ACT.2 忘れる男

 都合のいい女だった。

 将来的には結婚する相手が別にいるとわかっていながら、特に気にもせず、お互いに肉体関係だけの間柄と割り切って付き合える。パッと見には真面目で頑なそうに見えたのに、案外とサバけた性格で、約束を反故にしても、誕生日なんか知らなくても、なにも文句を言わなかった。会社内で会っても、まったく平然としたもので、そもそも俺に興味がないようだった。


 いよいよ結婚することになって、俺は彼女と別れることに決めた。淡々とした関係性だから、メッセージのやり取りだけで済ませてもよかったのだが、わざわざ「話がある」と切り出したのは、会ってワンチャンやってから終わらせようという下心があったのは否めない。

 正直、体の相性は良かった。こっちが望むプレイはたいがいやってくれたし、口淫も上手かった。妻となる女性にはそんなことは望めない。何せ箱入りのお嬢さまなのだから。


 出張先での仕事が終わると、俺はそのまま彼女のマンションに向かった。

 愛車は旧車のブルーバード。昭和の無骨なデザインと、ちょっとアイボリーの入った白の車体が気に入って購入した。婚約者のお嬢さんはこの車に乗ると酔うと言って、敬遠していたが、彼女はガタガタと揺れの激しい、お世辞にも快適とは言えない助手席でも、平気で眠りこけていた。初めて乗ったときには、くるくると手で回して開ける窓を面白がって、何度も下ろしたり上げたりしていた。

 この車も結婚したら手放さないといけない。その前にどこか遠くに一人でドライブにでも行こうか……そんなことを考えながら、いつものように少し離れた彼女のマンションの駐車場に向かうと、そこで彼女が男に襲われそうになっていた。


「おい! やめろ!」


 俺はそれこそ正義の味方みたいに叫んで、男の腕を掴んだ。

 男は不意をつかれたのか、ひどく驚いた様子だった。必死になって逃げようと、やみくもに暴れ回る。正直、自分よりも背の低い貧弱そうな男など、一発殴ればおとなしくなりそうなもんであったが、さすがに社会人になって暴力沙汰になんかなったら、警察のお世話にもなりかねない。こんな微妙な時期に、そんなつまらない事件に巻き込まれたくなかった。暴れる男に閉口して、俺は一度男の腕を離した。するとバランスを崩した男は、あっさり倒れてしまった。


「……は?」


 俺は呆気にとられた。

 一体、何をしてんだ、この男。これくらいで倒れるとか、ドジすぎる。

 俺は半ば白けて、倒れたままの男を見ていた。しかし男はいつまでたっても起き上がらない。


 少し離れた場所にある外灯の明かりがついた。うっすらと白い照明に照らされて、白目をむいたままの男の姿は、なんだか死体のようだった。彼女もそう思ったのだろうか。怖々と男の手首に指をあてた。脈をとっていた彼女の指先が震える。


「死んでるわ……」


 彼女がつぶやくように言う。


「嘘だろ!」


 俺は信じなかった。だが彼女は真剣な顔で、唇に指をたて、静かにするよう睨みつけてくる。


「黙って。誰か来たらどうするの?」

「あっ…………あぁ……」


 俺はアッと口をおさえた。周りを見回す。有難いことに、都会の無関心は今の俺を見逃してくれていた。誰もいない。おそらく、誰も気付いてないはず……。

 それでも目の前に横たわる目をむいた男の死体は消えはしない。俺は呆然とその現実を見つめるしかなかった。

 やがて彼女が静かに問うてきた。


「どうするの?」


 俺は意味がわからなかった。どうしてそんなことを俺に訊く?


「どうするって、なにが?」


 ボンヤリと問い返す俺に、彼女は恐ろしいことを言ってきた。


「この男よ。あなたが殺したんじゃない。どうするのよ?」

「俺が殺した? 違う。こいつが勝手によろけて……」

「でもその前にあなたが彼を掴んでいたわ」

「それはお前が襲われそうになってたから」


 必死で否定する俺に、彼女は再び恐ろしいことを宣告してくる。


「私のせいにしないで。あなたのせいよ。あなたが殺したのよ」

「違う!! 俺はッ……」

「だから、大声出さないで! 誰か来たらどうするのよ?」


 俺は信じられなかった。

 だって、俺は彼女を助けようとしただけだ。この男がバタバタと暴れるから、一旦、手を離した。そうしたら勝手に倒れて、頭をぶつけて死んだ……だけ。この男がただただ不運なだけだ。


