第二章 ~募る不安~ 3
試験管。
人が入れるほど大きな試験管。
何も誰も入っていない試験管。
ただ液体だけがそこにある、試験管。
ガラスを隔てた一つ向こうに、試験管があった。
試験管を見ている者は、たくさんいた。
試験管があるのと同じ場所に、白い服を着た者たちがいっぱい。
ガラスを隔てた試験管のない方にも、白い服を着た者たちがいっぱい。
違うのは体の大きさ。
試験管の方にいるのは誰もが大きくて、ガラスを隔てた試験管のない方は小さい。
一人の男の子が、試験管をじっと見ていた。
食い入るように見ていた。
まるでその試験管に誰かがいるように。
白衣の大人たちはもう試験管を見ていないのに、男の子だけは試験管を見ていた。
じっとじっと、ずっとずっと。
肩を引っ張られて、やっと子供は試験管から目を離した。
肩を引っ張ったのは、彼と同年代の男の子。
他にも何人も同じぐらいの年の子がいる。
肩を引っ張られた男の子は、何の未練もなく彼らの方に行った。
そして部屋に戻る。
彼らがいつもいる場所。
彼らがいつも遊ぶ場所。
彼らがいつも寝る場所。
彼らの他の友人がいる場所。
そこに、戻った。
いまそこであったことを受け入れて。
いつものように、だけどいつもより遥かに長い時間を掛けて受け入れて。
当たり前の日常として、処理した。
◇◆◇◆◇
気を失ったフィルネを、一体のとても醜い怪物が掴んでいた。
大きさは二メートルを超え三メートル近くあるように思われる。人型で、男性か女性のどちらかと言えば名前でも分かるように女性。
容姿は酷く、化け物としか形容できなかった。
シースはその醜い怪物から目を逸らしてはいなかった。
そしてその醜い怪物は、彼女を掴む手とは逆の手で、自分より一メートルぐらい小さな怪虫の攻撃を受け止めていた。
「〝ミケイナ〟」
シースが呼ぶ。
すると怪虫を片手でひっくり返してシースの元へと跳躍した。
低い唸りを上げて醜い怪物はフィルネを平らな地面に置いた。
シースはそれに一瞥(いちべつ)をくれただけで敵へと目を戻した。
怪虫はもがいて起き直った。
「なぜ護らなければいけないのだろうな」
シースは思ったことをそのまま口に出した。
いつもは一人でいるときにしかしないことを、なぜか今日に限って彼女の前でしてしまった。取り返しはつかないが、取り返しがついたとしてもその為に必要なことをする気はなかった。「命令がなければ見殺しにするのに」
別に立場が悪くなったからというわけではない。それがシースにとっての常態だった。
「面倒だ。これほど面倒な命令はない」
どうしてこんな新米を俺の元に送り、護らせるのが上の意向なんだ? もっと適任者はいるはずだというのに。
シースは悩み、その間に相手に時間を与えたことに気が付いていなかった。いや、正確には気にする必要がなかった。
彼が本気を出せば、穀虫ごときいくら来ようと問題ではない。
事実、跳び掛かった穀虫は〝ミケイナ〟によって一撃で命を絶たれた。
シースは〝ミケイナ〟を戻し、フィルネを抱え持った。
「仕事は終わった。後は報告に戻るだけだ」
その声には精神的疲労というものが、色濃く出ていた。
まるで、フィルネとのことで堪えたかのように。
◇◆◇◆◇
「きこり」
男の子が体の大きな少年を呼んだ。先程彼の肩を引っ張った少年である。
「鈴鳴はどこ?」
きこりと呼ばれた少年は少し離れたところにいる集団を指差した。
彼はそこに目的の人物を見つけ、少年に礼を言って少女に近付いた。
「あら、どうしたの?」
少女は遊びを中断して彼に話し掛けた。
「ツグミが消えた」
彼がそう言うと少女は悲しそうに目を細めた。
「シーはいなくなった」
また彼が言うと、少女は顔を伏せてしまった。
彼は狼狽(ろうばい)した。
しかしそれでもまだ言わねばならない。
「アポが自分を見失った」
少女はとうとう涙を流した。
他の今の言葉を聞いた者たちも暗い顔をした。中には声を出して泣く者もいた。彼らはまだここに来て日が浅いのだ。
「泣くな。もう何度も見てきただろ? ツグミはしょうがないけど、二人はまだいる。会いに行こう」
