#3

 当然と言えば当然なのだが、萩森の様子は変だった。連れてきた女性は美麗さんと言い、華奢で色白で物静かだ。おしとやかとも表せるかもしれないが、心の中には誰もれないというような壁を感じる。まるで人形のようだ。話を合わせてその場に溶け込んでいても、どこか浮いている感じがする。派手派手しい服装がどうも似合っていない。なんだか葉月さんと似ている。

 何でもない仕事の話を聞きながら、と言っても俺は関係者ではない彼にペラペラ話すわけにはいかないが、苦労話が多かった。よく見ると、萩森の頭には少々白いものが混じっている。

「お前、ペース早いぞ。」

 昔は朝まで飲み明かしたこともあったが、俺が出演した”雨街”を観て、自分の才能の限界を悟ったと語っていた。悔しい話だが、俺ではなく椿に心打たれて。

 萩森が葉月さんと別れたのは、つい数年前だった。

 夫婦二人で幸せに暮らしているとばかり思っていたが、現実は違った。細々と役者を続けていた妻とデザインの仕事で社畜となっていた夫はすれ違いが続き、そのことに気付いた時にはもうどうしようもなかった、と。いつも通りに家に帰ったら、別れを告げる手紙と生活用品の全てを残して、葉月さんの姿だけが消えていたらしい。

 仕事なんてほっといて、もっと一緒にいればよかった。二人で幸せになっているはずだったのに。別れるなんてやだ……。あの時の弱々しい萩森は、初めて葉月さんへのわがままを言ったのだろう。


「あの、どうしましょう?」

「俺がおぶって連れ帰りますよ。」

「私、荷物持ちます。」

「ああ、助かります。

 まったく、もう若くねえんだから。」

 美麗さんに手助けしてもらいつつ、彼を店からほど近いアパートの一室に運び込み、ベッドに寝かせた。すー、すー、と酒臭い息を吐いていた。

「今日はありがとうございました。突然なのにお会いできて嬉しいです。」

「楽しかったです。これ、もしよかったらどうぞ。」

 美麗さんがお茶を出してくれた。

「では、頂いたら帰りますね。

 あの、ところで、馴れ初めって聞いちゃってもいいですかね?」

「馴れ初め……。

 私たちは何でもないですし、今日が最後なんです。」

「え?」

「本当ですよ。」

 このクソ大変な公演期間中の俺を誘ってくるほどあいつの調子を狂わせる女性、それが美麗さん。今日が最後? 互いをまだ全然わかっていない様子だったのに。萩森はもう葉月さんの時を忘れたのか?

「あいつがこんなに飲むなんて、葉月さんを手離した時以来ですよ。だから、」

「ハヅキさん?」

「知らないっすか、元奥さん。

 あれ以来、ずっとここで独り暮らし。男一人には広いっすよね。遊びまくってたのに、すっかり大人びやがって。」

「結婚されてたんですね。」

「あいつが好きで仕方ないって言うから、俺はずっとこっそり協力してたんっすわ。ついに、ついに、バレンタインに逆チョコと指輪渡して結婚して、まあ全部俺がプロデュースしたんっすけど。まったく、なにやってるんだか。別れたくないって泣いてたのに、結局別れやがって。優しいのもほどほどにしろよって、見ててイライラしますわ。俺が出てる作品は観てるらしいっすけど、じゃあ俺みたいに追いかけりゃいいのに。」

「星野さんもお優しいんですね。」

「はっ?」

 きついと言われることはよくある。しかし、まさか優しいと言われるとは。

「お二人、いいお友達なんですね。」

「まさか。腐れ縁っすよ、腐れ縁。」

 あ、でも、そういえば椿も優しかったって言っていた。



「私はもともと、美和ちゃんの学校の隣の学区に住んでた。六年生までは峯岸みねぎし和凛を名乗ってて、普通に私は『あいりちゃん』だった。

 あの時は、友達いっぱいいたの。だけど三年生の時、お母さんが癌になった。手術をして、なんとか今までどおりに暮らせるように頑張ってたんだけど、駄目だった。もう転移してることが分かって、なんとか延命するしかできなくて……。

 私はいつも家でひとりぼっち。だから、お父さんが遅くなる日は伯母さんに行くことになって、それで、花織とよく遊ぶようになった。そしたら美和ちゃんも来るようになって、三人で遊んだ。その代わり、私は学校の友達と公園に行ったりすることは減って、どんどん疎遠になっちゃった。それで、クラス替えとかもあると、気が付いたら

 四年生のクラスは本当に最っ悪だったな。放課は誰とも話さないで、ただただ本を読んでたの。そしたら『あいりって暗くない?』って言われるようになって。だけど、私には花織や美和ちゃんがいたから。平気だった。帰れば楽しいんだもん。

 美和ちゃんは大人しかったけど、案外喋ると止まらないタイプだったよ。花織の方には、よく懐いてたな。私より花織のほうが、美和ちゃんは気が合ったんじゃない?

