第14話 罪悪2
最初は優しかったと思う。
幼すぎて確実なことは言えないが、ウィズの朧気な記憶ではそうだ。
父と別れる少し前までは、母は優しかった。
「戸締まりを忘れないで」
隈を隠すために、母は化粧を濃く塗る。服は華美なものを選び、派手に着飾ることで、くたびれた空気を覆い隠す。
過去の母に何があったのかは分からない。どんな仕事をしていたかも教えてもらったことはない。
ウィズはただ、いつも通り告げるだけだ。
「うん、行ってらっしゃい。お母さん」
母を見送ると、トビラのカギを閉める。
ウィズはゆっくりと振り返った。
家の中で玄関だけはゴミがないので、足の踏み場は確保されており、スムーズに移動が行える。
廊下を進んでいき、玄関が見えなくなった辺りで、ゴミは急激に増え出す。そして居間に入ると悪臭はより強くなる。
いつもの光景だ。
ウィズはゴミ山の中から、カビの生えていないパンくずを拾って朝食とする。
朝は簡単なものでいい。それよりも、今日は約束がある。ウィズは友達と遊ぶために準備を始めた。
「ばいばーい!」
「うん、また明日ね!」
めいっぱい楽しんだウィズは、友達と別れの挨拶を交わす。
今日は良い日だ。
なんと、明日の約束まで取りつけられたのだ。
友達の習い事が急遽休みになったらしく、翌日も遊べるようになったという。留守番はあまり好きではなかったので、ウィズとしては僥倖だった。
大きく手を振りながら、友達が家に帰っていく。
ウィズも手を振り返す。
相変わらず変な家だな、とぼんやり思いながら。
ウィズの自宅は大樹の最上階にあった。別に裕福というわけではなく、利便性の悪さから高層になればなるほど安く上がるのだ。
かといって、逆に低すぎてもさほど値段は張らない。有事の際には真っ先に危険な目に遭うためだ。
そういった意味では、最上階の自宅の前で亡くなったウィズの母は、かなり不運だったと言える。よほど執念深いモンスターに狙われたのだろうから。
そして最も高価な家は、会議場や主要な施設が集中する中層に存在しており、ウィズの友達の家もそこにあった。
ウィズからすれば帰り道であるため、友達を見送ってから帰るのがもっぱらの習慣だった。
友達が前を向き、家のトビラに手をかけたので、ウィズも手を下ろす。
この瞬間はやはり寂しい。
早く明日にならないかな、そう思いながら眺めていると、友達が手を動かす前にトビラが開いた。玄関から友達の母が出てくる。
聞こえてくるのは、友達と友達の母の言い合いだ。
「こら! あんたは、またこんなに服を泥だらけにして!」
「ち、違うよ、ママ! これは、その……ウィズちゃんと遊んでてなっちゃったの!」
「人のせいにするんじゃないの! 上から見てたわよ? あんた自分で水溜まりに突っ込んでたじゃない! どんな遊び方をしてるの! まったく……少しはウィズちゃんを見習いなさい。あの子はいつも綺麗に遊んでいるでしょう」
叱られた友達は泣きそうになっていた。
友達の母は怒っていた。
──にもかかわらず、二人は仲が良さそうだった。
ウィズにはその理由が分からなかった。
背を向けてウィズは家に帰る。
カギが掛かっていたので、開けてから中に入った。
別に友達を羨ましいとは思わない。
ウィズだって母に心配されているのだ。
というのも、そうでないなら戸締まりを忘れるな、なんて毎日のように注意する筈がないから。
ウィズはとぼとぼと廊下を歩き、ゴミだらけの居間に身を収める。
「くさい」
これがウィズの日常だ。
だから違和感はない。
匂いについての感想を漏らしたのだって、無意識に過ぎない。
しかし、その日は間が悪かった。
「くさいって何? あんたも私が悪いって言うわけ?」
背後からの声に、ウィズは慌てて振り返る。
そこには、誰かに衣服を乱されたような母がいた。
胸がきゅうっと掴まれる感覚に苛まれる。
どうして母がここに。
玄関のトビラが開いた音はしなかった。
ということは、母は既に帰ってきていたのか。トビラは施錠されていたので、まだ帰宅していないと思い込んでしまった。