彼が手を伸ばすと少女――鈴鳴――は立ち上がって彼を真っ直ぐに見つめた。
「迎えに行きましょう。私たちにできるのはいつまでも友達でいてあげることだけだもの」
鈴鳴は手を取った。
彼はしっかりと応えた。
その手を握り、歩き出す。
まだ落ち着かない者たちを尻目に、さっき通った扉とは違う扉に向かった。
扉はどれも造りが同じだが、上に張ってある文字は違かった。
仰々しくもなければ面白くもない、変哲はないが頑丈な扉の上にある文字には、こう書かれていた。
『実験室1』
なので彼が先頃入ってきた時の扉には、最後の部分が2となっている。
彼は扉に行くまでに一緒に迎えに行く友人たちを呼んだ。
「きこり、レン、クラン、ベイ、ネク、レラ、アロ、ビルティン、コロモイ、シューノ、フェルサ、ベーネ、ティロン、サラ、アーヴィン、カノイス、あのは、キロ、皆で一緒に迎えに行くよ」
そして、総勢二十人が各所からのそのそと現れるはずだった。
しかし、実際には現れた内の半分近くが――
◇◆◇◆◇
フィルネが目を覚ました時、そこには誰もいなかった。
それは不幸ではなく幸運であった。
誰かがいれば全てを話してしまっただろうから。
話せば楽になれた部分も会っただろう。だがそれでは後々にまで禍根を自分の中に残すことになったであろう。
今感じる、見覚えのない場所に一人でいることによる寂しさなど、それを考えれば気にならなかった。
フィルネは辺りをじっくりと観察した。
乱雑に物が置かれた机。
自分が寝てるところ以外にもあるベッド。
そして独特のにおい。
ここは保健室だ。
「起きたようだね」
「ビュアネさん」
ここがどこだか分かったと同時、まるで計ったかのようにドアを開けて入ってきた。
「大変だったようだね。一日、と少しかな。ずっと眠ってたよ」
彼は見舞いの花を彼女の傍らにある花瓶に入れた。そこには昨日、活けたと見える花もあった。
「皆驚いたよ。なにせ彼が君を運んできたんだからね」
「あ」
フィルネはそのことに嬉しくなったがすぐに気落ちしてしまった。
まだ完全には立ち直れていない。
「もうしばらく安静にしてるといい。フェレンさんを呼んで来るからそれまで出歩かないように」
そう言い残してビュアネは部屋を出て行った。
フィルネはシーツを引き寄せて胸の前に持っていく。
「これからどうしよう」
どんな顔をして自分のパートナーに会えば良いか分からない。
あれほどの醜態を見せ、彼を貶(けな)したのに平然とその前に現れることなど彼女にはできそうになかった。
「アウロイさんに、しばらく休むって言おうかな」
卑怯な手だとは分かっていた。それもとびっきりの。
自分が仕事で体調を崩したと言えば、実際に眠り続けていたことから簡単に休暇は出してもらえるだろう。そしてその間に気持ちの整理を着ける。
本当に、卑怯で最低な逃げ道だ。
「失礼するわ」
きりりとした声の後、入って来たのは若い女性だった。
どう見た目の年齢を加算してみても三十代前半としか言いようのない綺麗な女性、医師フェレン・アノガリー。
隊員には自粛させられる長い髪。艶が良く色は茶色。
細く窄(すぼ)められている目はきつい印象を持つ者もいるだろうが、少なくともフィルネにはその瞳は冷たいと暖かいが混ざり、暖かい方が勝(まさ)っているという感じに思えた。
鼻は小さいが決してそれが彼女の顔を凹凸の少ない物と見させはしなかった。
口は大きめの印象を受けるが全体で見るとぴったりと当て嵌(はま)まっている。
彼女は名乗った後すぐさま診察道具を手に取った。こちらの名前は訊かない。運ばれた時に名前を教えられていたのだと分かるのに数秒の時間を要した。
「気分はどう? どこか変な感じのするところはない?」
医師にしては意外とあっさりというかぞんざいな感じで診察を始めた。
「ありません。大丈夫です」
彼女が部屋に入ってからの二言目が、医者としてのものだった。
「そう。でもまだ顔が優れないわね。念のためいくつか薬を出そうかしら」
「いえ。本当に大丈夫です。眠り過ぎててまだ体がしっかりと動かないだけですから」
フェレンはフィルネを品定めするように見て、それから結論を言った。