「自首する?」


 不意に問われて、俺は愕然とした。

 罪なんて犯してないのに、まるで罪人のようだ。だが、このことを素直に警察に話したとして、さすがに犯罪者にはならなくとも、今日のことは婚約者に知られるだろう。婚約者の両親にも、当然叔父である常務にも。そうしたら、ここにいた理由も、こんな事件が起きた理由も話さねばならなくなる。婚約者とつき合っていながら彼女と二股していたことを知られれば、確実に婚約破棄。そのうえで常務からも冷眼視されて、今後の出世も望めなくなるだろう……。


「い、い、嫌だ……」


 俺はブルブルと頭を振った。

 もう何も考えたくなかった。考えられなかった。

 急速に足元が崩れてゆく。底の見えない喪失感に、俺は情けなく怯えるばかりだった。

 一方で ――

 すっかり取り乱した俺の前に立つ彼女の表情は乏しく、いつもと変わりない。こんな状況ですら、微塵も動揺を見せない鉄面皮の彼女に、俺は驚き、同時に縋った。


「俺は……俺は、お前を助けるつもりだったんだ。本当に……。頼む。頼むよ。助けてくれよぉ」

 

 みっともなく泣きながらも、俺は少しも恥ずかしいと思わなかった。彼女に対しては、いつも取り繕う必要を感じなかった。彼女は、俺がどうであっても受け入れてくれる。今までも、彼女は俺の言うことはたいがいなんでも聞いてくれた。今、この目の前にある死体げんじつも、俺が頼めば、きっとどうにかしてくれるはずだ。

 やや間があって、彼女は決然と言った。 


「運んで、早く!」


 彼女の指示で、俺は男を車のトランクに押し込み、次はホームセンターに向かった。そこでシャベルを買うのだという。俺は内心首をかしげた。シャベル? 園芸の、あの鉢植えなんかに使うシャベルなんか買ってどうするんだろうか……と思っていたら、彼女の買ったのはスコップだった。彼女はスコップのことをシャベルだと思っているようだ。そういえば西と東で、意味が逆転するような言葉があるとかなんとか、前にテレビでやっていた。まさにシャベルとスコップが、そういうものであるらしい。


 そんなくだらない会話ができるほどには、俺も落ち着いてきていたということだ。

 再び車に乗り込むと、何度か行ったことのある県境のキャンプ場へと向かった。何度かと言っても、実はこの十年近くは行ってない。正直、記憶はおぼろげだったが、ナビに誘導してもらい、俺は迷うことなく曲がりくねった山道を進んでいった。


 気がつくと同じ曲ばかりが繰り返し流れていた。

 確かオールディーズの寄せ集めのプレイリストをかけていたと思うが、ずっとクリフ・リチャードの『Summer Holiday』が流れている。彼女がいつの間にか操作していたのだろうか。好きなのだろうか、この曲が。なんとなく意外だ。俺は車に乗るときに必ず音楽をかけるのが常だったから、今までにもいろいろ流したが、彼女が興味を示したことは一度もなかった。


 奇妙な時間だった。


 ゴオォーとエアコンの音と一緒に流れるそのメロディは、まさしく夏休みの、のんびりとした田舎の風景を思い浮かばせる。青い空と、むくむくと育った入道雲、一本道の農道をトラクターがゴトゴト走って行くような……ありきたりの、誰もが思い浮かべる、今やちょっとファンタジーめいたふるさとの光景。それなのに現実の俺は、うだるような熱帯夜に、外灯もとぼしい山道を、古びたセダンで走っている。後ろのトランクには死体、横には可愛い恋人ではなく、鉄面皮の可愛げのない女を乗せて。コントだったらシュールなのに、現実はまったく面白くない。


 ようやくたどり着いたキャンプ場は思っていたよりも人がいた。俺は苛立ったが、彼女は冷静に別の場所を探そうという。仕方なくキャンプ場の駐車場を出ると、また車道に出て上へ向かって上って行った。しばらく走らせると、まるであつらえたみたいに点滅する外灯の下に、暗くどこかへ続く脇道が見えた。


「ここ、入りましょう」


 彼女がためらいもせずに言う。

 俺は正直嫌だった。どこに続くのかもわからない道。まして山の中だ。下手すれば戻ってこれないかもしれない。だがここで反対して、いちいち彼女と議論するのも面倒だった。チッと舌打ちして、俺はやけくそのようにアクセルを踏み、外灯もないその脇道へと入っていった。


