第4部 空が暮れる色
天才、あるいは秀才は、暫くの間そうしていた。そうしている内に、僕は彼女に体温がないことに気づいた。ないという言い方は、如何なる場合にも正確ではない。そもそも、体温というのは、あるとかないとか、そういう形態をとれるものかも分からない。また、あるとしても、どこにあるのか不明だ。
それはともかくとしても、彼女に体温がないように感じられるのは、この世界そのものが彼女だからとも解釈できる。彼女が彼女の体温だということは、彼女の体温が彼女だということでもある。こうなると、彼女に彼女の体温があるとも言えるが、ないとも言えることになる。そして、彼女はどこにもいないとも言える。
彼女は、僕の背に回した腕に込める力を少し強めた。少し強めたあとに、もう少し強めて、もう少し強めたあとに、さらに強めたから、大分強まった。
「痛い」僕は言った。「何がしたいの?」
「ここから飛びたい」
「あそう」
「君も」
「どうして?」
「君は、私の一部ではないみたいだから」彼女は言った。「君と一緒に死ぬことに意味がある」
「生き物は、皆、互いに影響し合って生きているんだよ」僕は話した。「どこまでが自分かなんて、そもそも分からない。僕が君の一部だと考えること自体は、何もおかしくはない」
「そういう話をしているんじゃないんだな」と、反論される。
しかし、仮に僕が彼女の一部だとしても、僕は彼女そのものではない。というのも、僕と彼女は分かれているからだ。しかし、彼女と世界は分かれていないかもしれない。僕と彼女の対立が同一のレベルで成されるのに対して、彼女と世界の対立は同一のレベルで成されるのではないからだ。こうなると、僕は世界の一部ともいえるし、一部ではないともいえる。要するに、何でも良い。
「もしかして、死んで、それで、きちんと世界の一部になりたい、とか?」僕は尋ねた。
「それは違う」顔を埋めたまま、彼女は話す。若干曇り気味の声だった。「私は、死ぬのを経験したいだけだよ。本当にそれだけ。それだけ、まだ試していないから」
「じゃあ、さっさと試したら?」僕は言ってやった。
「君は?」
「僕はやめておく」
「どうして?」
「試したいだけなんでしょう?」僕は話した。「それなら、僕が君の一部だとか、そうでないとか、そんなことは関係がない。君が一人で試せばいい」
その人は腕の力を弱めて、ようやく僕から離れた。そして、こちらを見る。斜め方向から、鎌鼬みたいに鋭利な視線を向けた。
「何?」
「なんでも」彼女は応える。「分かったよ。私一人でやるから」
そう言って、その人は再びその場にしゃがみ込む。瞬間的な動作だった。一秒当たりのコマ数が二つだけのアニメみたいだ。
突然、雲の隙間から、橙色の光が零れ出て、溢れ出て、彼女の横顔を奇麗に照らした。ビニールでできているのではないかと疑いたくなるほど繊細な髪の一本一本が、その光を反射して煌めく。僕は立ったままその様を見下ろした。光だけではなく、暖かい風も吹いてきて、それが、彼女の髪を揺らし、彼女の顔を隠した。髪が、
揺れる。
揺れる。
揺れる。
揺れる。
次に、表情が見えたとき。
水が、彼女の頬を伝った。
僕は反射的にその人の隣にしゃがみ込み、揺れる髪に手を伸ばして、もう、揺れないように指で押さえて固定した。彼女の奇麗な目が見える。それから、彼女の奇麗な涙も見えた。涙は、首筋を伝って、ワイシャツの襟と、ブレザーに付属したリボンを濡らしていた。
「泣いているの?」と僕は当たり前の質問をした。
「何も分かりたくなかった」とその人は呟いた。「もっと、知らないことばかりのまま歳をとって、まだ知らないことがある状態で、死にたかった」
「まだ、色々あるのでは?」
「ううん、もうない」彼女は一度首を振る。「もう何もないということを、分かってしまった」
その人は、腕を持ち上げて目もとを拭う。もとの位置に戻そうとしたその手に、僕は腕を伸ばして振れようとしたが、それよりも早く彼女は手を引っ込めた。
「全部、分かる」彼女はこちらを見る。「君が何をしようとするのかも、すべて」
「さっき、僕に触れたから?」
「そうだよ」
「どうして、触れたの?」
「分かりたかったから」彼女は笑った。「でも、分かりたくなかったな」
彼女が顔を前方に向けた瞬間、太陽は落ちた。
もう、雲もなかった。
星が見える。
月は見えない。
時が来た。
舞台は整った。
これが。
これは。
これだ。
このときを待っていた、と、その人は立ち上がった。
「ここで、見ていてくれない?」彼女は言った。「私が死ぬところを」
「人が死ぬところなんて、見たくない」
「じゃあ、いい」彼女はもう一度目もとを拭う。「さらば!」
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