夜の橋

坂本梧朗

その1


「そこに向うむきに立って、尻を振ってくれないか」竹夫がそう言うと、

「いやーん、恥すかしい」と女は言ったが、意外な事に立ちあがると、通路に出て、竹夫の顔を肩越しに見ながら、少し突き出した尻を振るまねをした。ミニスカートからパンティーの尻が覗いた。すぐやめて、 「あーあ恥ずかしい」と言いながら、竹夫にしなだれるようにしてシートに腰をおろした。


 横に座った女の顏を見たとき、竹夫は失望した。年も取っているようだし、美しくもなかったからだ。しかし女がまねだけにしても言われるままに動いたことが、竹夫の興ざめかけた気分を幾分回復させた。

「まあ一杯やり」                                                          

 竹夫は女のグラスにビールを注いだ。女はK市から鉄道で一時間ほどの距離にある地方都市名Hを店での名前にしていた。変わってるなと竹夫は思った。 アイシャドーをかなり濃く塗っていて、少し落ち落ち窪んだ感じの眼は大きか った。                                                 「黄色のバンティーてのは珍らしいな」                                         

 竹夫がそう言うと女は肩をすぼめてクス ッと笑った。竹夫はミニスカート の裾をつまんであげた。その小さな布の色は弱い店内の光にも鮮やかだった。竹夫は女の太ももを撫でた。それは女の体格に合せて長く太かった。大柄の女はプロポーションがよかった。それが年令と容貌に失望していた竹夫にはせめてもの慰めだった。その体形のよさが立って尻を振って見ろなどと言わせたのだ。竹夫は太ももを撫でていた手を股間にすべりこませ た。女は抗わなかった。竹夫は布の上からその部分のふくらみを撫でた。撫でながら女に話しかけた。その行為の中に感じるサディズムが竹夫を酔わせた。                                            「あんたここの人なの」                                                                                                       

 竹夫はいつもの質問をした。生まれを聞く。年をきく。そしてここまで流れてきた経緯を聞く。女の過去が不幸であればあったで、また、ただ遊ぶ金欲しさに働いているのであればそれはそれで、竹夫は楽しかった。遊び心に拍車がかかった。しかしこの女には年をきく気にはなれなかった。                                  「ここって」                                                                                      「K市の人なの」                                                                                                                     「いや、Y県」                                                                                                                       

 女は海峡をへだてた県の名前を言った。K市に県外から流れてきているホステスの多くは、北のY県、南接するO県出身だ。竹夫は頷いた。                                                              「長州か、え、長州やないね」                                                                                                              「そうね」                                                                                                                         

 竹夫は長州という言葉に、あの明治維新で主役を演じた、という感懐をこめたのだが、女の返事はあっきりしたものだった。                                                    「あそこの女はシンが強いちゅうね」                                                                                                 

 これといって根拠はなかった。ただ高杉普作を描い た小説を読んだとき、登場する女性にそんなイメージがあった。                                                             「そう、きつい性格ね。黙ってよく働くけどね」                                                                                                         

 女はすんなり肯定した。そのよどみなさ と、 口調にこもる実感が竹夫は少し意外だった。                                                                       「あんたもそうやろ」                                                                                                                   「あたし はだめ。あたしは弱いから」                                                           「どこが。ここか」竹夫は股間の指を動かした。女は竹夫の指の動きをどう感じているのか、先ほどから素知らぬ顔で受け答えをしていた。                                              「そう、そこ が弱いから失敗ばっかり」女はハハと笑った。 この女、面日いなと竹夫は思った。                                                                    「男に 騙された」 「え」「いや、失敗はかりというのは」「まあ、そうね」                                               

 女はほとんど前を向いたまましゃべる。そして、 チラッと言葉の合間に竹夫の顔を盗むように見る。         

「相手は」                                                                       「ん」                                                                          「あんたを騙した相手は。結婚してたの、その男と」                                                    「ん~、そう」女は、またチラリと竹夫の顔を見た。                                                            「へえー、なに、その男どうしたの、浮気でもしたか」                                                                            「そう、お決まりの話ね」                                                                        「ふ―ん」竹夫は唸るとグラスのビールを空けた。楽しかった。が渋面をつくって言った。                                   「それは大変だな。で、仕事はなに、その男」                                                        「建築現場の作業員」                                                                                                     

 人の好い女だ、と竹夫は思った。訊かれるままにしゃべる。ホステスには過去を訊かれると「関係ないでしょ、そんな事」と拒否する女も多い。                                                「まあ少しぐらいの浮気は仕方ないだろう、男なら」                                                     

 竹夫はわざと言ってみた。                                                                 「そう。少しぐらいなら仕方ないわ」女は合せるように言った。「でも帰ってくるのが月の半分くらいになっちゃうと、こららの方が浮気の相手のような気がしてくるのよね」女は言いながら竹夫のグラスにビールを注いだ。                                                      


 この人の好さもこの女の人生にはマイナスに働いたのだろう、と竹夫は思った。この商売の女にはよくあるタイプだ。騙されても男に尽くす。男を喜ばせる女だ。竹夫はことさらそう考えて楽しんだ。この人の好い女をもっと弄んで不幸にしてやろうという放恣な思いがふっと胸に広がる。パンティの中に指を入れた。あ、と女は言ったが、それだけだった。座り方のせいか布がきつく締めていて、淵に指がなかなか届かない。女は頭を竹夫に預けてきた。顔を見られたくないんだと竹夫は思った。女のうなじを吸った。耳たぶの下で金色のイヤリングが揺れていた。甘酸っぱい化粧の匂いにむせびながら、竹夫は光子のことを思った。お前にはこんな事は分かるまい、こんな悲しさは。竹夫は光子に胸の内で呟いた。そして女を強く抱き寄せると、指の動きを激しくした。「優しくして」女は耳許で囁いた。女の淵はなかなか潤ってこなかった。やがて指先が濡れた。                                                       


「おビール取ってくるわね」                                                  

 ひとしきりの興奮が去ったあと、女はそう言って立ち去った。竹夫はシートに、かなりズリ落ちた形で座っていた。気だるさの中に満足のようなものがあった。目を少し上げると頭の上に安っぽいシャンデリアが垂れていた。それをぼんやり眺めている間にも、耳にはひっきりなしにボリュームを上げた音楽が流れ込んできた。その曲に合せて、「あっどっこい、あっよいしょ」マイクを通した店長らしい男の掛け声が入る。前のテープルで、客の膝にこちらむきにまたがって座っているホステスが嬌声をあげている。目が合うと、腕をまきつけた客の後ろ頭の横で、ウインクしてきた。笑って応えながら、竹夫は惓怠を覚えた。チェホフのある短編が思い浮かんだ。シェークスビア劇に精進し、才能も評価されていながら、初舞台を踏む「大胆さ」が足りないためにチャンスを失ない、陽の目を見ないまま年を取った役者の話だった。老いて、「男爵」とあだ名され、馬鹿にされながら、場末の劇場のプロンプターをしているのだが、ある日、「ハムレット」がかかったとき、主役の役者に代わって大声でセリフをしゃべり出すのである。「こういうふうにやるんだ! 」とロ走りながら。舞台は滅茶苦茶、「男爵」はクビ。   


  自分もこうした遊びをくり返しているうちに、内部から腐って、芽の出ないまま人生を終るのかな、と竹夫は思った。

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