第6話 助言



 六話 助言



 翌日の土曜日。


 真は草薙神社へ向かって傘を差して歩いていた。平日の朝とは違う静けさの中を傘と地面を打つ雨音が響く。息を吸うと、湿気と雨の日のニオイが鼻腔をくすぐった。

 小さい頃に何度も通った馴染みの道を歩いていると、前方に神社の鳥居が見え始めた。

 真は神社の横にある大きな平屋の軒先に駆け込み、傘を何度か開け閉めして水気を払うと、玄関横の呼び鈴を鳴らした。


『はーい』


 呼び鈴を鳴らした数秒後に少しだけノイズの乗った幼馴染の声が聞こえた。


「ユウ姉、来たよ」


 カメラの無い古いタイプの呼び鈴なので、本来なら名乗る必要があるのだが、小さい頃からの癖で応えてしまったことに真は後から気が付いた。

 いや、小さい頃は呼び鈴は鳴らしていない。家につくなり我が家の如く玄関の戸を開け「ユウ姉ッ! 遊ぼッ!」と大声を出していたものだ。

 唐突に脳裏をよぎった想い出に恥ずかしくなった真は、誰がいるわけでもないのに咳払いをして誤魔化した。


『開いてるから上がって』


 真は幼馴染の声が途切れたのを確認してから玄関の戸に手を掛けた。



 久しぶりに上がった幼馴染の家は、昔と変わらない懐かしい匂いがした。樹木のような、森の中にいるような匂い。幽子の祖父である源ジィが言うには「霊力の香りは樹木の香りがする」らしいのだが、真には生憎嘘を見抜く力しか無く、霊力と匂いの関連性に関しては半信半疑だった。

 真は記憶を辿るように辺りを見回した。

 幽子の通学用のローファーとスニーカーが向きを揃えて並んでおり、源ジィが履いているであろう下駄と草履と長靴が爪先を彼方此方に向けて並んでいた。

 玄関の靴箱の上には不格好な木彫りの狛犬のようなナニかが飾ってあった。小学生の頃の体験学習で幽子が作った物だろう。真も一緒に体験学習に行った覚えがあるのだが、自分が何を作ったのかは何一つ覚えていない。