「必要ない、か。でもね、外傷もないのに気絶した人間をほいほいと出してやるほど私は無責任じゃないわよ」
「えと、あの」
フィルネは態度だけでなく話の内容も初めて会ったにしてはぞんざいになった医師・フェレンに困惑した。
これだとまるで詰問されているみたい。
正確にはこれからされるというのが正しい。だがフィルネには彼女の急に変わる行動に全く付いていけないためそう思った。
「今のパートナーに何かされた? それとも危険な目に合っている時に何もしてくれなかった?」
「えあ、何を言ってるんですか?」
こちらの言葉を無視し、いきなり顎に指を添えられて上を向かされた。
「瞳孔にも異常はなし。少しストレスがあるみたいだけどあいつがパートナーにしては少ない方ね。彼の前のパートナーはストレスとは無縁ではないけれど彼とはそれなりの関係を築いていたし……良いわね。あなた、彼と相性がいいのかもしれない」
パートナーを疑ったと思った次にはパートナーとの相性がどうのって、かなりマイペースな人みたい。
シースは相手のペースを無視するがマイペースとは違う。つまり彼女はこの時初めて支部の中でマイペースな人間と出会ったことになる。
「あの……何なんですか?」
「別に。ただ複数の人間からあなたのことを頼まれただけ」
フェレンはそう言って右手の指を三つ折った。
「あなたの上司にビュアネは身体と精神の心配、あなたに同情している者たちからはどうにかしてシースの馬鹿と離させるように言われたの」
つまり最初の質問が後者の者たちの頼み事なのだろう。そして前者が後から彼女が訊いたりされたりしたことがアウロイ支部長とビュアネの好意ということになる。
「どうする? 相性は良さそうだけど駄目だと思うなら私から支部長に言っておくわよ。少なくとも一ヶ月は彼と会わないように手を回せるけど」
彼女は診察の時とは違う、労りを以てフィルネの目を覗き込んだ。
そして息をふっと漏らす。
「そんな気はないみたいね。でもこれだけは言っておくわよ」
彼女は自然な動作でフィルネの頬に手を触れた。
「困ったことがあったら頼りなさい。彼との事はとても一人で処理しきれるほど、周りの人間との根も浅くないんだから」
それは、数日前にゴロイが言っていた言葉と一致する部分があった。
フィルネは無性にそれを訊きたくなり、少し悩んでからやっぱり訊くことにした。
これは知らなければいけないことだ。
そう、心の中から思ったからだ。
「いったい、何があったんですか? ゴロイさんも意味ありげなことを言っていましたし、周りの人たちも何か隠しているように思えるんです」
「そう。でもね、これは簡単に言えることじゃないの。これを聞くなら、覚悟しないと駄目よ。彼に対して、聞いたことを鵜呑みにするのでもなく、聞いたことを否定するのでもなく、そしてあなたが見てきた彼と、まだ見ていない彼の一面を考慮しなければ、あの馬鹿を心の底から嫌いになる」
淡々としているようで静かに動く慈愛のようなものをフィルネは感じ取った。
「そうね。そう……今は聞かない方が良いだろうね。心も体も弱っているいまじゃ辛いだろうから。それに外にいる馬鹿に聞かせるようなものでもない」
彼女は最後はドアの方を向いて言った。
「そうでしょ? アウロイ支部長」
ドアの向こうからは何の反応も無かった。
しかしフェレンがドアを開けて戻ってくると、その手には花束があった。
「あの上司と部下の二人は本当に馬鹿よ。どうしようもなく救いようのない、ね」
憐憫の目で彼女は語った。
「支部長たちと仲が良いんですか?」
フィルネは気になっていた質問を口にした。
「仲が良いわけじゃないわ。ただ……少し知っただけさ。知らなければ私も、他の大多数の奴と同じようにあのシースの馬鹿と離れるように画策したでしょうし」
遠い目を外へと向けたのを最後に彼女は部屋を出て行った。
フィルネは彼女が考える為の時間をくれたのだと知った。
活けられた花が身を捩るようにことりと動いた。
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