 そうそう、だからだよ。正直、私は曙ってタイプじゃないんだよね。もっとごつくて男らしい人の方が好きやからさ。曙ってなんか、かわいらしいとこ、あるじゃん。

 花織がすごいたくさん曲とか教えてくれたんだけどさ、ちょっとノリについていくの大変だった。だってさ、ファンの一体感すごくない? ああいうの、私、入っていけないんだよね。花織と美和ちゃんは一緒に楽しそうだったから、合わせてたけど。でもね、ノリはなんか違っても、やっぱり、三人で歌ったり踊ったりするのは最高だった。

 その少し後だよ。

 それまでじゃ考えられないくらい陰鬱になっちゃった。いじめられてたっていうのは知ってるけど、それだけじゃないのよね。あんまりきちんと教えてもらってないけど、先生の愚痴なら死ぬほど聞いた。何でもかんでも花織が悪いことになっちゃって、ほんとはそんなんじゃないって。私が悪いんだ、私が最低なんだって自分を責めてばっかりだったから、そんなことない、花織は悪くない、って何度も何度も、言ってた。

 あのくらいの時にはね、美和ちゃんは勉強が本格的に忙しくなってきて、みんな揃うことはだんだん少なくなったの。天陽中学を受験するからって。叔父さんは医者で、美和ちゃんはそれを継ぐつもりだったんよね。

 美和ちゃんは本当は勉強が好きじゃなかったのよ。それなのに成績がどうこうとか勉強を頑張って医者になれとか、いつもいつもテキストの提出に追われて、脅迫でもされてるみたいだった。あの子も大変だったんだよ。まだ九歳とか十歳だったはずなのに。

 どんどん憔悴していって、五年生に進級するくらいの頃かな。めちゃめちゃ痩せて、手足とか棒みたいだった。かわいそうだった。

 私が六年生になる頃には、もう二人はボロボロだった。

 美和ちゃんは全然来なくなって、花織の自責もどんどんエスカレートしていって、リストカットとか、ODまでするようになった。そのあとは、もう分かるんじゃない?

 自殺を図ったっていう、あの事件よ。

 花織は学校の友達だった君を誘ってさかえに行った。

 ただね、君が見たよりもずっと、あの事件は悲惨だよ。

 君が飲み物を買いに行った隙に飛び降りたんでしょ。そうやって君には伝わってるのよね。形ばかりではあったけど一応捜査員としてあてがわれた警官が教えてくれた。あの時一緒にいた男の子には真実は教えないことにしたって。まだみんな小学生だったんだから。たったの十二歳だもん。うちの方から、うちで起こったことを君には背負わせないで欲しいって頼んだのよ。でも、もう君は知っておいた方がいい。君は花織の大事な友達だったんだから。君にとっても、花織は大事な友達でしょ。

 あの日死のうとしていた子は、本当はいなかったのよ。

 美和ちゃんは毎週土曜日に、朝から栄にある塾の授業を受けてた。最難関中学を受ける子のための講義ね。そんなことは露ほども知らない花織はあの日遊びに行った。私だって、美和ちゃんが土曜日に栄まで行ってたことは知らなかったの。

 私が勧めたのよ。せっかく卒業なんだから、何もかも忘れてはっちゃけて来たらって。学校の友達、一人くらいはいるでしょ。その子とどこかで遊んでおいでよって。その一人が君だよ。花織は君のことを一番の友達だと思ってた。君と遊びに行って、栄で一日楽しもうとしてた。君と花織が出掛けたのは日曜日だったね。その前の日、美和ちゃんは模試が返却されて、絶句してたんだって。毎日毎日夜中まで勉強してたもんだから、その時の模試は散々だったんだってさ。睡眠不足でテストなんか受けたって、点数取れるわけないよね。もちろん、美和ちゃんも例外じゃない。その時返ってきた模試の、前回ので成績下がっちゃったから、今度こそって頑張ってたみたいよ。

 もうその時の成績に絶望して、ただでさえ心理状態めちゃくちゃになってるのに。次の日フラフラと家を出ていって、いつも土曜日の講義に出るときと同じように電車に乗って、最後……

