第三十一章

ジェシカがマリアの代理としてリサイタルで出演するチケットは瞬く間に売り切れ、それでも連日、問い合わせが殺到する為、音楽ホール側はジョージとジェシカに追加公演を提案した。

ジョージとジェシカは話し合い、スケジュールを調整して追加公演を受諾した。

追加公演のチケットも、発売と同時にほぼ売り切れてしまった。

「凄いわ…私、プロのピアニストじゃないのに…」

チケットの売れ行きに驚き思わずジェシカは呟いた。

「なんの、ジェシカは私のホテルでのロビーコンサートやレストランで演奏してきたじゃないか。それを観て聴いてきた人達がチケットを買ってくれたんだ。積み重ねてきた実力だよ」ジョージは言った。

トニーからは行く先々の国からのメールが届いた。見たことのない景色、ツアークルー達やメンバーと撮った写真も添えられていた。

ジェシカは写真をプリントして小さなアルバムに入れて眺めた。


トニーはワールドツアーの最中に十七歳の誕生日を迎えてライヴ会場でメンバーやツアークルー、この日のライヴを観に来た観客に祝ってもらった。

「マヂか!トニー、十七歳になったの?落ち着いているっていうか…二十歳くらいか、もう少し年上だと思ってたよ」ツアークルー達が口々に言った。

「俺、そんな歳上に見られるの喜んでいいのかな~」ツアークルーに注いでもらったオレンジジュースを片手にトニーは呟いた。

─ジェシカにも一緒に祝って欲しかったな…トニーは誕生日祝いの様子を写真に撮ってもらいジェシカにもメールで送った。

「トニー、誕生日おめでとう。一緒にお祝いしたかったわ」電話口で寂しげにジェシカが言ってトニーは胸が痛んだ。トニーも一緒に居たかった。

「ありがとうジェシカ。俺も超一緒に居たかった。今回はリアルタイムはダメだったけど…でも帰ってから祝って欲しいな」と、トニー。

「帰ってから?」

「うん二人だけで祝いたいな」

「わかったわ。トニー、誕生日プレゼント用意しておくわね。何か欲しいもの、ある?」

「うーん…物じゃないけど、どうしても絶対に欲しいのは一つ、あるんだけど…」

「なに?」

「ジェシカが欲しい。本当は今、この瞬間も。その、Hしたいってだけの意味じゃなくて、えっと~その、それはしたいけど…うまく言えないけど…一緒に居たいんだ」

「トニーったら…わかったわ。用意しておくわね」ジェシカは思わず笑った。

トニーはプロポーズの前哨戦として一緒に居たいと言ってみたけど…やっぱりきちんと会ってから言った方がいいんだろうなと思い、それ以上は言わなかった。

ジェシカは電話の後でトニーから送ってきた写真をゆっくりと見て過ごした。


月日は瞬く間に過ぎていった。

いよいよリサイタルの前日、トニーから電話がかかってきた。

「ジェシカ、いよいよ明日だね。俺、本当に、めちゃめちゃ行きたいよ。頑張ってね」

「トニー、ありがとう。トニーもライヴなのだから頑張って。私もブルートパーズのライヴとても観たいのよ」

(ジョージおじ様から頂いた休暇で追っかけて行けば良かったかしら…ううん、リサイタルの練習だってあるのだから簡単にはいかないわ)

「ジェシカ、早く会いたいよ。休暇もらっていたなら来てくれたら良かったのに。俺、招待したのに」

「私も今、一瞬そう考えたのよ…でも、リサイタルの練習もあるから」

「う─ん…そうだったね。じゃあ、お互いに頑張ろう」

二人は携帯電話越しにキスを送り合った。

リサイタル当日、マリア、ミシェル、クラウディアは音楽ホールへ足を運んだ。

ジェシカにとって初めてのホールリサイタルだったが、彼女はコンクールや学校に通っていた頃の授業や発表会などで大きな舞台に立つのは慣れていた。ピアノを弾くために舞台に立てるのは嬉しかった。

楽屋で支度を終え、ジェシカは鏡に映る自分を見つめていた。今日はジョージがデザイナーを呼んで用意してくれた白いドレスを着ていた。

学校が懐かしいわ…今頃、みんな元気かしら。

この国に来た当初は、もしかしたら、体調に何も変化がなければ学校にまた通えるかもしれないって思っていたけど…

もう無理。この先、何回あんなことが起きてピアノが弾けなくなるかもしれないのを怯えながら生きていくなんて嫌だもの。

人間じゃなくなるかもしれないなんて嫌だもの。それに私のママは私のパパを殺しました。私は殺人犯の娘です、なんてトニーに言えない。初めて大好きになった人に、そんなこと言いたくない。…再来週はブルートパーズのライヴを観てから私は死ぬって決めたのだから。