「あ、マコちゃん。おはよう。コッチコッチ」


「お邪魔します」


 真は靴を脱いで手招きする幽子の後についていった。揺れる髪の隙間から見えた首筋に真は少しだけドキリとした。



「そこに座って良いよ」


「ありがと」


 幽子の部屋の炬燵に二人は向かい合うように座った。あまり大きなサイズではないので、向かい合って座ると思春期の男子には少し距離を意識してしまうものがあった。

 幽子はあらかじめ炬燵の上に用意していた湯呑みに急須でお茶を注いだ。トトトと音を立てながら注がれたお茶からは少しだけ湯気が上っていた。


「えっと、昨日の電話で言ったやつ。コレ」


 真は念の為ジッパー付きの袋に入れておいた御守りと炭化したような破片を、鞄から取り出して幽子に見せた。


「開けるよ」


「どうぞ」


 形式的な確認の後に幽子は袋を開けた。そして、御守り袋を取り出した幽子は恐る恐るその中を見た。

 炭化したように真っ黒になった細い枝のようなモノが、ポロポロと粉を落とした。


「うん、なるほどね」


 幽子は顔をしかめながら呟いた。その表情は悪い意味で想定内だった、とでも言いたげなものだった。


「で、どうなの?」


「本当は源ジィにも直接見てもらいたかったんだけど、今日は外せない用事があっていないんだよね」と前置きをしてから、気まずそうに言った。


「物凄く強力な邪気によって御守りが破壊されたの。身代わり小指がこんな事になってるのは初めて見た」


「物凄く強力な邪気?」


 幽子は身を乗り出して真に顔を近付けると、両目をしっかりと射抜くように見つめながら訊いた。


「ねぇマコちゃん。本当に曰く付きの場所に行ったり怪しい儀式やったりとかしてないよね?」


 幽子のあまりの真剣な表情に、真は顔が近いことに気が付きもしなかった。


「し、してないよ。本当に」


 幽子は真の目を数秒間見つめた後に、乗り出した身を引っ込めてニコリと笑った。


「分かった。マコちゃんを信じる」


「で、でも、何もしてないのに何でこんなことになったのかな?」


 当然思い浮かぶ疑問を口にした真に対して、幽子は覚悟を決めるように深呼吸してから言った。


「マコちゃんが曰く付きの場所に行ったり怪しい儀式をしてないってことは、誰かがマコちゃんに強力な邪気を送った。平たく言えば呪いを掛けたってことになる」


「え? 呪い?」


 真は思わず「冗談でしょ?」と言いかけたが、幽子がこの手の冗談を酷く嫌うことを思い出した真は口を噤んだ。


 今回は御守りがあったから自分の身には何もなかったけれど、もしも御守りが無かったら御守りを破壊した邪気が自分の身に何か作用したということ?

 真は目の前にある炭化した御守りの中身を見て血の気が引いた。幽子に御守りを貰っていたから助かったのだ。


「そう。こんな事聞かれても困るだろうけど、最近誰かに強く恨まれるようなこととかあった?」


「無い、と思うけど」


 それはあくまで自分の思い込みである。


 だが、たった二ヶ月半の高校生活の中で、呪いを掛けられる程の悪行をした覚えはなかった。誰かの恋路を邪魔したわけでもなければ、誰かを傷付けるようなことをしたわけでもない。

 それは自分がそう思っているだけと言われればそれまでだが、真は自分からズカズカと他人のプライベートに首を突っ込むタイプではないと自覚しており、ここまで恨まれるような覚えは本当に無かった。


「じゃあ、クラスで変な儀式が流行ってたりしない?」


「変な儀式って?」


「うーん。分かりやすいので言えば『こっくりさん』みたいなの」


 こっくりさんと言えば、真が産まれた頃にはブームは過ぎていた。

 だが、インターネットを漁ればブーム真っ只中の少年少女の間で大流行し、社会問題にまで発展したという情報は容易に見つかる。

 真が日ごろ眺めているSNSでも、色々な噂話に精通している牧野や野々宮からそういった話を聞かない以上、少なくとも真の周りでは流行っていないと言える。


「そういうのが流行ってるってことはないかな。聴いたこと無いし」


「うぅん、じゃあ、昨日って何か変わったことあった?」


「変わったこと?」


 真の脳裏に、昨日の階段での美幸とのやり取りが過った。その瞬間、記憶に蓋をするように美幸との会話にモヤがかかったように思い出せなくなる。


 あれ、何か気になる事を言ってたような。


 違和感だけは残るものの、違和感の正体に辿り着けなかった真は渋々「特に思い当たることはない」と答えた。


「そっか。まぁ、そうだよね」


 訪れた沈黙。


 手持ち無沙汰になった真は幽子の用意した熱いお茶を啜りながら幽子の次の言葉を待ったが、幽子はすぐに口を開くことはなかった。


「シュロロロ。分からんのか小僧。こんなことも分からないだなんて実に情けない」


 部屋の入口から響いた聞き覚えのある声に二人が振り向くと、そこには小学校低学年ぐらいの背丈の白いワンピースを着た髪の長い少女がニタニタと嫌な笑いを浮かべて立っていた。


 特筆すべき彼女の特徴は、背丈が低いことでも白いワンピースを着ていることでも髪が長いことでも子供に似合わない嫌な笑いを浮かべていることでもない。


 彼女は黄眼の少女であることだ。


「な、ナルマちゃん!?」


「どうして此処にお前がいるんだ!?」



 ナルマと名乗る少女は、幽子の誘いでゴールデンウィークに山間部にある蛇ノ目神社の掃除を行った時に知り合った少女である。


 真は知らないが、幽子はナルマが普通の人間で無いことを知っている。

 もう一人の幼馴染、大場果南(おおば かなん)と『成人するまでの間、果南と身近な人間を降りかかる不幸から守る』という契りを交わしたナルマの正体は蛇ノ目神社に祀られている鳴萬我駄羅(ナルマンガダラ)ではないかと疑っているが、腹の奥底を決して見せぬナルマに幽子は態度は柔らかくしていても警戒を続けていた。