焦るウィズは、母から腹を殴られた。
幼い体ではその衝撃を受け止められず、床に倒れる。
痛い。ウィズは悶絶する。呼吸が苦しくなり、か細くあえぐ。息を吸おうと必死に呻いていると、母が馬乗りになってきた。
服を捲られ、腹を爪で掻きむしられる。
折檻を受けるのはこれが初めてではない。
今までも数え切れないほど痛めつけられてきた。
しかし、それでも痛いものは痛いし、嫌なものは嫌だ。
それからどれだけの時が経過しただろう、母はウィズから離れていく。
いつもこうだ。暴力を振るった後は放置される。
ウィズは床に倒れたまま、力なく横を向く。
ゴミだらけだ。視界はあらゆるゴミで埋め尽くされている。
ウィズは弱々しい動きで、ゴミ山の中から腐った野菜くずを拾う。
(くさい)
ぽん、って消えてくれないかな。
そんなことを薄れていく意識の狭間で願う。
無論、本気ではない。叶うとは思っていない。もし本当に願うだけで叶うなら、自分の体は今、こんなにも痛くない筈だから。
願いは残酷にも散り、腐った野菜くずは指の隙間からこぼれ落ちる────その前に、跡形もなく消失した。
ウィズの目が僅かに見開かれる。
どこに行ったんだろう。どうして消えてくれたんだろう。
ウィズには分からない。
しかしながら、それが魔法だということ、その魔法の名前、発動のさせ方。それらが何故か認識出来た。
驚いた。
でも、同時に少し怖かった。
ウィズは痛みの為に気絶するように眠った。
翌日、ウィズは目を覚ます。
痛む体を起こして、完全に意識が覚醒するのを待つ。床で寝るのはいつもの事なので、慣れたものだ。
少しして意識がハッキリしてきたウィズは、時計を見る。
ウィズは焦った。
眠りすぎたのだ。昨日遊んだあの友達との約束の時間までもうまもなくだ。
「ウィズちゃーん! 来たよー!」
もう来たのか。急かされたウィズは混乱する。
香水を振りかけ、服だけ適当に着替えると、ウィズは外に出た。
ウィズはカギを閉め忘れてしまった。
宝物の存在を忘れたのだ。
だから、その罰なのだろう。
ウィズが帰った来た時には、もう遅かった。
「なんでカギを閉めて出ていかなかったの」
感情の失せた顔で、母は呟く。
そして直後、一転して爆発する。
「私、言ったよね。戸締まりを忘れないで、って。あれだけ言ったよね? 何度も言ったよね? 毎日言ったよね? そうでしょう!? そうよ! 私は言ったもん!」
母はウィズに飛びかかった。
まだ癒えていない腹の傷が、執拗に掻きむしられる。
「痛い! 痛い! 止めてよ、お母さん!」
「痛い? あんたが悪いんでしょ! あんたが悪いから痛いの! 私の方が痛いの!」
その時、ウィズは肉を掻きむしられる痛みさえ忘れて、絶句した。
知らなかったのだ。
自分が悪かったことを。
自分より母の方が痛かったことを。
それならば仕方ないだろう。
何故なら、友達の母も言っていた。
人のせいにするな、と。
我が子が泣くまで叱責しながら、その間に確かな愛情を育める親が言うのだから、それは正しいのだ。
ようやく全てを理解したウィズは、母からの虐待を受け入れた。
それは、母が亡くなったあの日まで続いた。
その歳月は七年に渡った。
◆
話を締めるウィズを、バリーは無言で見守る。
「──それで、母は亡くなったの」
過去を語り終えたウィズは、自身の感情を吐露する。
バリーはそれを黙って聞くことにした。いや、違う。聞かなければならないと思ったのだ。
「父は良い人で、悪いのは私じゃなくてモンスターだって言ってくれた。でも……私にはどうしてもそうは思えなかったの。あの日、私がカギを閉めなかったら……そうじゃなくても閉め忘れてたら。せめて留守番をしてたら。何か一つでも良い。私が何か出来ていれば、あの人は助かってた」
バリーはウィズから全てをぶちまけられた。
初めは第三者のような落ち着いた語り口調だったのが、次第に自分の記憶を追体験するようになり、今では彼女の心情まで叩きつけられている。
彼女の吐く息は荒い。その眦には急速に涙が溜まっていく。