私の人生最後の日はピアノを弾けるかしら…

ジェシカはブルートパーズのライヴ会場からタクシーに乗って海に行く予定でいた。

睡眠薬を飲んでから海に。

─ああ、今は、そのことは考えないで。

マリアさんやジョージおじ様、そして今日の舞台のスタッフの方々のおかげで私はリサイタルの舞台に立てる。

どうか、どうか体調を崩さないでピアノを弾けますように。

「ジェシカさん、お願いします!」

「はい」

スタッフから声をかけられジェシカは立ち上がりステージに向かった。

第一部の演奏が終わり、二十分の休憩になり聴いていたミシェルが涙ぐんだ。

「凄いわ…私は聴く専門だけど…ピアノって、ううん、ピアノに限らず楽器って奏でる人によって音が違うのね。今日しみじみ感じたわ。マリアの演奏は聴いていて元気になれるんだけど…ジェシカの演奏は、なんか…心の琴線に触れるっていうか…もしかしたら、あの子、あの若さで何か相当な悲しみを背負っているんじゃない?」

「そうね…何か深い悲しみが滲んでいる感じするわ…今日は、なんだか特にね」

と、マリア。

「彼氏に長いこと会っていないから寂しいのじゃないの?まぁそれは私もだけど。それか、そういう曲構成にしているんじゃない?それはともかく素晴らしいのは私にも解るわ…」クラウディアが配られたプログラムに目を通しながら呟いた。1枚の紙を2つ折りにしたシンプルなプログラムには演奏する曲目と、ピアノを弾いているジェシカの写真と彼女の感謝の言葉が綴られていた。

〔プロのピアニストではない私に、このような素晴らしい機会を与えて頂いて感謝します〕

第二部の演奏、アンコールも無事に終わり3人は楽屋に向かった。ジェシカに花束を渡し、口々に称賛した。

「綺麗なドレスじゃない。とても似合っているわ!次はウェディングドレスね」そういうマリアにジェシカは無言で微笑んだ。

──それは、絶対にないんです。

自分の命が、あと僅かであることが、だんだんと現実に近づいてジェシカは心の中で呟いた。

この日のリサイタルは大好評を博して追加公演の僅かに残っていたチケットは売り切れた。

更に問い合わせは殺到し、追加公演は有料でYouTube配信することが急遽決まった。


「それなら俺もチケット買っておけば後でアーカイブで視られるね♪俺、繰り返しガン見するよ」トニーはジェシカのリサイタルが画面越しに視られることに喜んだ。しかし、トニーが滞在している国ではチケットを購入することが出来ず、ジェシカは嘆くトニーに配信用のデジタルチケットを購入して誕生日のプレゼントとしてメールで送ったのだった。

後日、トニーはジェシカに電話して感謝を伝えた。

「リサイタルとても素晴らしかったよジェシカ!チケット本当にありがとう。俺、嬉しくて毎日アーカイブ視てるんだ」

「トニー…」

「うん?もうあと十日もすれば帰国するから」

──今、この瞬間にも会いたいわ。

大好きだ、ジェシカ。

トニーは繰り返し、そう言ってくれたのを、何度も愛し合った夜を思い出してジェシカは、その言葉を飲み込んだ。

「そうね…アーカイブ視てくれて、ありがとう」

「ジェシカ…なんだか元気ない?」

トニーは携帯から伝わってくるジェシカの様子に気付いた。

「それは…まだトニーに会えないからよ」ジェシカは、そう答えた。

それは本当でもあるけれど。

瞬く間に日々が過ぎて行く中…精一杯、生きている。トニーを想いながら。

あと僅かな日数で、この世を去る覚悟がまだ完全には出来ていないからでもあった。

「もうすぐだよ。帰ったら会えるから俺の誕生日、祝ってよ」ジェシカの覚悟を知らないトニーは言った。

「そうね、二人で祝う約束したものね」ジェシカは元気を装って答えた。

リサイタルのあと、ジョージのレストランはジェシカの生演奏を聴きたい客が増えて更に盛況になった。しかし、ジェシカは、また体調を崩したら…という不安から休みがちになり、弾くとしても小一時間程度で、あまりレストランで演奏することがなかった。ジョージのアイデアの立体ホログラムのジェシカの映像が活躍していた。


