寵妃の葬列

平本りこ

寵妃の葬列 上

 昨晩、寵妃が死んだ。


 常日頃、皇帝の妃たちは宮殿ハレムの奥深くで慎み深く暮らし、おおやけに姿を見せることはないものの、その寵妃の美しさは広大な帝国の隅々にまで知れ渡っていた。無論、実際に寵妃の姿を見た民はいない。それでもその美貌がもてはやされたのは、ひとえに皇帝の並々ならぬ寵愛ゆえである。


 寵妃が眼前に現れたその日から、皇帝は後宮に囲った他の女たちと過ごすことはなくなった。帝国の内外から集められた色とりどりの美姫に、見向きもしなくなったのである。


 ゆえに市井しせいの民は、かつて好色であった皇帝の心を捉えて放さぬその妃を、たいそう美しく気立てが良く、そして他者を出し抜く狡猾さを併せ持つ女だと噂した。


 実際、寵妃を目にしたことのある宦官や高官らの言うことには、彼女はこの世のものとは思えぬほどの色香を放つという。一方で、立ち居振る舞いは泉水のように清純であり、その稀有な魅力から、彼女はこの世ならざるモノなのではなかろうかと、戯れ半分本気半分の噂が囁かれた時期もある。


 その寵妃が、昨晩死んだのだ。


 愛する妻を喪った皇帝は、悲しみに暮れることも許されず、日を空けずに盛大な国葬が営まれた。


 帝都、石造りの邸宅が建ち並ぶ幅広の砂道を、葬列が厳かに進む。


 皇帝と近習に担がれた棺が、厳粛な空気を漂わせつつ、墓地へと向かう。民はそれを、道の端や軒先から涙を浮かべつつ見送った。


 葬列は本来、何人の妨害も受けぬものである。しかしそれは、突然やって来た。


 先頭で棺を運ぶ皇帝の正面に、足先から頭頂までを襤褸ぼろで覆った命知らずが飛び出したのだ。


 すぐさま近習が曲刀を抜き、恫喝する。


「無礼者! こちらにおわすは偉大なる皇帝陛下であられるぞ。すぐさま立ち去れ、物乞いめ」


 しかし襤褸に包まれた人物には怯えた様子は一切ない。


「ああ、あの棺は」


 まるで、何かに引っ掛けたかのように歪に空いた襤褸の裂け目から、掠れた女の声が漏れ出した。


「あれは、寵妃様の棺ですね」


 そのまま、吸い寄せられるかのようによろよろと、襤褸の塊が足を進める。


 剣呑な鈍色の光を纏う刃を突き付けられても、怯える様子は欠片もない。あまりに奇妙な振舞いに、近習の方が竦んで一歩引く。


 女は悪霊のような足取りで、一歩、一歩と棺の方へと進んで行く。やがて、手を伸ばせば皇帝に触れられるほどの距離まで近づくとぴたりと停止して、縋るような声音で言った。


「お美しかったですか」


 皇帝の表情が不快を露わに強張った。女は続ける。


「お妃様はお美しい最期でしたか。私のように醜くはございませんでしたか」


 狂人か。


 常軌を逸した言動に、葬列を見守る民の間に騒めきが走る。


 皆一様に、嫌悪を全身に張り付かせ、顔を顰めながら様子を窺っている。


 しかし良く見る者ならば、その群衆の中、ただ一人、彫像のように眉一つ動かさぬ男がいることに気づくだろう。


 被り物を目深にし、目元が陰になっているが、覗き込めばその瞳は金色に光る。


 彼は印象的な眼光を放つ目をしかと見開いている。葬列を凝視しつつ、回想していた。寵妃と呼ばれた女の末路を。







「お願い。美しくなければ私には何の価値もないのだ。どうか、どうか願いを叶えて頂戴」


 窓も扉も閉め切り薄暗い部屋の中で、女が叫んでいる。


「お願い、お願い、お願い。魔人よ助けて。あなたと私の仲ではないか」