「私が悪いの。あの人の気持ちを分かってあげられなかったから。自分のことばっかりだったから。……だから、そのせいなんだと思う。もう……ずっとなの」
耐えかねたように、ウィズの瞳から大粒の雫が溢れる。
「ずっと、叫ばれているような気がするの。──あんたのせいだって」
ウィズは自分を虐待する母の姿を重ねるように、表情を歪める。
それはまるで、魂の慟哭みたいだと、バリーは思った。
「でも……でも、もう嫌なの!」
初めて、ウィズはバリーの前で張り叫んだ。
一度吹き出してしまえば、彼女の激発は堰を切ったように止まらない。
「【アニヒレーション】も! 家のカギも! 全部全部全部! みぃいいいいんな!! 見る度に頭が割れそうになる!!」
発狂したウィズは、爪を立てて自分の腹をガリガリと裂く。
母に搔き毟られたという古傷が開いたのだろう、服の上から血が滲む。
長年に渡って溜まっていた淀みが決壊したようだ。
恐らく、ウィズは他人に自分の過去を打ち明けた経験がない。その為にやり場のない感情が、彼女を自傷という凶行に及ばせたのだ。
狂乱するウィズの気持ちが、バリーには痛いほど分かった。
ただ、完全には寄り添ってやれないかもしれない。バリーは母からの愛情を受け取っていたのだから。
では、そんな唯一の支えさえ無かった彼女は、どんな思いで今日まで生きてきたのか。
バリーには計り知れない。
辛かったな──。なんて、とてもではないが言ってやれない。
だが、それでも。
それでも、そんな言葉ですら生易しいほどの、大きな大きな心の働きをバリーは覚える。
黙って彼女の凶行を見つめていたバリーは、腹を引き裂くその手を掴む。
「──もういい」
静かな声で語りかける。
ウィズの自傷行為を止めたバリーの手に、彼女の涙が滴り落ちてきた。
──熱かった。
悲しみによる涙だと思われるのに、そこには熱があった。
「よくない! 離して! 私は罰を受けなきゃいけないの!」
「もう止めろ、ウィズ!」
バリーに右手を抑えられたウィズは、左手を腹に伸ばそうとする。
それをバリーは右手で止めた。
「もう、たくさんだろう?」
知ったようなことを言うバリーに、ウィズが憎しみを込めた目で睨みつける。
「あなたに何が分かるっていうの? 私にだって分からないのに!」
「いいや、分かる」
「……え?」
「分かるさ」
そう。分かるのだ。バリーには。
全部は分からなくても、分かることだってある。
「ウィズ、己を偽るのは今日限りにしろ」
話を聞いて確信した。
ウィズは己を騙している。
悪いのは自分?
罪悪感に囚われている?
冗談ではない。
ウィズは心の底から渇望している。
「ウィズ、お前は──」
バリーはその一言で、母親に囚われたウィズの魂を解放する。
「──お前は父に、悪いのは母親だと、そう言って欲しかったんだろう?」
ウィズはびくりと全身を震わせた。
滂沱にまみれた顔で、バリーを見つめる。
「お前の父は言ったそうだな。悪いのはモンスターだと。だが、それは違う。そうじゃない。お前を虐待し、育児を放棄し、ゴミ溜め同然の家にカギを掛けることを強制したのはお前の母だ」
ウィズの口がわななく。
「挙げ句にそれをお前のせいにしたんだぞ。許せなかっただろう? 怨みを晴らしたかっただろう? しかし、それはどれだけ望んでも叶わなかった。お前の母は既に死んでいたからだ」
ウィズは言葉を返してこない。ただ俯いて視線を逸らすばかりだ。
「だからお前は信じて待っていた。父がその一言を言ってくれることを。唯一の味方である筈の肉親が、自分を肯定してくれることを」
ウィズの顔が少しずつ持ち上げられていく。
今、彼女はこれまで押し殺してきた感情と向き合おうとしている。
ならば、バリーがやるべきことは一つだ。
発する声に灼熱を宿す。
「だが、それが望めないなら……。誰も言ってくれないなら、俺が代わりに言葉にしよう」
ウィズの顔が完全に持ち上がった。
バリーは真っ赤に充血した彼女の目と、自分の視線を交差させる。
そして、力強く告げる。
「悪いのはお前の母だ」
