第28話 決死の逃走劇

(二輪車が、無い)


 倒れたピュラを背中に抱え、ほとんど滑り降りるようにして岩山を掛け下ったデュークは、岩陰に置いてあったはずの自分の自動二輪が消えていることに愕然とする。


 完全に逃げ遅れてしまったらしい。デュークのものだけではなく、既に西の峰の麓には、見える範囲におよそ乗り物と呼べるものは見当たらなかった。


 けれどそんな非情な事実にもお構いなしに、今も背後からは巨大〈鎧獣〉の恐ろしい雄叫びが迫って来ていた。「絶体絶命」の四文字がデュークの脳裏で踊る。


 ベースキャンプまで戻り、車両を調達している時間はもうない。


 なら、一か八かでどこかの渓谷なり洞穴なりに隠れてやり過ごすべきか。いや、それとも……。


「バウッ!」


 何か手は無いかと考えていたデュークのまたぐらに、いきなりヘレンが滑り込んで来る。


「ヘレン? わっ」


 何してるんだ、とデュークが訊くよりも早く、ヘレンはデュークたち二人を背中に乗せる格好で立ち上がり、そして次にはそのまま走り始める。


 風に煽られて振り落とされそうになり、デュークは慌ててヘレンの首筋にしがみついた。


「ヘレン……いけるのか?」


 デュークの短い問いに、ヘレンは「任せておけ」と言わんばかりに頼もしい吠え声を上げる。その勇敢な横顔に、デュークも脳裏に浮かんでいた一切の弱気を切り捨てた。


「任せた」

「ウオワオフッ!」


 その言葉に応えるように、ヘレンはどんどんと走る速度を上げる。


 平野を疾駆し、入り組んだ渓谷を巧みに抜け、立ちはだかる幾つもの土柱や大岩を全速力で跳ね避けていく。


 そのスピードの凄まじさたるや、さながら荒野を吹き抜ける疾風すら置き去りにする勢いだった。


 一か月にも及ぶ軟禁で溜まりに溜まった鬱憤を晴らすが如く、ヘレンは走りに走り続けて。


 そしてついには、麓に下りた時点では遥か彼方に見えていた潰走する遠征部隊の、その最後尾と思しき集団の群まで追いついていた。


「……ウぅ、デューク、さん」

「ピュラ、しっかり。絶対に手を離しちゃだめだ」


 いまだ身体を蝕む荒毒に沈痛な呻き声を漏らすピュラを、デュークは必死の思いで鼓舞する。


 二人の体はザイルで固定されてはいるものの、この激しい揺れの中ではそれもどうなるかわからない。


 意識と一緒に自分にしがみつく力まで手放してしまわないように、デュークは半ば朦朧としている様子のピュラに絶えず言葉を掛け続けた。


「……もうあんな所まで」


 ちらと背後を振り返って、デュークは眉根を寄せる。


 山から下りてきた巨大〈鎧獣〉は不気味な触手を器用にのたくらせ、その巨体に見合わぬ猛スピードで、這いずるようにして遠征部隊の面々を追いかけて来ていた。


 土壁を削り、地面を抉り、道中に立ち塞がる狭い渓谷や突き立った岩石をものともせずに突き進む。


 その全てを飲み込んで爆走する様子は、まるで馬鹿でかい掃除機のようだ。天然の障害物などお構いなしの追走に、デュークたちはみるみる距離を詰められていく。


(っ!? まずい!)


 突如、〈鎧獣〉がグネグネと蠢かせていた触手の一本を天高く持ち上げた。次には持ち上げたその触手を大きく振りかぶったかと思えば、そのままデュークたち最後尾集団目がけて横薙ぎに振り払う。


「ヘレン、ジャンプっ!」


 言うが早いか、ヘレンは跳ね飛ぶ。


 間一髪、正にヘレンの足下数十センチの場所を、〈鎧獣〉の鞭のような触手が掠めた。


 並走していた何人かも、岩場をジャンプ台にするなどしてなんとか触手から逃れる。が、二十台ほどあった車両のほとんどは、からめ取られるようにして触手に捕まってしまった。


 悲鳴を上げて触手から脱出しようともがく開拓者たちを嘲笑うように、巨大〈鎧獣〉は振り払った触手を自らの足元まで引き寄せると。


「う、うわぁぁぁっ⁉」

「い、嫌だ、放せ放せ、放してぇぇ!」


 ばぐんっ!


