その3
時計は一時半になった。六人の客がカウンターに座って麺をすすっている。二時を回れば客足もひくだろう。オーダーを全部出し終えて竹夫は一息ついた。入口のノレンの下から見えるアスファルトが白く陽を反射している。いい天気だ。どこかに行こうか、と竹夫はふと思った。どこがいいだろうと少し考える。いや、今日はじっくり話し合わなければいけないんだと思い直して、竹夫は厳しい顔つきになった。
ノレンを分けて、若い女が二人入ってきた。ここは女性客が六割方を占めている。買物帰りか、一 人はデバートの紙袋を提げている。二人とも流行の膝下で絞るパンツ姿だ。カウンターに腰掛けると壁に貼ってある品書きを眺め、「かやくうどん」と注文した。「二つですか」「そう」おさげ髪の女が、切り揃えた前髪の下で、マスカラの濃い眼をことさら丸くして言う。かわい子ぶりやがって、と竹夫は思った。メニューと言っても、うどんとそばがそれぞれ三種類ずつあるだけだ。それにすしとおにぎりがガラスケースに入れてあって、客は好きなものを取るのである。「いなり二つください」と声がして、おさげの女がケースからいなりずしが一つのっ た皿を二つ取り出した。竹夫はダシを二つ分小鍋にうつし、火にかけた。 碗を湯であたため、うどん玉に湯を通す。水を切ってダシの小鍋に入れ、菜箸でほぐしながら煮る。ダシがたぎりだしたところで碗に移す。前に並べてあるバットから定められた具を取って置いていく。単純な作業だ。どんな能力もいらない。おれがしなければならない事なのか、と竹夫は思う。これを 日曜も祭日もなく繰り返しているのだ。思い詰めない。頭に浮かんだだけで流す。無益だ。しかしそんな単純なはずの仕事が時
おりとても困難だった。例えば忙しい時に菜箸をにぎる手がケイレンを起こすような感覚に襲われる事がある。てきぱきと動かさねばならない自分の手の動きを意識してしまうのだ。また、 混んでない時でも、できあがりを待っている客の視線が自分の手捌きに集中しているのを意識すると手が自由に動かなくなった。その感覚はなんでもない時でも不意に甦っ て竹夫を苦しめた。 市の鑿華街にあるその店は、うどん、そば の専門店としてノレンも古く、名も知られていた。十時 の開店から八時の閉店まで、日に平均三百人の客が入った。
「はい、かやく二つ」 竹夫は碗を二人の女の前に置い た。女達はいなりに手をつけずに待っていた。話をビタリと やめ ると、割箸を割って、黙々と食べ始めた。 音を立てないためか唇をすぼめるよう にして食べる。 赤い唇が麵を吸いこむ様が妙になまめかしい。二人とも頬紅が濃く、大きなイヤリン グが耳たぶからさ がっている。そこまで目におさめると、視線が合わないうちに竹夫は顔を上げて入口を見た。相変らずの いい天気で、脚だけ見える往来の人通りも多い。その中の革靴三つが立ち止まり、ノレンを分けて入ってきた。 「いらっしゃい」竹夫が声を出すと、それが合図のように、カウンターに座っていた中年の女の三人連れが「お勘定して」と言った。テープルに座ろうとしていた三人の男はカウンターが空くのを知って、彼女達の後ろに 立った。竹夫は勘定を早く、ソツなく終らせようと妙に気負って 、レジの打ち方を間違え、 あわててやり直し た。こう いうことはちょくちょくあった。自分でも おかし いと思うのだが、不必要なところでカタ クなってしまうのだ。
男達にうどんを出し終えたところ へ、裏と店のしきりになっているノレンを分けて、竹夫の母親の俊子が出てきた。「いらっしゃいませ」と客にあいさつして、竹夫の則に寄り、「あんた、そろそろ行くんだろ」と言う。竹夫は時計を見あげた。二時二、三分前だ。光子とは二時に約束している。 あわてる ことはない、 と思う。待たされるのはまっぴらだ。「うん、そうだね」鈍く返事をして、竹夫はそのまま立って いた。あと一つ客をこな して出かけようと思った。二時半ごろ着けばよいのだ。それでも早すぎるか、 とも思う。とにかく待ちたくなかった。たまには待たせてやればいい。 「どうしたんだい。ここはいいからお行き」まな板に屈んで小ネギを切り出した俊子が促した。 「うん、まだいいんだ」竹夫 はそう答えたが、ぽかんと立っているのも変なので、薄揚げを切っておこうかと包丁を 把った。三枚ほどはすぐに切り終えた。あとの材料はまだ十分ある。手持無沙汰に竹夫は入口を見たが、客は入ってこない。さっきの若い女の二人連れが「いくらですか」と言う。ぺちゃくち ゃ続いたおしゃべりにも 一区切りがついた のだろう。竹夫は彼女らの愛想を終えたのを機に、 「それじゃあ、行ってくる」と俊子に声をかけて裏に入った。ノレンをくぐる前、ちらりと見上げた時計は二時五分だった。
二階の自分の部屋に人って着がえをし、 一階の居間の引出しから少しばかり金を取 ってポケットにいれた。土間に降り、外出用の革靴をはいて、竹夫は裏口から外に出た。出しなに土間の流しで器を洗っていた割烹着の婦人が、 「ぼっちゃん、デートですか」と、目を細めて声をかけた。もう十年以上も勤めている五十七才の寡婦だ。「ああ」竹夫は笑頭でこたえた。
ぼつぼつ歩いていくつもりだった。何も期待しない方がいいのだ。期待すれば馬鹿を見る。胸の中にある高まりを竹夫は いまいましく感じた。
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