ウィズの両手から力が抜けた。その手が腹に向かうことは、もう無いだろう。
バリーはウィズの両手を離す。
「そんな、こと……」
「認めろ。いや、もういい加減認めてやれ。これ以上はお前の心が哀れだ」
「で、でも、それは悪いことで……。そんな風に思っちゃいけないことで……」
ここまできてこんな台詞を言える時点で、ウィズも常軌を逸している。
そう思うのはバリーの倫理観が狂っているからだろうか。
「そんなことはない。俺が肯定してやる。保証する。お前が抱いた感情は正しい」
バリーの断言に対し、ウィズはしゃくり上げながら答える。
「で、でも、でも、あの人は、【アニヒレーション】のことを、知っていたかも、し、しれなくて……」
「因果が逆転している。お前がその魔法を発現させたのは、虐待されてから暫く経ってからだ」
ウィズは反論出来ない。しかし、それでも食い下がろうとする。
「でも、私はあの人の仕事とか、何があったのかとか、分かってあげられなかった……」
「幼い子供に何が出来るんだ? 出来る筈がないだろう? 第一、それは我が子に暴力を振るっていい理由にはならない」
「でも……」
無理に自分を否定しようとしているのは戸惑いからか、そうでなければ長い間気持ちを押し殺していた弊害か。
「ある種の呪いのようだな。まったく、強情な奴だ」
バリーは苦笑する。それからウィズへの返礼と言わんばかりに自らの秘密を打ち明ける。
「ウィズ。言ってなかったが、俺はこの世界とは別の世界からやって来たんだ」
「……別の世界?」
「そうだ。だから、いずれ俺は元の世界へ帰ることになる」
突然の告白に困惑しているウィズを無視して、バリーは右手に魔力を集中させると、魔法名を唱える。
「 "【カギ創造】" 」
以前よりもさらに強くなった輝きが放たれた。
それは特別な輝き──十回目の発動の際の光に近い。
掌を中心として放出された光は、やがて収まる。バリーは視線を下げて目視した。
そこには、虹色のカギがあった。
「カギ……?」
「数奇な運命だな。形は違えど、ラファに渡したものと同じカギが創られるとは」
ラファに渡したカギは取っ手が丸かった。対して、いま創ったカギは取っ手が四角だ。
ただし色は同じ。そして順番としては一回目なので、虹色のカギが創られるのは不自然に思えるが、それはひとまず後回しだ。
「ウィズ、お前はカギがトラウマなんだろう。なら、俺が新たな意味を与えてやる。お前の脳裏にへばりついた、母親との記憶を塗り潰してやる。──手を出せ」
促されるままにゆっくりと手を差し出してきたウィズに、バリーは虹色のカギを渡す。
「確かに受け取ったな」
「……どういう、こと?」
「もしこの先、お前が母親との日々に押し潰されそうになった時には、そのカギを見て思い出せ。たとえ世界が離れていても関係ない。そのカギを使った先にはきっと俺が居る。いいか、ウィズ。こっちを見ろ。──俺を見るんだ、ウィズ・リングス」
涙で濡れたウィズの大きな瞳が、目つきの悪いバリーの視線と絡まった。
なればこそバリーは言葉を濁さない。
悩まない。
もう、先ほどまでとは違う。
今度こそは、一度も途切れさせることなく、ハッキリと伝える。
「──俺はお前の味方だ」
その時、ウィズの顔から憑き物が取れたようだった。
「う、あ……」
言葉にならないあえぎが漏れる。
ウィズは声の出し方を忘れるが、しかし必死に思い出そうとする。
そんな風に迷い、呼吸を繰り返し、そして──ずっと心の奥底に押し込めていた感情が、解き放たれる。
「うあ……うあああああん!!」
ウィズは泣く。大声を上げて涙する。
人目をはばからず泣きじゃくるその姿は、まるで子供のようだった。
バリーは目を細めると、かつて自分の母がそうしてくれたように、ウィズの頭をさすってやる。
「救われても良いと信じよう。そうでなくては、俺達は何のために生まれてきたんだ」
ウィズが閉じ籠っていた分厚い殻は、バリーが打ち砕いた。
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