 自分の触手もろとも、泣き叫ぶ開拓者たちをその大口でもって呑み込んだ。


「……アレに捕まったらおしまいだ。ヘレン、踏ん張ってくれ」


 トップスピードなどとっくに出しているのだろうが、それでもヘレンは限界を超えて加速する。


 少しずつ、けれど着実に、他の開拓者たちを追い抜いて前へ前へと進んでいった。


「来るなぁあぁっ――」

「ぷぎゃっ――」


 しかし、巨大〈鎧獣〉の猛攻は留まるどころかますます苛烈さを増していく。


 振り払いだけではなく、触手を叩きつけ、あるいは槍のように突き出す。


〈鎧獣〉の触手が宙を舞う度に、デュークの後方で一つ、また一つと、開拓者たちの悲鳴が不自然に途切れていった。


 そんな、一瞬も油断のできない壮絶な逃走劇を数十分も繰り広げ、もういくつ目ともわからない緩やかな丘陵を登り切ったところで。


「ピュラ、見て! ノアだ、ノアが見えた」


 まだかまだかと待ち望んでいた光景が、ようやくデュークたちの前に現れた。


「ホ、ホンと、ですカ……?」

「うん、本当にあと少し。ラストスパートだ、ヘレン」


 丘陵を駆け下りれば、あとはほとんど凹凸のない平原だけ。


 ヘレンの足で真っ直ぐに突き抜ければ、どうにか追いつかれる前にノアへ飛び込めるだろう。あの城塞のような鋼鉄の壁ならば、そうそう突破されることはないはずだ。


 と、そこで不意にデバイスが明滅する。

 デュークは素早く「応答」と告げた。


〈――おいデューク! まだ生きてるか、生きてるよな? 生きてたら返事しろ!〉


 怒鳴りつける勢いで、ダルダノの大声が飛び出してくる。


 それと同時に、背景では何やら大勢の人間がざわつく声と、一定の間隔で鳴り響く汽笛の音が聞こえてきた。


「生きてるよ、まだ」

〈おしっ! 生きてるな! こっちはたった今ノアに滑り込んだトコだ。そっちは?〉

「北の丘陵を越えた。多分、一番後ろの辺り。こっちもあと五分もすれば辿り着ける」

〈なにぃ!?〉


 素っ頓狂な声を上げると、数秒の間を空けてダルダノが確認する。


〈見えたぜ! あの白いワン公に乗ってるのがお前とピュラちゃんだな? くそったれ、ほんとに最後尾じゃねぇか! なら死ぬ気で戻って来い! じゃないと間に合わねぇぞ!〉


 不意にダルダノが押し黙ったかと思うと、少し離れた場所での会話なのだろう、ケラミーと遠征部隊の指揮官をしていた職員の声が流れて来る。


〈――今この瞬間にも、まだこちらに向かって必死に走っている人たちがいるんですよ!? お願いします! もう少しだけ閉門を待って下さい!〉

〈この汽笛が聞こえないのか、オトリュシア二等局員! 【局】がノアの緊急発進を決めたんだ! 今すぐ門を閉めなければ、発進する前にあの怪物が都市に入り込んでしまう! それによって市街地にどれだけの被害が及ぶか、わからない君ではないだろう!〉

〈なら! このまま見殺しにするというんですか! 子どもだっているんですよ!〉

〈移動都市を守るのが、我々【局】の仕事だ!〉


 喧々諤々の議論を遮り、再びダルダノの急かすような声がデバイスから漏れる。


〈聞いての通りだ。ケラミーの奴も頑張っちゃいるが、あと数分もすれば北門は閉まりそうだぜ。そんで門が閉まり次第、お前と追いかけっこしてるデカブツを撒くために《爆噴霧スモーク》がぶちかまされるらしい。外にいたら、お前らも奴さんと仲良く蒸し焼きだぞ〉

「わかった、急ぐよ」


 通信を切り、デュークは意識の限りを〈鎧獣〉からの攻撃に割く。周囲を見れば、最後尾集団の中で残っているのはもはや自分たちだけになってしまっていた。


 ついに平野部に降り立ち、開けた視界の先でデュークが真正面にノアを捉えたところで、しかし触手の〈鎧獣〉も恐ろしく執念深い。


「ブォォォォォォ!」


 触手乱打に加えて、そこかしこに転がっている岩石を巻き上げての絨毯爆撃。吹き飛ばされた大小様々な即席の砲弾が、デュークたちに降り注ぐ。


「ヘレン、いい。そのまま真っ直ぐ」


 岩石の雨を右へ左へ忙しなく避けながら疾走するヘレンを制し、デュークはスラリと腰のブレードを抜いた。


「上は何とかする。君は前だけ見ていてくれ」


 数瞬の沈黙ののち、ヘレンは「バウッ」と力強く吠えれば、それからはもう脇目も振らずに一直線に、白銀の弾丸となってノアへと飛んでいく。


 走るヘレンの頭上に迫る岩塊は、その悉くがデュークのブレードによって両断され、あるいは弾き返されていった。


 ――ぼぉぉぉぉぉぉぉ。


 やがて耳に入って来た汽笛の音に、デュークは弾かれたように前方に振り向く。


 必死の抵抗の甲斐あって、気付けばもはやあと数百メートルの鼻先にノアの北門があった。


 だが喜ぶのも束の間、その肝心の北門は、今まさに上昇を始めているところだった。


「おーい! 早くしろ!」

「デューク、急いで!」


 首をもたげるようにじわりじわりと持ち上がっていく北門の向こうでは、ダルダノとケラミーが喉を張り裂かんばかりに、力一杯叫んでは手を振っている様子が見えた。


(もう少し)


 下り坂だった北門が水平になる。門まではあと三百メートル。


(あと少し)


 二百メートル。ケラミーたちの姿が隠れていく。


(間に合え……!)


