その9
「わたし達、結婚できると思う」
竹夫か腰掛けに座って、前置きも何もなく、ことさら事務的に結婚の話を持ち出した時だった。声を落して溜息をつくように光子は言った。あれからひと月ぶりのデートだった。その間二人は電話による接触もしていなかった。恋しさが竹夫の胸を浸すようなって、電話をしたのが三日前だった。「結婚についてはっきりした話をしたいから、そのつもりで来てくれ」と竹夫は言った。喫茶店に着くと、光子がどこかかたい表情で待っていた。
「どうして」
何を言いだすのだという気持で竹夫は聞いた。
「お互いの心が通じ合っているかしら。梶木さんどう思う。梶木さんは私のことを疑っているんでしよう」
竹夫は自分の投げた言葉が、光子を刺したあと、自分に刃を向けてきたことを知った。それが何だ、と思った。
「君が結婚について態度をはっきりさせないからだよ。結婚を前提にした交際を君は承諾したはずだ。あれから一年以上になる。僕の方は結婚に向けて色々やってきた。君は何をしたんだ」
竹夫は忿懣をこめて言った。疑って当然じゃないか、疑われるのが嫌だったら、結婚について積極性を示したらいいのだ。自分は結婚のことをはっきり口にすることによって男として責任ある態度をとっている。結婚を前提にした交際を申しこみ、途中で心変りをせず、最後まで一貫した態度を取っているのだ。女にとってこうした男の誠意は幸福なことではないのか。光子にそれが通じないのが竹夫は不思議だった。
「ごめんなさい」光子はゆらっと頭をふった。「結婚してしまえば、それで済むのかも知れないけど。……私も梶木さんの気持が わからないの。梶木さんは本当に私でなくてはいけないのかしら」
「馬鹿なこと言うなよ。当り前じゃないか」
「……私、柿本さんとも相談したの。柿本さんのことを言うと梶木さんは嫌かも知れないけど」光子は淋しそうに笑った。「私は柿本さんを信頼してるの。梶木さんが言ったようなことは全然的外れだけど」光子の眼が光った。「お前の考え通りでいいんじゃないかって」
竹夫はこんなことまで、柿本に相談するのか、と鼻白む思いだった。 「それで……結婚はできないということか」
光子はゆっくり頷いた。竹夫はふっと泣きそうになった。次の瞬間怒嗚りつけたくなった。
「私が鬼に見えるでしょうね」 なに格好つけてるんだ、竹夫は光子に見おろされている自分を意識した。これ以上結婚を迫ることは屈辱だった。 「わかった」 息を詰めて吐き出すとともにそう言った。沈黙があった。 「私、一生結婚しないと思う」
光子はポツンと言った。申しわけなどいらないと竹夫は思った。
「映画サークルもやめるつもり 、私にはやっぱり実際の活動の方が合ってるみたい」
「好きなようにしたらいい」
竹夫は席を起った。
喫茶店を出て二人は向き合った。
「ごめんね、梶木さん」
光子は微笑んでそう言った。
「謝ることはないよ」
竹夫は笑おうとしたが、強張った顔が歪んだだけだった。これが最後だな、と竹夫は光子の顔を見た。一瞬まわりの景色が静止したように思えた。
「じゃ、元気で。頑張って」
顔をこわばらせたまま竹夫は言った。「頑張って」に活動頑張っての意味をこめた。竹夫の負けん気だった。くるりと背を向けると足早に歩き出した。振り返って、去っていく光子の姿を見たい誘惑に駆られた。しかし竹夫は前を向いたままどんどん歩いた。
歩くしかなかった。胸の奥から間歇的に悲しみがこみあげてくる。と同時に、何言ってんだ、とその感情をせせら笑う。怒りがあった。光子への。裏切られたと思う。よくも裏切ったなと思う。後悔しても遅いぞ。二度と俺はお前に優しくしないから。
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