 そこに花織が遭遇したの。やばいところを見てしまったとでも思ったんじゃないかな。君はその時の美和ちゃんのこと知らないから、気付くはずもないよね。

 ここからはその時現場に居合わせた人に警察が聴取して分かったこと。いかにも精神を病んでいそうな子供が一人でたたずんでいたところに一人女の子がやって来て、『美和ちゃん!』って。駆け寄っていった。引き戻そうと必死になってたけど、美和ちゃんも全く動こうとしなかった。花織はなんとかホームの内側に引きずり込まなければならないと思った。ちょうどそこに電車が来たから花織は余計焦っちゃった。渾身の力を込めて美和ちゃんの腕を引っ張ったの。美和ちゃんをホームの内側まで引っ張ってぐっと掴んでさ、引き留めようとしたの。あの子なら、普通ならできたかもしれない。だけど極限状態になるとさ、人間って失敗するんだよ。美和ちゃんは痩せ細ってた。焦りもあるし、ミスしたんじゃないかな。腕を前に思いっきりのばして、手を掴んで、ぐっと力を込めたところまではいいけど、美和ちゃんの体重のわりに力が強すぎた。花織は体のバランスを崩しちゃって、前屈みに倒れた。花織はホームから落ちて、それで、そのまま轢かれた。

 美和ちゃんがその時助かった代わりに、花織が死んだ。花織は腕が取れて、首が変な方向を向いてたらしいよ。私は直接亡骸を見ていない。大人たちが、私には見せてくれなかった。花織の最期の表情は、私は知らない。

 花織は、あの子本人が自殺を図ったわけじゃない。美和ちゃんを助けようとしてた。美和ちゃんは死のうとしているとばかり花織は思った。でもね、後で美和ちゃんにも警察が聴取したらさ。美和ちゃんはホームのギリギリに立って、『ああ、ここから今飛び降りたら楽になれるのかな』ってぼんやりしてただけだった。あの子の意識は花織に引っ張られているときも想像の世界に行ってて、何が起こったのかちゃんと覚えていなかった。あの事件は、もし私が出掛けておいでだなんて言わなかったら、もしたまたま出くわすなんてことにならなかったら、起こらなかった。誰も死ななくて済んだ。

 美和ちゃんは事件のあと、精神病院に入ることになった。ずっと暮らしてた場所から遠く、空気が美味しい場所で、何もかも忘れた方があの子のためだからって。でも入院から一か月も経たないある夜、忽然と姿を消してた。美和ちゃんは、もうそれっきり。どこに行ったのか。生きてるかどうかも分からない。もし生きてたら、今は中三だよ。また受験生になって、来年、春が来たらどこかの高校に入学してるかもしれないね。

 私は一人になっちゃった。

 もう私には、誰もいない。

 いなくなってから、磯村の人たちみんなが集まって、話し合いが行われたの。まず美和ちゃんのことをどうするか。叔父さんは大学で教授を目指していたから、ていうか今も目指してるけど、家庭で事件があっただなんてことはあってはならない。そんな訳ありの人間は教授選には勝てないわ。だから美和ちゃんが消えたことに関して、表沙汰にしないことになった。美和ちゃんが将来生きていく場所を残しておくためにも。もしいつか、美和ちゃんがここに帰ってきたら、あなたの居場所はここにあるよって言えるように、あの子の場所を守ろうということになった。

 じゃあどうやってやるの?

 簡単な話だよ。誰かがなりすませばいい。

 その美和役に、私が選ばれたの。

 年齢や美和ちゃんのことをどのくらい知っていたかということを考えると、適役なのは私しかいなかった。でも私は和凛としてお母さんを守らなくちゃならない。見舞いをしたり、忙しいお父さんの代わりに検査の付き添いをしたり。だから、言うなれば私は、一人二役をすることになった。ただ、和凛としても美和としても社会で生きていくにはさすがに無理がある。そこで、お役所に登録する上では、峯岸和凛が失踪中ということにした。世の中ね、失踪するのは認知症のおじいちゃんおばあちゃんばかりじゃなくてね、むしろ十代が多いのよ。もっともらしい理由さえつければ、小六女児が突然消えました、と嘘をついても全然怪しまれない。あれこれ捜査されることもなく、普通に上手くいった。そうして、峯岸和凛は失踪中、磯村美和は今も普通に生きている、という状態が出来上がり。血の繋がった家族の内だけでは、私は和凛として居ても大丈夫。でも、それ以外の場所ではくれぐれも気を付けなくちゃいけない。

