吾輩はネコである

接木なじむ

(一)

 吾輩はネコである。タチはまだいない。

――そのはずだった。

 私の目の前に座るこの女。立花たちばな菜々子ななこは言った。

みなみ先輩、好きです」

 背筋を伸ばし、真剣な眼差しで私を見つめながら、尚、真剣そのものである口調で、真っ直ぐにそう言った。

 そのとき、私は、丁度、前菜で出されたサラダを口に運びかけていたところだったので、阿保のように口を開けたまま、阿保のように固まってしまった。

 ここは、私の自宅の近所にある、ランチの時間帯だけ営業している小さな洋食屋だ。つまり、今は昼時で、狭い店内に客がそれなりに入っている。私は、ちらりと周りを見渡して、誰もこちらに注目していないことを確認する。

「私、こう見えても女なんだけど、それは知ってる?」

 とりあえず、口の前まで運んだフォークを一旦下ろし、私は、大前提となる部分を彼女に問いかけた。

「はい、もちろん知っています。女性である南先輩が好きなんです」

「さ、さいですか……」

 またも、好きであるという気持ちを真っ直ぐに伝えられ、その歪みのなさに、私は、つい狼狽してしまう。

 断っておくが、元来、私はレズビアンだ。だから、女性が女性を好きになるという向きも、それ自体に違和感は覚えない。私にとっては自然なものであり、彼女の告白は、驚くべきものではない。しかし、それが、私に向けられたものとなれば別だ。いや、好意を向けられること自体を嫌っているわけではない。むしろ、素晴らしいことだ。喜ばしいことだし、自分でも誇らしく思う。だが、女性が女性を好きになるという現象は、男女間のそれに比べたら、発生する確率は非常に低く、好きになった女性がレズビアンであるとなれば、さらに低くなる。そして、そんな奇跡のような現象が、我が身に起こったとなれば、驚かないわけにはいかず、疑いだってかけたくもなる。

「こんなに人を好きになったのは初めてで、どうしても伝えたかったと言うか、告白しないと絶対後悔するって思ったんです」

「はあ」

「迷惑でしたか?」

「いやいや、そんなことはないよ。兎に角、そこまで想ってくれていることに対しては『ありがとう』という言葉を返すよ」

「いえ、とんでもないです」

 そう言って、彼女は、満更でもない表情を浮かべて、テーブルに視線を落とす。そして、左手でフォークを持ち、サラダをついばむように食べ始める。

 話は終わりだろうか。

 すると、それを見計らったかのようなタイミングで、メインの料理が運ばれてくる。注文はふたりとも同じで、今日のおすすめであった、クリームパスタだ。

「わあ、美味しそうですね」

 彼女は、運んできたウェイトレスに、ありがとうございますと礼を言い、ウェイトレスが席を離れると、早速、いただきますと言って、フォークにパスタを絡め始める。

 律儀な子だ。

 そこからは、お互い、黙々とパスタを頬張った。交わした言葉は「美味しいね」「はい、とても美味しいです」のふたことだけ。とても静かで、粛々としたランチタイムだった。

 私は、先程の話の続きが、彼女の口から出るのを待っていた。好きであるという告白の続き。即ち、今後の話だ。しかし、パスタとサラダを食べ終わるまで、ついに彼女の口から、その話が語られることはなかった。それどころか、彼女は非常に満足気な表情というか、どこか達成感に満ちたような表情を浮かべていた。

 だから、私の方から問いかけることにした。

「ななちゃん……いや、立花さん」

「はい」

「さっきの話なんだけどさ……立花さんは、これからどうしたいの?」

「これからどうしたい?」

 彼女は、小首を傾げて、きょとんとする。

 はて、これはおかしい。

 好きであると、その想いを告白したのなら、お付き合いするかどうかの話に発展するのが、一般的な流れではなかろうか。そうでなければ、告白した理由がわからないし、告白された側としても、どうしていいものか、わからなくなってしまう。

 何故って――

 もう、これまで通りの関係ではいられなくなるのだから。

「だから、ほら、付き合うとかさ……そういうのは考えてなかったの?」

 そう、私が問いかけると、彼女は、なるほどと言った風に手を打つ。

「全く考えていなかったです」

「そ、そっか……」

 もし付き合ってくれと言われたなら、甘んじて受け入れるつもりでいただけに、思わず落胆する私だった。

 何故だろう。これではまるで、私が告白して、挙げ句に振られたような構図になっているではないか。

「いや、あのね、好きって言われてから考えていたんだけど……私としては、付き合ってもいいなって思ったのよ。――実を言うと、私レズビアンなんだけどさ、女性同士の恋愛って、それを許容してくれる人に出会うことが、まずもって困難だから、半ば諦めていたんだよね。もう恋愛はできないかもなって。でも、そんなところに、立花さんからの告白があったから、これを逃したら、もう私に恋愛はできないかもって思ったんだ。だから――ちょっと打算的で、立花さんには失礼かもしれないけど――付き合ってもいいかもなって思ったんだ」

「なるほど。そうでしたか」

「うん。――それを踏まえて、どう? 立花さんはこれからどうしたい?」

 そう問われ、彼女は、考える。

 女性らしい間の空いた眉間にしわを寄せて、うんと考える。

 その間、やはり見計らったかのようなタイミングで、ウェイトレスが、空いた皿を下げに来る。そしてやはり、彼女は、そのウェイトレスにありがとうございますと、律儀に礼を言い、ウェイトレスが去っていくのを見送ってから、口を開く。

「先輩は、私の推しなんです」

「推し?」

「はい、最推しです」

「は、はあ……」

 予想外の出だしに困惑しつつ、私は、大人しく二の句を待つ。

「私、推しに対しては、完全に無欲なんです。こうして欲しいとか、こうあって欲しいとか、そういうのは一切ないのです。言うならば『推し至上主義』です。推しが好きなように生きてるのを観るのが、私の嗜好であり至高なのです。だから、付き合って欲しいなんて考えは、まるで起こらなかったし、烏滸おこがましいとさえ思います」

「そ、それじゃあ……」

 今のまま、中途半端な関係のまま――?

