私がベースを始めた日。〜初恋のお兄ちゃんに好きになってもらいたいから、恋愛心理学に頼ります〜
無月兄
前編
吊り橋の上みたいに不安や恐怖を感じる場所で人と会うと、その人に恋愛感情を持つことがある。
所謂、吊り橋効果ってやつ。
でもこれって、別に恐怖や不安みたいな嫌な気持ちじゃなくてもいいみたい。
楽しいことや面白いことでドキドキした時だって、そばにいる人を好きになることがあるらしいの。
似たような心理効果にゲレンデマジックっていうのがあるけど、こっちはスキーっていう楽しい体験を一緒に経験すると、スキーに対して感じてたドキドキを、相手へのドキドキと勘違いして好きになるんだって。
だから好きな人がいて、その人に自分のことを好きになってほしいなら、一緒に楽しいことをしたり、その人が好きなことしている時に、邪魔にならないようにそばにいるのがいいのかも。
えっ? そんなの本当に効果があるのかって?
そんなの分かんない。だけど私は、それでも試してみたくなる。
だって私の恋は、叶う望みがすっごく薄いんだから。
通っている中学が休みのこの日、私は、家の近所にあるアパートの一室を訪ねた。
インターホンを押すと、すぐにドアが開いて、男の人が姿を現す。
スッと通った鼻筋に優しそうな目をしていて、まるでモデルかアイドルみたいに綺麗だ。
「やあ、藍。いらっしゃい」
「こんにちは、ユウくん。これ、お母さんが作りすぎたから、持っていってって」
そう言って私は、お煮しめの入ったタッパーを取り出す。
「ありがとう。帰ったら、おばさんによろしく言っておいて」
「うん。えっと、それとね……そのお煮しめ、私も作るの手伝ったの。美味しくなかったらごめんね」
半分以上はお母さんが作ったから不味いってことはないけど、食べてみたら、いつもとは少し味が違ってたんだよね。
だけどユウくんは、それを聞いてパッと笑顔になる。
「えっ、藍が作ったの? ありがとう」
ニコニコ笑うその様子は、本当に嬉しそう。
なんて思うのは、そうだったらいいなっていう、私の願望も入っているのかも。
この人は、うちの近所に住んでる大学生、有馬優斗くん。
前はお父さんと一緒に暮らしていたけど、大学に入ってからは家を出て、このアパートで一人暮らしをしているの。
歳は、私よりも七つも上。私が小さい頃から妹のように可愛がってくれていた、お兄ちゃんみたいな人。
そして、私にとっては、誰よりも大好きで大切な、初恋の人だった。
って言っても、ユウくんはそんなこと全然知らないし、意識もしてないんだけどね。
「よかったら、上がっていく?」
ほら、これだ。
女の子を部屋に呼ぶってのが、どういうことかわかってる?
なんの躊躇もなくこんなこと言えるのは、私を女の子じゃなく妹としか見てないからなんだろうな。
妹のように思ってくれてるからこそ、今までたくさん可愛がってもらってたし、それはすっごく嬉しい。私だって、ユウくんのことをお兄ちゃんみたいだって思ってる。
けど同時に恋する相手でもあるんだから、この反応はとっても複雑。
いいもん。妹にしか見てもらえてないなら、その立場を思いっきり利用するから。
「そ、それじゃ、お邪魔します」
そう言って、ユウくんと一緒に部屋の中に入る。
この部屋に上がったのは今までにも何度かあるけど、その度にドキドキする。
だって、男の人の、しかも好きな人の部屋だよ。おまけに、ユウくんはここに一人で住んでるから、今は私と二人きりなんだよ。
嬉しいけど、緊張しちゃうよ。
私がこんなこと考えてるなんて、きっとユウくんは想像もしていないよね。
「はい、座布団。飲み物はジュースでいい? お菓子は、たしかクッキーがあったはずだから……」
「えっ、別にいいよ」
「いいから。用意させてよ」
「う、うん。ありがとう」
部屋に入るなり、全力でもてなそうとするユウくん。
ほんと、女の子として意識はしてくれないけど、妹としてはすっごく可愛がって、時には甘やかしてくれるんだよね。
結局、言われるままテーブルの側に座って、クッキーとジュースが運ばれて来るのを待つ。
するとそこで、テーブルのすぐ側に、あるものが置いてあるのに気づいた。
「これって……」
そこにあったのは、真っ白なベースギターだった。
少し前まで使っていたみたいで、何か色んな配線がくっついている。
「ああ、それか。さっき出して、そのままにしてたんだ。今片付けるから」
お盆にクッキーとジュースを乗せてやってきたユウくんがそう言うけど、私はもう少しだけ、それを見ていたかった。
「そういえば、近ごろユウくんのベース、聞いてなかったな」
ユウくんは高校生のころからこのベースを弾いていて、大学でも軽音サークルに入ってる。
今まで何度か演奏を聞かせてもらったことはあるけど、最近は、なんだか聞く機会が減っていた。
