第28話 峠道

「……ここもか……」


荒木は、険しい面持ちで呟いた。山を抜け、ようやく人里に出たと思ったのも束の間、またしてもおぞましい光景が広がっていた。いくつもの家屋が黒焦げのように崩れ落ち、あちこちに黒ずんだ血痕が散らばっている。鼻を突く腐臭はひどく、焼け焦げた藁の山や転がる屍の周囲に、カラスが群がっているのが見えた。


おキヌは思わず鼻と口を覆いながら、言葉も出せずにいる。木々を抜けてようやく人里に着いたはずなのに、この惨状では頼るべき村人もいない。むしろ、またしても化け物の襲撃痕を目の当たりにするだけだった。


「地獄は何度見ても見慣れるものではないのですね……」


おキヌが蒼白な面持ちで言うと、荒木は虚ろな目でうなずく。

「これでは……国中の民が……いずれ……」


荒木はまだ本調子とは言えない体が急に重くなった気がした。失った腕の痛みが肩先にじわじわと残り、少し歩くたびに鈍痛が走る。それでも、この凄惨な光景に胸が軋んで仕方ない。


やがて、おキヌが「荒木さま、あれを」と指をさした。田んぼの真ん中に、一頭の馬が立ち尽くしている。毛並みは艶やかで、立派な蔵を背負っているように見える。どうやら主人を失ったのか、こちらをじっと見ているようだ。


「ほう、こんなところに」


おキヌは田んぼの真ん中を見やりながら、「荒木さま、一体誰の馬なのでしょう?」


「分からぬが、あの蔵を見るに、さぞ身分の高い御仁が乗っていたのでろう。ついにそれがしのような下っ端ではなく、藩の中枢が動いたということか。おそらくは視察に来ていたのだろう。これほど城下に近い村が襲われたのなら、上の者が黙っておらぬはずだからな……」


荒木がそう推測すると、おキヌは馬を見つめながら「もしあれに乗って城下を目指せれば、日が暮れる前に何とかなるかもしれませぬ」と呟く。荒木も同意し、すぐに馬を捕らえようと田んぼへ踏み込んだ。


「よし、来い。指笛でも吹けば……」


荒木は片腕を失っているため、普段どおりには動きづらい。それでも笛を吹いたり、手招きしたり、いろいろ工夫をする。だが馬は警戒しているのか、鼻息を鳴らし、すぐ走って逃げ去ってしまった。荒木は追いすがれずに、悪態をつくしかない。


「くそっ……一介の侍など相手にせぬというのか……」泥だらけになった袴を手で払いながら言った。


二人は結局、馬を諦めてその場を離れた。死臭のする農村を通り抜け、城下へと続く街道を探した。あたりは荒れ、どこもかしこも焼け落ちた痕跡ばかり。風が吹くたびに腐敗臭が絡みつき、胃が捩れるような不快感が押し寄せてくる。


「おキヌ殿、こっちだ」なんとか荒木が道の見当をつけた。


しばらく進むと、森の木立が濃くなる峠道に差し掛かった。陽が傾きかけており、木漏れ日も薄暗い。


「荒木さま!!」


突然、おキヌが荒木を強く突き飛ばす。


「なっ……!?」


荒木が尻餅をつくと同時に、足元の仕掛けが弾け飛ぶように宙へ舞った。細い網のようなものがバネ仕掛けで木の上に張られ、ぱんと音を立てて絡まる。


「これは……罠?」


荒木が驚くと、おキヌは小枝に触れて罠の残骸を確認しつつ、「恐らく、化け物を捕まえようとして仕掛けたのでござりましょう。ご覧ください、ここは狭い峠。城下へ向かうにはきっとこの道を通らざるをえませんから」と言った。


「にしても、この罠の大きさでは……あの巨大なやつを捕らえるのは無理だろうに。あまりにも小さい」


「無理もありませぬ。仕掛けたお侍は実際に化け物を見ておらぬのですから」


「そうだな。我らとて、実際に見るまでは……」


荒木が呟き終わる前に、おキヌが「荒木さま、こっちへ……」と草むらを示す。ふと見れば、刀が斜面に刺さっていた。もしかして、と近寄ってみると、そこには複数の侍たちの屍が幾重にも重なっていた。


「う……!」


荒木は息を呑む。100は下らぬ数の死体が散乱しているようで、そのまま積み重なって腐り始めている。顔の判別すらつかない者が多いが、甲冑らしき胴や藩の紋が付いた裃が混じっているところを見ると、相当な数の侍で構成された迎撃隊がここで全滅したらしい。


「まさか、藩が軍を出していたのか……」


荒木は呆然とつぶやき、地面に落ちている合間を覗き込む。ふと、見覚えのある顔を見つけた。


「……林原さま……?」


頬が強ばり、声が裏返る。そこにあるのは、荒木を化け物退治の任務につかせた張本人、家老・林原の無惨な遺体だった。よく見ると首は肌一枚で辛うじて繋がっているが、すでに干からびたように血を抜かれており、どこかミイラじみた醜い姿になっている。

一縷の望みをかけていた人物が、こうも無残に倒れ、森の中で放置されている光景に、荒木は衝撃と怒りで心が揺れる。


「そ、そんな……林原さまが……。これほどの侍を集めても……敵わぬとは……」


おキヌも黙り込み、血に染まった侍の遺体へ視線を落としている。痛ましく、言葉にならない。昼間でも木々が覆う森はすでに夕闇に沈みかけ、あたりの空気が急激に冷えてきた。


ふいに――


“フシュー……”


聞き覚えのある呼吸音が、森の奥から微かに聞こえたような気がする。

荒木の心臓が跳ね上がる。すでに陽は傾き、森の中が暗くなり始めている。こんな場所で再びあの化け物と遭遇したら、どうなるか――二人の背筋に冷たいものが走る。


荒木は震える声で「おキヌ殿、こちらへ」と言って、自分の背後におキヌを立たせた。


静寂は不気味な波紋となって荒木の心拍数を限界まで上げていた。


フシュー


もう一度、聞こえた。荒木とおキヌは顔を見合わせた。近い。二人ともいつこの身が引き裂かれてもおかしくない事態であることを悟った。脂汗が荒木の頬を伝う。


次の瞬間、目の前の草むらの陰から、闇を切り裂いて赤い閃光が走った。




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