 彼女は首を横に振る。

「でも、先輩の隣で、好きなだけ愛を伝えられる権利を得られるのなら、それもありかもしれません。――いえ、それがいいです」

 そう言って、彼女は、照れ臭そうに微笑む。

「えっと……、ということは……」

「私と、お付き合いして頂けないでしょうか」

 私の目を真っ直ぐに見て、彼女はそう言った。

 素直に、率直に。

 だから、私も――

「はい、よろしくお願いします」

 と、真っ直ぐに答えた。

 それから、ふたり見合って、妙な間が開く。そして、どちらからともなく笑った。

――ああ、そうだ。

 私は、ふと、大事なことを思い出した。

「立花さ……ななちゃん、確認しておきたいことがあるんだけどさ」

「はい、なんでしょうか」

 大事なこと。

 ふたりのこれからに関わる、大事なこと――。


「私、ネコなんだけど、大丈夫?」


 彼女の時が一瞬止まる。

「えっ、そうなんですか?」

 明らかに困惑した反応だ。

「ああ、いや、ごめん。変だよね。こんな見た目してるのにネコだなんて……」

 そう、私は、背が高い。どのくらい高いかと言うと、男性の平均身長を優に超えているのだ。

 加えて、中性的な顔つきをしているため、傍から見たら、ネコであるようにはまず見えないだろう。

「まあ、変か変じゃないかで言ったら変ですけど……いいんじゃないですか? 私は好きですよ」

「引かないの?」

 私は、恐る恐る訊く。

「はい」

 即答だった。

「どうして?」

「どうしてって……、だって、可愛いじゃないですか」

「え、それってつまり……」

「はい、よろしくお願いしますね、猫ちゃん」

「――――!」

 私は、喜びに打ち震えた。

 ついに――

 ついに出会えたのだ。

 自分を可愛がってくれるタチに。

 ありのままを受け入れてくれる存在に。

 もう、自分を偽り、タチの振りをする必要もない。ありのままの自分を愛して貰える。

 興奮と感動とが、涙となって溢れ出そうになる。

 身体の内から沸き起こる歓喜の声をぐっと飲み込んで、私は言う。

「……うん、よろしく!」

 そうして、ふたりの大事な話は落ち着いた。すると、それを見計らったかのようなタイミングで、ウェイトレスがデザートを運んできた。

 ハーフコースの最後は、二種類の中から選べるデザートで、ふたりとも、ガトーショコラを選んでいた。

 ウェイトレスがやけに向きに気を遣いながら私の前に置いたそのお皿。見ると、皿の縁に、チョコペンで「Best Wishes」と書かれている。

 まさか、と思い、厨房の方を見遣ると、料理長らしき人物が、こちらを見ながら親指を立てていた。

 やはり、見計らっていたようだ。


 店を出ると、散歩がてら、少し遠回りをしながら自宅の方へと向かう。

 来るときとは違い、横並びで手を繋ぎながら。

 緊張で身体が少し火照る。

 十二月の冷たい風がちょうど気持ちよかった。

「美味しかったけど、すごくお腹いっぱい。ちょっときついかも」

「そうですね。結構、ボリューミーでしたよね」

 そう言って、彼女はお腹をさする。

「この後、どうする?」

「何も考えていなかったですね」

 うーん、と。上を見上げながら考え込む彼女。

「告白したら、もうそのまま帰るつもりでいたので、本当に何も考えていませんでした」

「人の心をざわつかせるだけして、そのまま放置しようとしていたの……?」

「ふふっ。まあたしかに、そんな時代もありましたね」

「昔はやんちゃしてたけど~、みたいなニュアンスを出すな」

 私は、やや遠慮がちに突っ込む。

 すると、彼女は突然「あっ」と声を漏らして、路傍を指さす。

「南先輩、見てください。エノコログサがありますよ」

「えっ?」

 見ると、本当にエノコログサがあった。美しい枯色を呈した豊かな穂が、静かに揺れている。

 たしかにエノコログサだ。エノコログサで間違いないが……

 何故、エノコログサ――?

 特段、珍しい植物と言うわけでもなく、街中でもよく見かける、ありふれた雑草なのだが……

 そんな、不自然とも言える彼女の興味に疑問を感じていると、彼女の方は特に構うことなく、先程の話を続ける。

「もし、南先輩がよければ、先輩の家にお邪魔させて頂きたいです」

「ああ、別に全然構わないけど、私の家、何もないよ?」

「でしたら、私のスマホで映画を観るとかはどうですか? いくつかサブスクに入っているので、色々観れますよ」

「賛成。そうしたら、そこのスーパーで紅茶でも買っていこうか。ななちゃん、紅茶は好きだったよね?」

「はい、是非そうしましょう」

 そうして、目的地をスーパーに変更して歩き出したときだった。

「あっ、南先輩。ここにもまた、エノコログサがありますよ」

 ほら、と言って、彼女は指をさす。

「…………あのさ、なんでそんなにエノコログサを私に見せようとしてくれるの?」

 私は、ついに問いかけた。

 すると、彼女は「えっ」と、大層不思議そうな表情を浮かべる。

――だって、


「だって、先輩は猫なんですよね?」

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