 百メートル。


「――跳べっ、ヘレン!」


 気合一閃、ヘレンは渾身の力でもって跳ね飛ぶと、近くの岩場を猛然と駆け上がる。


 そのまま一息に岩場の頂上まで登り、背後から叩きつけられた触手を紙一重で躱しつつ、競り上がる北門目掛けて中空に躍り出た。


 しかし、跳躍の直前に足場を崩されたことで充分に力が入らなかったか、あと一歩、もうあと体一つ分ほどの差で、北門の淵に届かない。


 落ち――――


「――ヴォンッ!」


 思わず目を瞑ったデュークの袖口を、振り返ったヘレンが出し抜けにくわえる。


「っ!? ヘレン、何を……!」


 デュークが言葉を続けるのも待たず、ヘレンはその金色の瞳をキラリと一つ瞬かせると、次の瞬間、凄まじいほどの膂力でデュークを引っ張り上げて。


「ヘレン、待て、まさか――」


 そのまま背中におぶさったピュラごと、デュークを北門の向こうへと放り投げた。


「ヘレン!」


 叫ぶデュークを、その凛々しくも穏やかな顔で真っ直ぐに見つめ返して。


「ワフ」


 その小さな声を最後に、白い大きな姿は無機質な鉄扉の向こうへと消えた。


 着地の体勢も何も整えていなかったデュークは、さながら滑り台のように都市へと傾く北門を転がり落ちる。


 二度、三度と世界が回転したあと、下で待ち構えていたダルダノに受け止められる形で、デュークは命からがらノアへの帰還を果たした。


「よっと! ふぃ~、ギリギリだったな。さすがに今のは肝が冷えたぜ」

「……ダルダノ、助かっ――」

《ボボブォォォォォォッッ!》


 デュークの言葉を遮り、今やぴったりと締め切られた北門の向こう側から巨大〈鎧獣〉のくぐもった咆哮が聞こえる。


 それに続いて、ドシンッ、という鈍い衝撃音がノア外周の壁を駆け抜け、局所的な地震でも起こったかのように北門前広場が揺れる。


 追いついてきた〈鎧獣〉が、ノアの外壁に激突したのだろう。


「おいっ、マズいぞ! 乗り越えてくる気だ!」


 広場にいた誰かが叫び、その言葉通りに外壁の向こうから数本の触手が伸びて来た。


 三十メートル以上ある外壁があろうことか乗り越えられそうになっているという事実に、北門前広場は騒然となる。


〈――緊急発進発令、緊急発進発令。これよりノアは緊急発進を開始します――〉


 けたたましいサイレンの音と共に、ノアの緊急発進を勧告するアナウンスが繰り返し響き渡る。続いて北門横の詰め所に続々と【局】の職員が集まってきた。


「第五区第三班より司令部へ。北門に到着! 《爆噴霧》の噴射準備、完了しています!」

〈――こちら司令部。《爆噴霧》の使用を許可します。噴射を観測次第、ノアの移動が開始。別命あるまで、三班はそのまま北門付近の警戒にあたって下さい〉


 職員の一人がデバイス越しに二言三言交わすと、それから待機していた残りの職員に素早く指示を飛ばす。


「待って……!」


 起き上がったデュークが無意識に手を伸ばす先で、詰め所の中に備え付けられている大型の装置の前に職員たちが陣取った。


「まだ、外にはヘレンが――!」

「〈爆噴霧〉、噴射!」


 デュークの呟きが霞のようにかき消され、代わりに広場を包むのは「ブシュウゥゥゥゥ!」という激しい蒸気音。


 ノア北門付近の外壁に設置された無数の弁から、超高温の蒸気が大量に吹き出された音だ。


《ブ、ブブブォォォォォォ、ォォォォォォ……!!》


 狙い違わず、蒸気は巨大〈鎧獣〉をすっぽりと包みこんだらしい。


 身を焼かんばかりの高熱の霧にさしもの怪物も耐えられなかったか、外壁を掴んでいた数本の触手が剥がれていく。


 それを発車の合図にするように、ノアがゆっくりと西に向けて動き始める。


「ヘ、レン……」


 濛々と上がっては東へと流れていく蒸気を見上げながら。


 デュークは血が滲まんばかりに拳を握りしめることしかできなかった。

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