 今お母さんはかなり危ない状態なの。いつお迎えが来てもおかしくない。そんな時に、悠長に美和としてごく当たり前の生活をしてられない。朝丘高校の受験の件、許してくれないのは、私にも理由は分かる。あんまりたくさんの人と私が繋がると、美和ちゃんが帰ってきた時に何かと大変。居場所が変われば、それだけ仲良くなる人も増えるでしょ。

 高校受験の模試で駄目だったから、叔父さんの言う条件をクリア出来なかったから、もう私は今のままでいるしかない。私の居場所はここじゃないって今もずっと思ってる。でも、私が美和ちゃんとして生きて、美和ちゃんの場所を守ると決めたなら、あんまり我が儘を言っちゃいけない。だからって、いつ死ぬとも分からない自分の実の母親を放っておくの? そんなこと、出来ない。だったら、受験勉強の必要がないなら、もういっそ勉強なんか捨てて、お母さんのところに行ったっていいでしょ。美和ちゃんだって、それは許してくれると思う。

 学年が一つ下になったって、本当ならもう十六なのに中三でも、そんなことはどうだっていい。家の事情でいろいろあってずっと家にいるって説明して、別人が美和の名を騙ってることは巧く隠した。美和ちゃんが六年生の一年間は、私はとにかく家で勉強して、なんとか天陽中学に入った。一年間他の子達よりも長く勉強できるわけだから、まあ簡単に言っちゃえば中学浪人したみたいなもんなのよね。大学で浪人する人は少なからずいるし、高校浪人てのも稀にあるでしょ。私は小学校の勉強で出来ないものはなかったの。ちょっと自慢だけど、こう見えて勉強はどの科目もできたし、小学校の通知表はほとんどが二重丸だった。始めから私が美和ちゃんとして生まれていたら何もかも違っただろうね。

 私は、美和ちゃんの場所を守ってるの。花織と、美和ちゃんと、私の、思い出を守ってる。」

 この超長台詞は一発で撮影した。完成した映画ではもちろん編集が加えられているが、それでも表情、声色、纏うオーラが「君」そのものだった。ずっと「君」の後ろに座って聞いていて、それに対する返事は短いけど、肝となる言葉だった。

「どういうことを想っていて、何が好きで、何を大切に思ってるか。それが君なんだ!」

「今、決めよう。

 僕は今後、君のことをなんて呼べばいい?

 美和さんと言えばいいのか? それとも和凛さんと言えばいい? それか、どちらでもない、別の呼び方がいい?」

 俺は椿の言葉を神妙な顔をして聞いていただけで、受け止めて返すことができていない。力不足だ。今の俺にだって、まだ満足には至らない。

「ジョン! 撃て、殺せ、頼む!」

「むりだ……!」

「エマを、エマを守れ!

 もう、もう、殺したく、ない!」

 痛みに絶叫して、息絶えて、そして。

「苦しかったよね。」

 何も言わず研究室に籠るヘンリーに対し、エマは不満だったはずだ。何のために何をしているのか、なぜ何も言わないのか。この物語の中で、エマはちっとも変わらない。エマはお嬢様ではあるが、家に辟易していた。

 俺にとって、エマと過ごす時は理事への憎悪を忘れられる至福の時間だ。俺にとってのエマは、単なる婚約者ではない。単なる恋愛でもない。それが俺だけでなく、エマも同じだとしたら。ヘンリーとの時間は、彼女の心が解放される唯一の時だったとしたら。

 ルーシーと二人でのデュエットでは、二人は全く違う内容を言っている。ルーシーはどこか欠けている少女で、性的な目で見られることを仕事としていて、でも、俺はそんな気持ちは持っていない。ルーシーにとってもヘンリーは特別な存在。ルーシーはヘンリーに己に欠けているものを見出して、彼女と俺は、二人の世界に幸せに照らされた桃源郷を見出していた。

 エマは変わらない。ヘンリーの様子がおかしくなっても、北の空に年中浮かんでいる北極星のように、希望を持ち続けていてくれたんだとしたら。ヘンリーが侵されていっても、その全てを受け止めてくれていたなら。

 そうか!

 だからだ。椿だからだ。「君」がエマとなったから、一つの体で二人生きることをわかってくれたんだ。

 なんだよ、あいつ、全部私情じゃねえか。役柄が憑依しているようにも見えるけど、全部あいつの気持ちじゃねえか。

「ふっ」

 なんだか笑えてしまう。

 椿だって、どんな役でも椿なのかよ—―

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