か飲み物を取ってくるから待っててくれ」
結局聞けないままダンスが終わってしまった。飲み物を持ってきてくれるのを一人待ちながら、じっとクロードの後ろ姿を目で追っていると、数人の男性がリリアンの前に現れた。
「ハーシェル令嬢、お話するのは初めてですよね。先程のダンスを拝見していましたが、お上手でした」
「以前から慎ましい方だと思っていましたが、こんなにお綺麗だったなんて。知らずにいただなんて惜しいことをしましたよ」
「ハーシェル令嬢、次のダンスは良ければ私と是非踊って頂けませんか?」
いきなり囲まれたかと思ったら、立て続けに話しかけられリリアンは戸惑う。あまり気は進まないけど、上手く断る理由も思いつかなかった。
「人を待っているので……」
「その方が来るまでの時間で構いません」
何とか捻り出した言い訳も効かず、打つ手がなくなったリリアンの耳に、深いため息が降ってきた。
「ハァ、まったく。少し目を離しただけでこれだ。光には羽虫が集まるものだから仕方ないとはいえ、気分は良くないな」
「クロード様……!」
クロードは男たちの間に身体を割り込み、両手に持っていたグラスの片方をリリアンに差し出した。
「一人にしてすまなかった。あっちで休憩にしよう」
「待ってください!今からハーシェル令嬢にダンスを……」
食い下がる男にクロードは眉を寄せて振り返る。今更彼女の魅力に気付いたところで遅いのだと明確な拒絶を込めて。
「悪いが彼女は俺以外と踊る予定はないから諦めてくれ。ああ勿論、今日だけじゃなくこの先ずっとだ」
「えっ……!?」
ずっと黙っていたリリアンだったけど、自分でも知らない話に声を上げた。だけどすぐにダンスの誘いを断るためだと気付く。
「もうっクロード様、さっきは驚きました。でも咄嗟にあんな嘘を思いつくだなんてさすがですね」
「嘘?」
ああ言われてしまえば彼らも引き下がるしかないだろう。相変わらずの臨機応変さに感心しているリリアンに、クロードはなんの事か分からない表情だった。
「だから、私がクロード様以外と踊ることはないって嘘ですよ」
「いや、嘘ではないが」
何を言ってるんだとまるで自分の方がおかしいかのような顔をされて、リリアンは困惑した。
「でも舞踏会ですよ?もっと色んな方と踊った方がいいんじゃ……」
「君だって今までユリウス・ハーシェルとしか踊っていなかったじゃないか」
「それはただ、踊る相手が居なかったので……ところでどうしてクロード様がそれを知ってるんですか?」
「……君ならそうだろうと思っただけだ。とにかく、今日俺はリリアンとしか踊らないのだから、君もそうするべきじゃないか?」
でも一度でいいから踊りたいという熱い視線がクロードには沢山集まっているのに、一人だけが独占していいのだろうか。
リリアンは後ろめたい気持ちを隠すように、ゆらりと揺れる果実水を見つめた。
「それとも他に踊りたい男でもいるのか」
気乗りしないリリアンの反応に、クロードはムッと不満そうに顔を顰める。
「そういうわけではないですけど……ただ他にもクロード様と踊りたい方はいるんじゃないかと思って……」
「他の奴らまで君が気遣う必要なんてない。今日の俺のパートナーは君なんだから」
クロードは持っていたグラスを近くのテーブルへと置いて、リリアンの手を取った。
「俺の全部、君のものだ」
近くで耳を澄ましていた令嬢たちが、クロードの甘い台詞に悲鳴をあげる。リリアンはこれは周囲に見せつけるための演技だと頭では分かっていても、心臓が鳴り止まなかった。
「それで、返事はしてくれないのか?」
「……あとになって後悔しても遅いんですからね」
遠回しな肯定に、クロードは今すぐリリアンを抱き締めたいのをグッと堪える。今日はずっと彼女を独り占めできるなんて夢のようだった。
「クロード様っ?」
音楽の曲調が切り替わる。クロードに手を引かれ、リリアンは慌てた。早いテンポのダンスは得意じゃないのだ。
「大丈夫、俺に任せておけ」
一体その自信はどこから来るのだろうか。本当に勝手な人だと頬を膨らませたリリアンの視界に、アクアブルーの髪が映った。
「……ビビ?」
目が合った気がしたけど見間違いだろうか。ビビアンはすぐに背を向け消えてしまった。
「リリアン、どうかしたか?」
「あ、いいえ……なんでもありません」
後でビビアンにも挨拶をしにいこう。リリアンは首を振ってクロードへと視線を戻した。
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