 


「どうして? シュロロロ。小僧は結局知らんままなのか」


 シュロロロと空気の抜けるような奇妙な音を立てながらナルマは笑った。


「二度と会うことが無いのなら、わざわざマコちゃんが知る必要は無いから」


 幽子は無意識に身を乗り出して真を庇うように両手を広げた。


「おいおい。仮にもワシはお前達を守る立場だぞ」


 ナルマは炬燵の空いていたスペースに座ると「んっ」と言いながら手を突き出した。


「何?」


「ワシは客だぞ。ワシの分は?」


 ナルマは「言わなくても通じるだろ」と呟いてから舌打ちをした。


「あ、お茶? まだ口付けて無いからコレ飲んで」


 ナルマは幽子が差し出した湯呑みを受け取ると、多少冷めているとはいえまだ充分に熱を持ったお茶を一気に飲み干した。


「んん、美味い」


「熱くなかった?」


「別に」と気にも止めずに言いのけたナルマは、おかわりを要求した。差し出された湯呑みに幽子は慌てて注ぎ足した。


「茶も欲しいが菓子が欲しいな。アレ無いのか。祭りで子供に配るやつ」


「何それ」


 幽子はしばらく考えてから、思いついたように「あっ」と口にした。


「もしかして駄菓子のこと? あったかなぁ」


「あるだろ。戸棚の上に」


 知るはずのないこと知っていたナルマの言葉に、幽子はただならぬ恐怖を感じて思わず身震いした。


「な、なんで知ってるの?」


「ワシは”鼻が良い”からな」


 真の身体の内側に相手が嘘を言った時に生じる痺れが疾走った。しかし、いつもと何かが違う痺れだった。


「ッ!?」


 真が思わずナルマの顔を見たが、ナルマは真に目をくれず幽子だけを見ていた。


「ちょっと見てくるね。大人しくしててね」


 幽子は釘を差すように強調して言うと、スッと立ち上がりそのまま部屋を後にした。


 ナルマと二人きりになった真は斜め横に座るナルマを睨み付けた。


「何で此処にいるんだよ。蛇ノ目の人間だろ?」


 真はナルマに対して良い印象を持っていない。

 出会ったのは幽子と同様に先月のゴールデンウィーク。蛇ノ目神社の掃除を手伝っていた時に突如現れたのがナルマだった。

 ナルマは初めて会った時からやたらと挑発的な態度で絡んできたため、真も売り言葉に買い言葉で接した。それは別れの時まで変わらなかった。


 真が睨み付ける一方で、ナルマは真の言葉に手を叩いて笑った。


「シュロロロ。箱入り小僧極まれり、だな。これから先も小僧と会うかもしれないことを考えるとさっさと言った方が良いな。良いか? ワシは人間ではない」


「は?」


 目の前の少女の言葉に驚いたことは事実だが、真が一番驚いたのは「ワシは人間ではない」という言葉に力が発動しなかったことだ。


 つまり、その言葉は真実ということになる。


「な、何を言ってるの?」


「小僧が受け入れようが受け入れまいがワシの正体は変わらない」


「人間じゃないなら何だって言うのさ」


 ナルマは「教えて欲しいか?」とニタリと嘲笑うように歯を見せた。


「小僧、鳴萬我駄羅(ナルマンガダラ)という名前を知っているか?」


「ナルマンガダラ? 確か蛇ノ目神社に祀られてる神様の名前じゃなかった? それが何?」


 真が知っていたことにナルマは大層驚き、目を丸くし口をあんぐりと開けた。


「ほぉ、知っておったか。なら話は早い。『ナルマ』と『鳴萬我駄羅』。もう分かるだろう?」


 ナルマが先の割れた舌で上唇をゆっくりと舐めながら目を細めて笑った。


「ほ、本気で言ってるのか?」


「本気で言っているかどうか。小僧は分かるはずだろう?」


 真は絶句した。


 何故そう言い切った?