 どこかの別荘か何かに続く私道なのだろうか? 舗装もされておらず、サスペンションも旧型のこの車では、振動が直に伝わってきて、正直乗り心地は最悪だった。だが彼女の顔は相変わらず、ふてぶてしいほどの鉄面皮だ。

 道は進むに従って細くなってゆき、木々がだんだんと圧迫するように両脇に迫ってくる。最終的に木々に阻まれ、車を止めた。


「行き止まりだ!」


 俺は投げやりに言った。半ばはこの道を行けと言った彼女への当てつけだ。しかし彼女は焦る様子もなく、「ちょうどいい」と言って車を降りた。キョロキョロと辺りを見回したあとに、後部座席からスコップを取り上げると、何度も場所を変えて土に突き刺していく。どうやら穴を掘るのにちょうどいい場所を探っているらしい。やがて見つけると、「早く!」と呼びかけてきた。


 俺は正直、まだこの状況に戸惑っていた。だが確かに彼女の言う通り、早く死体を埋めてここから脱さねばならない。朝が来たら、キャンプ客がこの先にある展望台に向かってやって来るだろう。もはや引き返す道はなかった。死体をこんなところまで運んできた時点で、言い逃れなんて出来ない。


 俺もスコップを手に取ると、彼女の隣で掘り始めた。

 彼女の指示で車のライトを点けておいたのは良かった。外灯もないこの場所では、ライトがなければまともに作業なんかできるわけがない。ただ光で虫が寄ってきて、あちこち蚊に刺されて痒くてたまらなかったが。


 土を掘りながら、俺はまたこの状況について考えてしまった。

 一体、自分は何をしているんだろうか?

 本来はセフレ関係の解消のために、彼女の家を訪れようとした……だけだったはずだ。それなのにあのトランクの中の男のドジのせいで、あれよあれよという間に、深夜の山の中で穴を掘るハメになっている。

 おかしい。

 そもそも俺にはそんな義務なんてなかったはずだ。


 掘っては土を放り出し、掘っては放り出し……。


 一定間隔のリズムを刻んで、俺はスコップを動かす。

 単調な作業の脳内BGMが『Summer Holiday』になったのは、ここに来るまでにずっと聴いていたせいだろう。

 単純作業を行いながら、脳内はめまぐるしく置かれている状況とその原因を考える。少し冷静になれば、すぐわかることだった。今のこの状況を作り出したのは、彼女だ。この女がさも俺を人殺しか何かのように責め立てるから、俺は頭の整理ができないまま、気がつけば操り人形のように動かされている。深夜の山の中で、さっきから蚊に刺されて痒い思いをしながら、穴を掘るようなことになっているのだ。


 いっそ今、このスコップを放り出して逃げてやろうか……とも考える。だが、すぐにそんな考えは捨てた。そんなことをして、もし逆上した彼女が警察に言ったら? あの巧みな誘導からしたって、うまいこと脚色してそれこそ俺を本当の殺人犯に仕立て上げるだろう。そうなったら、結局のところ俺の人生は終わり。生きることはできても、社会的に抹殺され、その後は逼塞した生活を送っていくことになる……。


 そもそもこの穴掘りを終えて、男を埋めたあと、俺はこのまま無事に生活できるのか? こんな秘密をかかえて。しかもこの女とその秘密を共有して? この女が一生、誰にも言わずに隠し通してくれると……信じられるか?


 背筋をゾクリと這った戦慄に、俺は凍り付きそうになった。

 そうなのだ。今をしのいだところで、一生、この女は俺の秘密を握り続ける。俺は一生、この女をおそれて生きねばならないのだ……。


「なぁ、もうこれくらいでいいんじゃないか?」


 俺は女に声をかけた。

 女は頷き、トランクから男を出してくるように言った。俺は唯々諾々と従ったが、奇妙な興奮が腹からせり上がってきて、息が浅くなった。

 もうすぐだ。

 もうすぐ……チャンスを逃すな。


「捨てて」 


 女の言葉に従って、男を穴の中に落とす。ドサリと落ちたのを確認し、女と目を見交わす。今だ。今しかない。

 俺は彼女に近付くと、ゆっくり抱き寄せた。


「ごめんな」


 心底から俺は言った。少し口が震えた。


「いいのよ」


 女は笑みを浮かべて俺の頬に手を伸ばす。まるでキスを待つかのように、女が目を閉じた。

 俺はすぐさま女の首を絞めた。

 途端に女は目を見開くと、目玉がこぼれそうなほどにギョロリと俺を睨みつけてきた。必死で俺の腕に爪を立てる。俺も必死だった。なんとしてもここで女を殺さねばならなかった。ここで殺して、今夜の出来事をすべて埋めてしまわないと……俺は一生、この女に振り回されることになる。