ブルートパーズの帰国が翌日に迫った夜、ジェシカはレストランの閉店後にジョージと話をするべく事務室に訪ねて行った。

「ジェシカ、体調は大丈夫かい?」

微笑み、ジェシカに椅子を勧めながらジョージはハーブティーを淹れた。

「おじ様…あの…」ジェシカは温かいハーブティーの入ったカップを受け取り、口を開いたが小さな呟きでジョージには聞こえなかった。

「トニーくんがジェシカが何か元気がないと心配して私に電話してくれたんだ。だけど約束したから、この前、体調を崩したことは私からは言っていないよ」

「はい、ごめんなさい…ありがとうございます」

ジェシカは俯いた。あのピアノが弾けなかった晩のことは自分から話すのでジョージからトニーには言わないで欲しいとジェシカはお願いしていた。

ジェシカは俯いたまま口を開いた。

「あの、私…最近、というより、あの演奏が出来なかった日に思い出したんです。子供の頃に私のママが…パパを…」思いきって言い始めたが最後まで言えず涙が零れた。

ジョージは驚いたが黙ってジェシカにハンカチを渡した。ジェシカはハンカチを受け取らず声を圧し殺して泣いた。

「こんなこと…トニーに言えない…でも黙ってもいられない…だけど…ただでさえ、私は…どうなるか解らないのに…!」涙を流しながらジェシカは話した。

ジョージはジェシカの傍にしゃがむとジェシカが飲まないでハーブティーが零れそうになっているティーカップをそっと彼女の手から取り外しテーブルに置いた。

「ジェシカ…」

ジョージは静かに話しかけた。

「それも元気のない理由かい?」

ジェシカは泣き続けている。

「ジェシカ、私も、それは知っている。黙っていて申し訳なかった。だけど、私から話して聞かせて思い出させたりしたところで残酷なだけで意味はないと思ったからね。何故なら、それはジェシカのお母さんの罪であって決してジェシカが悪いのではないんだよ。トニーくんも解ってくれると思うよ」

それでもジェシカは泣きやまなかった。

──やはり私が早々にジェシカに話しておくべきだったのだろうか?しかし…それは私の義務ではない…出来たら思い出さないでいて欲しかったが。

「…どうして思い出したんだい?」

「夢を見たんです。子供の頃の。パパがママに離婚を提案したって私に話しているところにママが来て…」ジェシカは泣きながら話した。

ジョージは無言で頷きジェシカの頭に優しく手を置いた。

「ジェシカ、思い出したばかりで、今は とても辛いだろうから、すぐトニーくんに話さなくてもいい。気持ちが落ち着いたら話してみてはどうかな?彼はきっと解ってくれるよ」

ジェシカは答えずに泣き続け、しばらく経って涙が止まってくるとジョージに挨拶してから事務室を去って自分の部屋に戻って行った。

涙は止まったけど心の中は深い悲しみでいっぱいだった。トニーに話すなんて…絶対に出来ない…。

ママ、どうしてパパを殺したの?パパのことが、そんなに憎かったの?

部屋に戻って窓から星空を見上げた。

明日、ブルートパーズのメンバーが…トニーが2ヶ月半のワールドツアーから戻ってくる。戻って1日休んだ翌日、ワールドツアーの最終日として地元のアリーナでライヴをする。私は、その後…ジェシカは目を閉じて深呼吸した。人間、誰でもいつかは死ぬのよ。私は自分自身で、それを早くするだけだわ。

ため息をついて窓を閉めると、マリアから電話がかかってきた。

「もしもし?ジェシカ、明日はミシェルが車を運転してくれるから。みんなで駅に迎えにいきましょうね。朝早いけど。5時頃に、そちらに着くように行く予定よ」

「…ごめんなさい、マリアさん…私…行かないです」

「ええ?どうして?」マリアが心底驚いているのが電話越しに伝わってきた。

「ピアノの練習したいんです」ジェシカはポツリと答えた。

「まぁ…何を言っているの?2ヶ月半ぶりなのよ。それに帰ってくるのは早朝なのだから練習は、その後でもよくない?トニーだって、あなたに会いたい」

「行かないです。ごめんなさい…マリアさん、おやすみなさい…ごめんなさい」言いかけたマリアの言葉を遮りジェシカは、ほぼ強引に通話を終了させた。

──トニーとケンカでもしたのかしら?

行きたくないのを無理やり誘っても…と、マリアは諦め、明日はジェシカは行かないからとミシェルに連絡した。

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