 何故嘘を見抜く力についてナルマは知っているんだ?


 ナルマのいる前で自分の力について話した覚えなど無いはずなのに。


「何でそれを」と口にした時点で認めたも同然だった。


「あぁ? そんなの決まってるだろ。お前のその力は」


 その時、廊下からパタパタと歩く音が聞こえ、お盆にお菓子を載せた幽子が部屋に戻ってきた。


「こんなのしか無かったけど良いかな?」


 お盆に載っていたスナック菓子やチョコ菓子を見て目を輝かせたナルマは両手でお菓子を手に取った。


「おぉ! 色々あるではないか」


 ナルマはスナック菓子の包装を乱暴に破くとボロボロと破片を溢しながら口にした。


「美味い美味い」


「ナルマちゃん。溢れてる溢れてる」


 幽子がナルマの口元と溢れた欠片が散らばった辺りをティッシュで拭いた。


「んむ」


 ナルマはあっという間に一袋食べ終わると、手についた菓子の粉末を舐め取った。その姿には見た目からは考えられないような妖艶さをも秘めていた。


「ねぇ、ナルマちゃん。今日はどうして此処に来たの?」


 様々な事が連続して起こったためにすっかり頭から抜け落ちていた疑問を幽子は訊ねた。ナルマは手についた涎をティッシュで拭き取ってから言った。


「察しの悪い小僧と知識のない娘じゃ解決しそうに無かったから助言しに来てやったんだ。放っておいて果南に何かあったら困るからな」


「さ、察しの悪い?」


 カチンと来た真はナルマを睨みながら呟いた一方で、幽子は真の声を掻き消すように大きな声で言った。


「ナルマちゃんは身代わり小指がこうなっちゃった理由が分かるの?」


 ナルマは湯呑みに入ったお茶を一気に飲み干すとカチャンと音を立てながら炬燵に湯呑みを置いた。


「シュロロロ。何度同じ話をさせれば気が済むのか知らんが、ワシは契りによってお前達を守る立場だ。当然、お前達の動向を監視しているに決まってるだろう。小僧が呪われた瞬間も知っておる」


「か、監視!?」


 何だそれは。聞いていない。

 プライベートが無いということなのか?


 真がさらにナルマを睨んだが、幽子が「マコちゃんはちょっと待ってて」と言い、自分の話を続けた。


「じゃあ犯人も分かってるの?」


 ナルマは一瞬言葉に詰まってから言った。


「犯人ということは小僧を呪った犯人という意味か? それなら分かる。だが、事の発端まではまだ分からん」


「事の発端?」


「先にワシの問いに答えろ。小僧に掛けられた呪いが何なのか草薙の娘は分かっておるのか?」


「わ、分かんない」


 幽子の答えにナルマは大きく溜め息をついた。幽子は何か言いかけたが、その言葉をグッと呑み込んだ。


 ナルマは炬燵の上に置かれた御守り袋にそっと手を伸ばし、器用に炭化した小指だけを拾い上げた。ナルマの手付きは、呪いを恐れていると言うよりも、御守り袋に触ることを恐れているかのようだった。