「就活や論文で忙しかったからな。その辺は一段落ついたから、また久しぶりに弾いてみようと思ったんだ」
ユウくんはそう言いながらベースを手に取るけど、それから、少しだけ寂しそうな顔をする。
「来年は社会人になるし、そうなるとますます弾く機会は減っていいそうだったからな」
「あっ……」
社会に出て仕事をするってのがどれだけ大変か、私にはまだ全然わからない。
けど確かに、大学生の今とは、変わることもたくさんあるんだろうな。
ユウくんが音楽を好きなのはよく知ってるから、それに打ち込む時間が減っていくのは、私も寂しい。
だけど今の話を聞いて、それとはまた別の寂しさも感じていた。
(ユウくんは、来年から社会人か。なんだか、どんどん置いていかれる気がするよ)
そっと、心の中で呟く。
私だって来年には高校生になるし、少しずつ大人になっている。だけど、ユウくんとの年の差は縮まることはない。
私が社会人になる頃には、ユウくんはもっとずっと先に進んでる。
ユウくんから見たら私はいつまで経っても子どもで、妹みたいなものなのかも。
そんなんじゃ、好きだとか恋してるとか、そんな気持ちにはならないよね。
そんなのずっと前からわかってるけど、改めて考えると、気持ちが沈んじゃう。
って、いけない。せっかくユウくんと二人きりでいられるんだから、落ち込んでる場合じゃないよね。
「ユウくん、ベースを弾くようになったのは高校生の頃からだったよね。思った通りに弾けるようになるまで、時間かかった?」
気を取り直して出した話題は、またもベースのこと。
私は楽器なんて音楽の授業でやる以外ほとんど触ったことないけど、ユウくんがベースを弾くところは、カッコよくて大好きだった。
「そりゃ、簡単じゃないからな。まともに弾けるようになるまで、かなり時間がかかったぞ。いや、今だって、思い通りに弾けるようになんて思ってない」
「えっ、そうなの? あんなに上手なのに?」
「俺なんてまだまだだよ。そりゃ、始めた頃に比べたらだいぶ上達したけどな。最初は、本当に下手くそだった」
「そうなんだ。下手だったユウくんなんて、想像つかないな」
そういえばユウくんの演奏を初めて聞いたのは、ベースを始めてからだいぶ経ってからだった。
それまでは、私が聞いてみたいって頼んでも、今は練習中だからまた今度って言って、結構長い間おあずけされてた気がする。
「藍には下手なところ見せたくなくて、ある程度弾けるようになるまで聞かせなかったからな」
ユウくんはそう言ってクスリと笑った。
「ベースって、そんなに難しいんだ」
「その分、初めて一曲弾けるようになった時は、嬉しかったな」
改めて、置いてあるベースをまじまじと見る。
ユウくん、弾いてる時はもちろん、今みたいにベースの話をする時も、本当に楽しそうなんだよね。
そんなベースも、これから弾く機会が減るかもしれないって思うと、私も寂しくなる。
するとそこで、ユウくんはこんなことを言い出した。
「そうだ。せっかくだから、藍も少し弾いてみるか?」
「えっ、私?」
「ああ。最初は大変ってこと、話すよりよくわかると思うぞ」
ど、どうしよう。
実は今までにも、こんな風に弾いてみないかって言われたことは何度かあった。だけど、全部遠慮してた。
だって、難しそうなんだもん。さっきユウくんは、私に下手なところを見せたくないって言ってたけど、私だってそうだよ。
ユウくんの前で下手くそでセンスのないところを見せたらって思うと、想像しただけで心臓がバクバク鳴ってくる。
「え、えっと……私はいいや」
ユウくんには悪いけど、私は聞く専門で、今回もお断り。
するとユウくんは、少しだけしょんぼりした顔をする。
もしかしたら、自分が大好きなベースに、私ももっと興味を持ってほしかったのかも。
けど、やっぱりユウくんの前で下手なのを見せるのは嫌だし、どうしよう。
なんて考えたところで、ふと、最近聞いた恋愛に関するある話を思い出す。
それは、吊り橋効果に、ゲレンデマジック。
恐怖でも楽しさでもなんでもいいから、ドキドキしている時に誰かと一緒にいると、その人のことを好きになるってやつ。
ユウくんはベースが好きで、弾いている時は本当に楽しそう。
だったら、ベースの弾き方をじっくり教わったら、少しは私に恋する可能性も出てくるかも。
なんてね。
そんなの効果があったとしても、きっと気休めくらいのものだよね。
だけど、妹としか見られてなくて、恋愛になる望みがほぼゼロな私は、例え気休め程度でもすがってみたかった。
「じゃ、じゃあ……ちょっとだけ、弾き方教えてくれない?」
「おっ、やってみるか。任せろ。しっかり教えてやるからな」
とたんに嬉しそうになるユウくん。
ごめんね。ユウくんの大好きなベース、思いっきり不純な動機で弾いちゃいます。
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