第5話 幸せな世界

 太陽が真上に登ると、その恵みは地上に降り注がれていた。そして、昼下がりの春の心地よい気温が湊の心を幸せにしてくれた。


 しかし、湊の身体には若干の倦怠感が生まれていた。その原因は、彼の背後にある一軒家にあった。そこには、「谷地下台ボクシングジム」と看板が掲げられていたが、それがなければ、一軒家と見紛うような様相だった

「うーん、良い汗かいた」


 悠太は大きく背伸びをした後、両腕を顔の前まで持ち上げ、空中に向かって拳を数回振った。何でも小器用にこなす彼は、その姿も様になっていた。


「これで、二人ともパワーアップして、魂の戦いで活躍できるかな」

「ごめん。俺のせいで」


 湊がオリビアと悠太を魂の戦いに誘ったのは、会社帰りに三人でカラオケに行った夜だった。その際、湊は酒の影響もあり、魂の戦いのことを話してしまったのだ。二人とも参加の意思を表明したが、彼としては他人を巻き込みたくはなかった。そのため、断りの返事をしたつもりなのだが、不思議なノートの参加者一覧には、オリビアと悠太の名前が追記されてしまっていたのだ。


「はは、ジムでもそんなことを言っていたな。俺は嬉しいよ。お前等を守れてさ」


 悠太が湊に優しい笑みを浮かべる。湊の心に自責の念が込み上げてくる。


「守るって、俺も戦うよ」

「いいんだよ。お前はオリビアを守ってくれよ。しっかり、マイケルさんからも守るんだぞ」


 悠太が悪戯な笑みを浮かべる。


 悠太が言及した《マイケル・スミス》は、魂の戦いでの湊の三人目の仲間であった。彼は職場の同僚で、お調子者の女性好きな性格だったが、気持ちの良い男であった。


 湊はマイケルにこの話をしたことを後悔していた。彼の参加も断ったはずなのだが、悠太たちと同様、名前が参加者一覧に追加されてしまっていたのだ。仲間を集める気がなかった湊にとっては、皮肉なことではあるが、魂の戦いの詳細を聞いた翌日には四人の参加者が揃ってしまった。


「オリビアには連絡しないで平気?」

悠太の言葉を聞き、湊はジャージのポケットからスマートフォンを取り出し、それを顔付近に持ってくる。そこには「十三時」と表示されており、同時にオリビアからのメッセージが届いた通知が目に入ってくる。湊がメッセージを開くと、それはボクシングジムの終了時間を問いかけてくるものであった。湊はスマートフォンに指を滑らせ、ジムが終わった旨を伝えるメッセージを書き始める。


「オリビアから?」

「うん。一緒に迎えに行こうよ」

「いやいや。俺は疲れたよ。お前だけ行ってくれ。お前らもいつまでも子供みたいな関係から逸脱しないとさ」


 子供みたいと言う言葉は、湊が頻繁に投げかけられるものであった。彼自身も、大人の男として相応しい振る舞いをしたいとは思っているが、それが叶わないのが現実なのだ。


「俺だって大人な男になりたいよ」


 湊が俯きながら言うと、悠太が優しい笑みを浮かべる。


「ごめん、ごめん。お前はそのままでいいんだよ。お前らを見ていると、金とかなんかどうでも良くなってきちまう。ただ、俺は、お前らの未来も見てみたいんだよ。ということで、頑張るんだぞ」


 悠太は湊に背を向けて、別れを意味するように手を上げながら、バスの停留所の方に歩んで行ってしまう。


 かつて悠太が、オリビアに好意を伝えて良いかと湊に問いかけてきたことがあった。湊は許諾したものの、悠太が実際にその気持ちを伝えたのかどうかは分からなかった。しかし、悠太とオリビアの関係が変わっていないことから、湊は結末を予想できてはいた。それは湊の心を軽くさせた。もし、悠太とオリビアが恋人同士になっていたら、湊は心から祝福できる自信がなかったからだ。友人の恋が実らなかったことを心の中で喜ぶ自分自身に、湊は失望していた。


 湊が思案していると、手に持ったスマートフォンが振動する。湊が視線を向けると、ユアーデイズの正面出入口で待っていると、オリビアからのメッセージが表示されていた。湊は「今から向かうよ」と短いメッセージを送る。ユアーデイズは近くにあるので、歩いてすぐに着くだろう。


 湊は歩きながら思考の世界に入る。神の従者は一週間に一度、魂の戦いが行われると言っていた。それが事実であれば、前回の魂の戦いの一週間後である、本日にはあの白い場所に連れて行かれるだろう。


 自分と相手に、異なる世界が広がっていることに、湊は不思議な気持ちを抱いていた。今、別世界の自分は何をしているのだろうか。金持ちになった自分もいるのだろうか。賑やかな友人達に囲まれた自分の姿もあるだろうか。しかし、どの世界でも変わらず、オリビアと悠太と親密な関係でいて欲しい。そこまで思考を巡らせると、湊は優しい気持ちになる。


 湊がそんなことを考えて歩いていると、目の前にバスの停留所が見えてくる。そこでは、一人の端正な顔立ちをし、長い金髪の髪をした男性がバスに乗ろうとしていた。しかし、彼がバスの入口に足を踏み入れようとした時、手から何かが落ちる。