 ナルマは摘んだ破片を元に戻すと、手に付いた黒い粉末を舐めた。


「んん。似た味は知ってるが、何か混ざってるな。知らん味がする」


「あ、味?」


「あぁ。呪いを判別したければ摂取するのが一番早い。草薙の娘もやってみるか?」


 幽子は「そんなのありえない」と言いたげに首を左右にブンブンと振った。


 黒い粉末の味見が終わったのか、ナルマはお茶でうがいをするとそのままゴクリと呑み込んだ。そして「話を戻そうか」と切り出した。


「コレは伝染型の呪いだ」


「伝染型の呪い?」


「呪いの対象だけでなく、その周囲にも呪いを振り撒く種類ということだ。今回は御守りがあったから何も起きてないが、もしも御守りを持っていなかったら小僧だけでなく、小僧と親しい人間もこうなってたかもしれんな」


 ナルマは御守り袋の中の黒い破片を見ながら言った。


「それってヤバいんじゃないの?」


 思わず口を挟んだ真に対して、ナルマは嘲笑うかのように目を細めた嫌な笑顔を見せた。


「シュロロロ。上中下で言う所の中だな。細かく分ければ中の下から中の中。その程度の呪いだ。あまり大したことはない」


「大したことないって事は無いでしょ。身代わり小指が壊れちゃうだなんて」


 幽子が反論するとナルマは「ごもっとも」と返した。


「そう。その一点は妙だ。伝染型の呪いで此処までやるとはな。平安の世ならともかく、今の御時世にしては大した呪詛師(じゅそし)だ」


「呪詛師?」


 歴史の勉強をしていれば多少は目に触れることもあるが、呪詛師と言われて思いつくのは小説や漫画の世界だ。


 それを冗談ではなく本気で言っている?


 ありえない。普通はありえないが、自分の力のことを考えればありえるのかもしれない。

 誰も知らないだけで、世の中にはそういった理外の法則が蔓延しているのだろう。


 真はそんなことを考えながら湯呑みを口にした。


「小僧。昨日乳の大きな女とぶつかっただろ」


 突然の言葉に、真は丁度口に含んでいたお茶を吹き出しそうになった。


「どういうこと? マコちゃん」


 優しい声色をしていたが、幽子の目は笑っていなかった。真が返事に困っていることを知ってか知らずか、ナルマはそのまま自分の話を続けた。


「あの女が小僧に呪いを掛けたことは確かだ」


 階段から落ちた時に呪いを掛けた?


 何故? 野呂さんとの関わりなんて殆ど無いのに?