 豪奢な衣裳を纏い、頭部を薄紅色の布で覆ったその女は、古びたランプを胸に抱いている。


 彼女はそれを、時に愛撫し時に殴打して、壁に投げつけたかと思いきや、慌てて駆け寄り拾い上げ、頬ずりをしてから床に叩きつけた。


「どうして、どうして叶えてくれぬのか。最期に陛下にお会いしたい。だからどうか」

「お妃様、私はこちらにおります。どうかお心をお静め下さい」


 分厚い緞帳を垂らした窓の側から、男の声がした。寵妃は弾かれたかのように顔を上げる。途端に無邪気な子供のような調子になり、敷物を蹴り飛ばしてつんのめりながら、男の方へと駆け寄った。


「ああ、魔人よ。やっと来てくれたのか。ずっと呼んでいたのに出てきてくれないだなんて、意地悪だ。さあ、お願い。私の美しさを取り戻して。死ぬ前に陛下に会いたいの」


 男は彫像のように表情を変えず、己の胸に縋りつく妃を見下ろした。


「できかねます」

「なぜ!? 魔人は息をするように他者に化け、同じように簡単に他者を化かすではないか」

「もちろん、自身が化けることは造作ありません。しかし他者、つまりあなたを化かすためには代償が足りないのです。我々魔人は人間の宝を食らうことを対価として、人々の願いを叶えます。いかに大帝国の寵妃様といえど、魔人と人間のことわりを歪めることは叶いません。あなたにはもう、私が食らうだけの宝が残されておりません」

「いいえ、まだ」

「あなたの宝は、若さでした。しかしこれを対価にお美しさを維持するためには、もはや若さが足りません」

「まだ、私は生きている。そう、命こそが宝。残りの命を差し出そう!」

「いいえ、足りません。若さを失ったあなたはもう、命の残量も僅かです」

「……どうして、どうしてなの!」


 寵妃は魔人の胸を拳で叩く。鈍い殴打音が、薄闇に沈んでもなお絢爛な室内に響き渡る。


 しばらくされるがままになっていた魔人だが、やがて一瞬だけ眉を顰め、唇を開く。


「お会いになればよろしい」


 寵妃は拳を止めて、顔を上げる。薄紅色の布の間から、白濁した瞳が覗いた。


「何を言う。こんな容貌で、陛下にお会いする訳にはいかぬだろう」

「何をおっしゃいますか」


 魔人は同じ言葉を返す。


「これがあなたのありのままの姿です。本当に愛があるのならば、陛下はあなたがどんな姿をしていても、死の間際まで慈しんで下さるでしょう。秘密を抱えたままこの世を去るのは、何とも虚しい」


 寵妃は大きく肩を揺らし、押し黙る。しばらくしてから狂ったように痙攣し、再び拳を振り上げた。


「魔人め、魔人め! おまえが悪い。そうだ、おまえが悪いのだ。おまえに出会わなければ……」


 理不尽を吐き出す口が、不意に閉ざされる。


 しばしの静止の後、寵妃は顔を上げ、薄紅色の布の奥で歪んだ笑みを浮かべた。


「わかったぞ。そうか、私の代わりにおまえが死んでくれ」

「陛下にお会いしたいのでは?」

「私自身が会う必要はないのだ」


 女の胸元でランプの蓋が閉じられた。寵妃は頭部を覆う布を剥ぎ、金のランプにきつく巻きつけて封印をする。


まじないだ。このようなこともあろうかと、この布には魔従えの呪いを刺繍した。この願い、いや、命令は、対価などなくとも遂行可能だろう。魔人は、息をするのと同じように姿を変えるのだから」


 魔人は、覆い布を失った寵妃の頭部を見て、顔を歪めた。魔人の金色の双眸が、憎しみと哀れみをない交ぜにしたような、深遠な色を帯びた。

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