「すみません! 落としましたよ」


 湊が叫んだが、金髪の男性は気付かずに、バスの中に吸い込まれて行ってしまう。そして、大きなエンジン音がしたかと思うと、無情にもバスは発進してしまう。湊が急いで、落とし物があった場所に駆け寄ると、そこには一冊の本が落ちていた。


 湊がそれを手に取ると、そこには《シン教》船橋教会所有と記されていた。


 「船橋」は湊の職場がある場所で、谷地下台から電車で行ける場所だ。湊が落とし物を持っていけば、落とし主の手に戻るかもしれない。


 しかし、まずはオリビアを迎えに行かなければならい。湊はユアーデイズに足を運ぶことを決める。


 湊が本を片手にしばらく歩くと、谷地下台の駅前の姿が見えてくる。


 谷地下台の駅前は広大なロータリーが広がり、それに繋がる大きな大通りが存在していた。その大通り沿いには多くの店舗が立ち並び、中でもユアーデイズはその存在感で他を圧倒している。この建物はまさに、谷地下台の象徴とも言えるものだった。


 ユアーデイズやその他の店舗からは、たくさんの人々が出入りしており、多くの人々の顔には笑顔が浮かび上がっていた。その生き生きとした風景を見て、湊の心は高鳴った。この世界を守りたい、その想いが彼の中で再び強くなる。


 湊が大通り沿いの歩道を歩いていると、対面の歩道にあるユアーデイズが近づいてくる。そして、その入口付近にはオリビアの姿があった。


 湊が大通りを渡ろうとして信号の前で待っていると、オリビアが彼の姿に気づいたようであった。彼女は手を振り、湊も笑顔でそれに応えて手を振り返す。信号が青に変わると、湊は急いで横断歩道を渡り、オリビアの元へ向かった。


 湊が彼女に近づくと、大きな目を細めて笑顔を見せてくれる。それは、湊だけに見せてくれる宝物のようなものであった。


「待たせたね」

「ううん。ボクシングどうだった?」

「初心者だから基礎的なことを教えてもらったよ。オリビアは何か買わなかったの?」

「えへへ、だって高いんだもん。お店の人には悪いけど、何も買わなかったよ」


 ユアーデイズは特別高価格帯のデパートではなかったが、その発言は倹約家の彼女らしいものであった。そんな彼女の性格を、湊は微笑ましく感じた。


「湊も疲れたでしょ? 帰ろう」

「お昼は食べたの?」

「ううん。じゃあ、湊の家の近くの定食屋さんに行こうよ」


 オリビアの提案に湊が同感すると、二人は駅前にあるバスの停留所に向かい、歩を進め始める。多くの人々が行き交う中に混じって、二人は並んで歩いていた。


「駅前って好きなの。何だか、楽しい気持ちになるよね」

「そうだね。だから、彼らの人生を守らないと。そして、別世界の人々も」


 オリビアの言葉に湊は返答しつつも考えを巡らせる。全ての世界を存続させることは出来ないものだろうかと。


 鍵となるのは、湊が敗北することで世界が消失するという部分だろう。彼は文字通りの意味で受け取っていたが、なぜ、湊自身が敗北する事で世界が消失するのだろうか。最も考えられるのが、勝負が決すると神か神の従者が敗者の世界を消しているという仮説だ。その仮説であれば、世界を消さない方法は神か神の従者を説得することではないだろうか。


「神様か神の従者さんを説得してみようか?」

「湊と悠太なら出来そうね。・・・あれ? そういえば、悠太は来なかったの?」

「そうそう、また、悠太が気を遣って、帰っちゃったんだよ。全くよく分かんないことするよね。一緒に帰ればいいのに」

「えっ? あっ、うん」


 オリビアの顔から笑顔が消え去り、声に元気がなくなってしまう。湊は怪訝な顔で彼女の顔を見つめる。


「湊は・・・」


 オリビアは湊の方を見つめてきたが、言葉は続く事なく、ただ、静かに俯いてしまう。湊はその様子が心配になってくる。


「どうしたの?」

「ううん、何でもない」


 オリビアは顔を上げて微笑んだが、その表情には影が落ちているように見えた。そして、二人の間には沈黙が広がってしまう。湊はその空気を払おうと何か話しかけようとしたが、オリビアの視線が彼の顔から、手に移動してしまう。


「あれ? その手に持っている本は?」


 湊の脳裏に先ほどのバスの停留所での出来事が再生されてくる。彼はオリビアと会ったことで、一時的にその記憶が消えてしまっていたようであった。


「あ! そうだ。これを落とした人がいて、船橋に届けないとならないんだった。すぐ届けないと持ち主の人が困るかもしれないし。だから、ごめん。食事には付き合えないかも・・・」

「ふふっ。湊らしいね。行ってきなよ。私は一人で帰れるから」

「本当にごめん。バス停まで送るよ」


 バスの停留所に向かうまでの間、二人は軽い雑談を交わしていた。しかし、バスの停留所に着くと、ほどなく、バスが停留所の前に止まり、オリビアを連れ去っていってしまう。

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