 俺は苦しむ女の顔しか見えていなかった。息ができずもがき苦しむ姿は、自分の内に眠っていた暗い興奮を呼び起こした。俺は少し笑っていたかもしれない。

 女がいつの間にか土に突き立てたスコップを手に取ったと気付いたときには、右腿を殴られていた。思わずガクリと膝が折れる。俺がバランスを崩したとみるや、すかさず股の急所に蹴りが入る。内臓を直接殴られたような、言葉にならない痛み。俺は股間を押さえたまま、地面に倒れ伏し、ひたすらこの激痛が過ぎ去るのを待った。だが女は容赦ない。脳天を狙って、スコップを振り下ろしてくる。


 この女……なんて鬼畜なんだ。

 よりによって、スコップのへりで殴ろうとしてきやがった……!


 ギリギリでけたものの、耳の上あたりがザクリと切れて血が噴き出した。見たこともない量の血がボタボタ落ちてくる。俺は慌てまくった。必死に逃げた。這いずって逃げた。


 逃げないと殺される。

 こいつ、本当に俺を殺す気だ。

 さっきまでキスされようとしていたくせに!


 女は狂ったようにスコップを振り回す。

 俺は何度か避け損なって、足やら背中やらを殴られた。

 逃げ回っているうちに、だんだんと意識が朦朧としてくる。


 ヤバい。死ぬのか?

 これは、死んでいってるのか……?


 急速に意識が遠のく中で、俺はそれでも必死で這って、動いていたのだろう。土の上を転がり落ちる感覚がした。どうやら穴に落ちたようだ……。

 一瞬、目の前が暗くなった。


  ――――


 息苦しさに目を覚ますと、ゴホッとむせた。喉に何かが詰まったときのように、ゴホゴホとむせんで咳をする。口の中がジャリジャリと不快だった。ベッと唾を吐く。ボンヤリした頭で見上げると、うっすらと明るい空が見えた。

 朝? だろうか?

 周囲を確認したところで、自分の姿を見れば、なぜだか下半身が土に埋まっていた。埋まっていた、と言っても、土がかぶさっている程度で、足を動かすと容易に崩れた。


「生きてる……?」


 俺はつぶやいた。

 立ち上がろうと中腰になった目線の高さに地面がある。どうやら穴の中に落ちていたらしい。

 急にズキリと後頭部が痛み、思わず手をやると、ヌルリと何かで濡れる感触。おそるおそるその手を見れば、なんとなく予想はしていたが、血がべっとりついていた。

 途端に俺は怖くなった。

 こんな大量の血が出ていたら、死んでしまう!

 死んでしまう!!

 早く、早く、ここから逃げ出さないと!


 慌てて穴の中から這い上がり、ふらふらと歩き出す。

 森の中の舗装されていない道を時々転びながら進むと、やがてアスファルトの道に出た。よろけながら坂道を下っていたら、上から来た車が横に止まった。


「どうしたんだい、アンタ。事故にでも遭ったかね?」


 お多福みたいな顔のおばさんが尋ねてくる。

 俺は首をかしげた。


 事故?

 そうだ。俺はどうしてこんな怪我をしているんだろう?

 どうして逃げているんだろう?

 逃げる?

 なにから?


「ちょっとぉ、アンタ。大丈夫かい? 医者行ったほうが……いや、救急車呼ぼうか? あれ、ちょっと……」


 おばさんの問いかけの声が遠くなる。

 俺はその場にしゃがみこんで、頭をかかえた。


 どうしたんだろう?

 俺は、なにやっているんだ?

 ここはどこなんだ?

 痛い、頭が痛い。


 やがて救急車が来て、俺は担架に乗せられた。病院へと向かう途中、救急隊員にいくつか質問された。


「お名前は?」

「名前……」

「あなたのお名前です。それと生年月日」


 サイレンの音に負けないように張り上げた救急隊員の大声が遠い。

 俺はボーッとなった。


 信じられない。

 自分でも信じられなかった。

 自分の名前がわからないなんて。


「大丈夫ですか? 名前、言えますか? 聞こえていますか?」


 耳元で救急隊員が叫んでいたが、俺は答えられなかった。

 ただボンヤリと……鳴り響くサイレンの音を聞いていた。


 空耳なのか……?

 遠くでのんびりした音楽が流れている……

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