夢現劇

詩佳

演奏会

 その若者は夢を見ていました。


 それは彼にとってとても都合が良くて、幸せな気分になれる夢でした。


 どんな辛いことがあっても、理不尽な目にあったとしても、彼はその夢を見るおかげで平穏に生きていくことができました。


 その日、彼は出張で遠くの場所を訪れていました。それはとても長い旅路だったので彼の脚はすでに木の棒になっており言うことをきかなくなっていました。


 ふらつきながらも彼は暇さえあれば齧っていたチョコレートを取り出し、それを口に運びます。チョコレートは彼の大好物です。これを食べると元気が出て生きる活力を与えてくれます。気が付けば最後の一欠片、また買いに行かねばなりません。


 そこに賑やかな音が聞こえてくるではありませんか。やたらと大きな音に彼の身も心も震えだします。音楽祭でしょうか、楽しげな音が彼の耳にどんどん入ってきます。きっと向こうには沢山の人が集まっていることでしょう。


 彼はその様子を一目みようと重たい身体をひきづるように動き出しました。彼の脚はそんな彼の意思とは裏腹に思うように動きません。それでもこの音の正体を知りたいという欲求のために懸命に歩を進めること数分、ようやくその音の出どころである会場へとたどり着きました。


 そこは彼が想像した通りの光景が広がっていました。酔い潰れてワインをこぼす人や音楽を奏でる人たち、それらがまるで夜の酒場のような賑わいを見せていたのです。酔い潰れて倒れこむ人を尻目に、よくこんな大きな音が流れてる場所で眠ることができるなと、彼は不思議に思いました。同時にこんな場所でもぐっすり眠れるくらい充実した日を過ごしている彼らのことを少し羨ましくも感じていました。


 奥の方では演奏家が何やら楽器を持ちながら音を流しています。その音色はなんというか、お世辞にも上手いものとは言えません。それでも彼らは精一杯音を出しているのは伝わってきます。タイミングはバラバラで掴みどころのないリズムもまた一興と、彼らの演奏にささやかながらも拍手を送りました。


 そんな彼を発見した観客はなんでそんなところで突っ立っているんだと言わんばかりに強引に彼の手を掴んできました。とても気さくでフレンドリーな方なのでしょう、この席が一番良いと言わんばかりに彼に席を空けてくれます。若者は彼らに感謝をした後その場に座りました。


 太鼓のような音に包まれながら、彼は遠く昔の記憶を思い出していました。


 それは彼にとってとてもつらい生活でした。教師は教育のためだと行って執拗に彼に拳を振ります。他のクラスメイトへの見せしめとして彼は常に犠牲になっていたのです。彼はそんな教師に抵抗することもできず、心は常に深く閉ざされていました。ここでしか生きることができないのならこの場にいなければならない、授業を受けるのは彼にとっての唯一の生きる手段だったのです。


 けれどそんなに辛い生活の中で生き続けなければならない意味は彼にあったのでしょうか。


 もちろんこのまま生きていても楽しいことはありません、ならばせめて「楽しそうに映れば」良いという考えに至ったのです。


 するとどうでしょう、とてもつらく映っていた学校生活も、家族との関係も、不況な世の中も、全てが大したことではなかったのだと悟るまでに至りました。彼の住む世界には楽しいことで溢れていることに気づくことができた、それは彼にとって一番の幸福で生きがいにもなっていったのです。


 そしてこの時も彼は幸福で満ち溢れていました。確かに遠い旅路は過酷で厳しいものでしたが、そんな彼を虐げるものは誰もいません。自由になった鳥のように羽ばたいた彼自身はここで楽しげな光景を目の当たりにし、その体験に参加することができたことに感動しているのです。音楽祭はそんな彼を祝福するかのようにどんどん、どんどんと音を大きく鳴らしていきます。


 後ろ列にいた人に声をかけられました。お前もやってみないかと言わんばかりに楽器を彼に差し出します。楽器を習った覚えが無かった彼は断ろうかとも思いましたが、周りが彼に注目するので断る勇気がなくなってしまいました。


 とても重いそれを構えてどういう風に音を出せば良いのかを教わります。


 早速向こうで鑑賞してる人にむけて彼は楽器を演奏し始めました。すると彼らも似たような楽器を取り出してセッションしてくれるではありませんか。振り返ると後ろでも観客たちが次々に参加して必死に音楽を奏でていきます。なんだか次第に楽しくなっていきました。


 いつのまにか演奏家たちは演奏をやめ、床にワインをこぼしながら、酔い潰れていきました。楽しい時間というのはあっという間です。日が沈むころには若者自身もそんな彼らと共に深く、深い眠りにつくのでした。

 

 ふと起き上がった若者は全員がぐっすり眠っていることに気づき、慌てはじめます。彼の本来の目的、出張に来ていたということをようやく思い出したのでしょう。


 眠っている彼らをどかしつつ、早く行かねばという思いで立ち上がります。ここに来るまでの疲れはすっかり消えており、とても身軽です。ずいぶん長く眠っていたからでしょうか。あんなにワインの香りで満ち溢れていた人たちも今では全然香ってきません。


 急がないと、また上司に怒られてしまう。過去の自分がうっすら思い起こされます。あの時の自分に戻ってしまうのではないかという不安がどんどん迫り上がっていきます。


 そういえば今日のチョコレートを食べていないことに気づき、今日もまた口に運びました。気づけば最後の一欠片、また買いに行かねばなりません。


 楽しい時間が続かなければ若者は生きる意味を失ってしまいます。これからも彼には末長く生きていてもらいたいものです。

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