「じゃ、じゃあ野呂さんが犯人ってこと?」


 真の出した答えにナルマは「ワシの話をちゃんと聞いていたのか?」と呟いた。


「さっきも言ったろ。元凶があの女とは限らない」


「それは、野呂さんも誰かに呪われているかもってこと?」


 これまでの話の流れから予想した答えを口にすると、ナルマは「可能性の話だがな」と言った。


「さて、此処から先は草薙の娘、お前が答えられないと話にならんぞ」


 ナルマは威圧するように幽子を睨み付けた。幽子は思わず身体の重心を後ろに下げたが、すぐに元の体勢に戻った。


「何?」


「この場合、小僧の身を案じるのならば、その最善策は何だ?」


 幽子は目を閉じ、数秒間ジッとした後に答えた。


「えっと、野呂さんだっけ? マコちゃんに呪いを移したその人の呪いを祓うこと?」


 他に答えなど無い、という自信が顔にも出ていた幽子だったが、ナルマは口をへの字に結んだ後に首を左右に振った。


「祓う、か。それは一時的な解決に過ぎない」


「ど、どうして? 呪いを祓えばそれで終わりでしょう?」


「もう一度乳女が呪われたらどうする? もしも呪いを祓ったことが小僧と関係しているとバレたらどうする?」


「そ、それは」


 幽子はもう一度目を閉じ、しばらく考え込んだが答えは出てこなかった。


「呪詛による攻撃への最も確実な対処方法。それは呪詛を返すこと。常識だろ」


「呪詛返し!?」


 幽子の目が、声が、明らかに動揺していた。真は何処かで聞いたことがあるような、しかし意味は分からない「呪詛返し」という言葉を頭の中で反芻した。


「そうだ」


「そんなの出来るわけが無いでしょッッッ!!」


 幽子が声を荒げた。優しくて、強くて、温かい。そんなイメージの幼馴染が怒りを露わにして怒鳴っているのを見るのは、小学生の頃のとある事件以来だ。

 幼馴染のあまりの変貌に、真は目を見開き言葉を失った。


「出来るわけが無いだと? それならば、呪詛返しよりも確実な方法を小娘は掲示出来るとでも言うのか?」


 声を荒げた幽子に対して、ナルマは過ちを犯した子を諭すように冷静に答えた。


「それは、すぐには思いつかないけど、あんな呪いを返したらその人死んじゃうでしょ!!」


「で?」


 不自然な間。


 完全に理解し合うことが出来ない者同士の間に流れる沈黙とはまた違う静寂。


 幽子の唾を呑む音が聞こえた。


「で? って」


 幽子は目の前にいる少女が人間でないことを改めて痛感した。多くの人間が持っている『人を殺してはならない』という共通認識は神には通じないのだ。


「人に呪いをかけるような自己中心的な奴がヘラヘラと生きて、呪いを掛けられた人間が己の不幸の理由を知ることもなく生きていく。それが正しいとは思えんな」


 部屋の中に緊張感が疾走った。


 まさに一触即発。幽子、ナルマのどちらが動き出してもおかしくない状況。

 真は少しでも気を逸らそうと、「は、話の流れが良く分かんないんだけど」と割って入った。

 お互いに引く気の無い二人の視線が真を貫いた。


「まずは野呂さんがこの事を知っているかどうかを確認するのが先なんじゃないの?」


「確認? お前を呪ったという事実だけは揺るがないというのにか?」


 ナルマの声は不機嫌だったが、真が何を考えて言ったのか興味があるようで、真に先を促した。


「僕のことを呪うつもりがあったのか無かったのか。自分に呪いの力があると認識していたのかどうか。元凶が野呂さんなのか別の誰かなのか。その辺りが分からないまま動くのは不味いんじゃないの?」


 ナルマは真の言葉にシュロロロと音を立てて笑った。


「ふむ、小僧の言う通りだな。呪詛返しをするにしても、その辺りの正確な情報があった方が良い。しかし、どうやって確認するつもりだ?」


「そんなの簡単だよ」


 真がここぞとばかりにナルマに挑戦的な視線を送った。数秒後にナルマは歯を見せて笑った。


「そうかそうか。お前にはこういう時に役に立つ力があったな」


 自分の力が役に立つ時が来た。

 クラスメイトの姫倉さとりを救った時と同じように、クラスメイトの野呂美幸を呪いから救うためにはきっとこの力が必要だ、と真は根拠の無い自信を感じていた。


「じゃあ、月曜日に僕が野呂さんに探りを入れてみるよ」


「だ、大丈夫なの? もしも野呂さんが元凶だったらマコちゃんが危ないよ」


 心配そうに真の顔を見る幽子の姿を見たナルマは「やれやれ」と言いたげに息を吐いた。


「その時はワシが助けてやろう。ワシにとっての最悪は小僧を通して果南が呪われることだからな」


 果南、果南、果南。

 ゴールデンウィークの時もそうだったが、ナルマはどうも果南に懐いている。神に好かれることが悪いことだとは思わないが、不穏なニオイがしないとも言い切れない。

 自分の力がある内は騙してくるようなことは無いだろうが、目の前にいる蛇神は何か大事なことを隠している。そんな気がした。


「前から気になってたけど、ナルマは果南にだけはやたら甘いな」


「そういう小僧は神であるワシに対して随分と無礼だな」


 真とナルマが睨み合い始めたのを見た幽子は、チョコ菓子の包装を開けるとナルマの前に差し出した。


「これ美味しいよ」


 ナルマは幽子の指ごと咥えてチョコ菓子を口にすると、ゆっくりと咀嚼した。


「んん、美味い美味い。美味いが酒には合わんな」


 緊張していた空気が一気に弛緩した。

 その後、幽子の用意した駄菓子の殆どを喰らい尽くしたナルマは満足そうにお腹をポンポンと叩くと「じゃあまたな」と言って、一人で廊下へと歩いて行った。裸足特有のペタペタと鳴る足音は、玄関に到達するより前に消えた。


 監視しているという言葉が事実だった以上、今も何処かで見ているのだろうが、少なくともこの家には幽子と真の二人の気配しか無かった。

 真は何度か廊下の方をチラチラと確認しながら訊いた。


「ユウ姉はナルマのこと知ってたの?」


 真は空っぽの湯呑みに口をつけ、わずかに残った水滴で唇を湿らせると湯呑みを置いた。


「うん。知ってた」


 幽子は言いながら真の湯呑みにお茶を注ぎ足した。


「いつから?」


「ゴールデンウィーク。深夜にナルマちゃんに呼ばれて色々話をしたの」


「じゃあ、神様ってのも本当なの?」


 自分の力が発動しなかった以上、ナルマの言葉に嘘があるとは思えなかったが、信用している幼馴染の答えを聞かないと気持ちの問題として納得出来ない部分があった。


「多分、ね」


「どういう態度を取れば良いか分からなかったから前みたいに接したけど不味かったかな」


 真は相手が神様だからといって今更ひれ伏すような態度を取るつもりはなかったが、神の怒りを買って幽子や果南の身に何かが起きるのなら、自分の感情を抜きにしてでも態度を改めなければならないとも思っていた。


「多分だけど、ナルマちゃんはマコちゃんのことそんなに嫌ってないと思うよ」


 幼馴染の意外な言葉に真は驚いた。


「それは、何を根拠に?」


「ナルマちゃん。マコちゃんのことを、というよりも、『見抜』の姓のことを知ってたみたいだから」


「え? 『見抜』の姓のこと?」


 幽子が何を言いたいのか分からなかった真はオウム返しをした。


 自分の苗字に一体何の意味があるのか?


 その意味を聞こうと幽子の目を見たが、幽子は何か口元に手を当ててから言った。


「ごめん。私の憶測の域を出ないからこの話は無し!」と強引に打ち切られた後に「でも大丈夫。ナルマちゃんはカナンちゃんとマコちゃんのことを守るって約束してくれてるから」と幽子は言った。


「信じていいの? それ」


 これも嘘ではないことは分かっている。だが、先程と同様に、気持ちの整理の意味を込めて幽子に訊ねたのだ。


「信じる信じないの話じゃなくて、神様の言う『契り』ってのはとっても重い意味があってね。そこで嘘を付くことは絶対に無いよ。だから、全面的に信用して良いかは別にして、とりあえず敵ではないって認識で良いと思うよ」


 幽子がそう言うのであればそうなのだろう。

 他に何か考えがあるわけではない真は、とりあえず幽子と同じように考えることにした。


「う、うん。でも、そういえば、監視してるとか言ってなかった? この会話も聞かれてるのかな?」


「かもね」


 幽子はフッと笑いながら言った。その瞳は何処に焦点が合っているのか分からない、形容し難い不気味さを秘めていた。


「とにかく、マコちゃんは月曜日に野呂さんに呪いのことを聞くんだよね?」


「うん。もしも野呂さんも被害者だったら、助けたいから」


「それは、どうして?」


 幽子の射抜くような視線に真は一瞬怖気付いたが、すぐに幽子の目を見ながら言った。


「だって、たまたまユウ姉やナルマみたいな詳しい人がいたから分かったのであって、僕達でどうにかしないと野呂さんは何も分からないままだよ。それは、あまりにも可哀想だよ」


 言い終わってから「ナルマは人じゃないんだっけ」と訂正を入れた。


「ふぅん。そっか」


 数秒の沈黙の後に「マコちゃんは優しいね」と、気持ちが込められているようには聞こえない無機質な呟きが真の耳に届いた。

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