ある絵描きの旅立ち
透水
第1話
階下の玄関扉が開く音は、ほぼ反射的にフィリエの身を震わせた。馬車の車輪と蹄の響きが遠ざかり、母の声と、母と同じくらいの高さの声――女性の声が、くぐもって聞こえてくる。
フィリエの体は、玄関扉の音が聞こえてきた時点でとっくに、凍りついたように固まってしまっていた。精いっぱい耳をこらし、こらしたところではっきりするはずがない二人の会話を、なんとかして解読しようとしていた。
木造の家は古く、フィリエのいる二階部屋にも、容赦なく隙間風を呼び込んでいた。しかし、彼女が今一番気にしている、母と誰かの会話までは、届けてくれはしなかった。
いつもの、ただの母の知人であってほしい。フィリエの
だが、フィリエの願いは叶わなかった。玄関先にとどまっていたふたつの声が、一階の居間あたりから聞こえるようになり、とうとう自分と
「ここが娘の部屋ですの」
「なるほど。才ある若者の工房にお邪魔できるなんて、光栄です」
「まあ、工房だなんて。狭いですし、薄汚れていますわ」
「お母様、絵描きというのは総じて、そのようなものですよ」
「そうですの? くれぐれも足元にはお気をつけて。フィリエ、お客様よ」
おそるおそる、自室の扉を振り返る。視界に入った扉が、遠慮のかけらもなく開け放たれた。開けた当人の顔が
「ふふ、まさにこれは工房そのものだ。とてもいい。はじめまして、フィリエ。わたしはアン・メイオール。きみと同じく絵描きの者だ。アンと呼んでくれていいよ」
続けて現れたその女性は、女性にしては変わった口調で、ひどく馴れ馴れしく話しかけてきた。
こうやって母が連れてくるのは、今まではほとんど男性で、ずっと年下であろう自分に対して、堅苦しい語調で語りかけてきたものだった。そして、母ほどではないにしろ、この部屋の有り様に、少なからず苦言を呈したいような声色をしていた。
このアンという女性には、それらが一切なかった。身なりは整っている
「あ、そこには……」
使い物にならなくなったペンを放り投げたあたりだから危ない、と言うことすらままならなかったが、アンは悠々と歩を進めた。まるで、そこに足を取られる何かがあるのをわかっていたかのように。
フィリエの部屋には、狭苦しい寝台と、窓と向かい合った机のほかに、家具らしいものは何もない。反対に、床にはくしゃくしゃの紙が散乱し、その隙間を埋めるように、くたびれた表紙の本が、いくつか投げ出されていた。
こんな惨状の中に、迎え入れた客が、抵抗なくフィリエに近づいていくとは、母親も想像していなかったのだろう。彼女はアンという女性に、泥沼を嬉々として突き進む、奇人を見るような眼差しを送っていた。
「あの……気をつけてくださいな、メイオール様」
「平気です、慣れてますので。さてフィリエ、今描いてた絵を見せてくれないかな?」
アンはそう言ったが、机上の絵を、彼女はすでに見下ろしている状態だった。絵の評価ならすぐできるのに、彼女はそれをしない。
この人は、
「……どうぞ」
指先まで冷え込むような日にだけ口から吐き出される、白い息のようにはかない声が、フィリエの唇からこぼれ出た。同時に、手に取った絵をアンに差し出す。彼女は口角を上げた
「うん、間違いなくあの絵だ。この緻密さ、練習だけで得られるものじゃない。天賦の才とはこのことだね」
その褒め言葉については、今まで聞いたのとあまり変わり映えしなかったので、フィリエは曖昧な相づちを打つだけだった。
あまりにも細かく、密に対象物を描くのが、フィリエの得意とする手法だった。アンの手にある絵は、机の瓶に挿された、一輪の花を描いたものだ。まだ途中ではあったが、花弁に通るかすかな筋、葉の全体を走る葉脈まで、繊細に描き落とされている。
フィリエはペンしか
「見事だ。ところで、絵具の匂いがしないが……色は塗らない主義なのかな?」
「は、はい。わたし、は……線だけの絵が、好きで。塗らなくても、売れるのなら、それで」
「数をこなしたいほうなんだね、わかったよ」
すんなり引き下がったアンに、フィリエは少しばかりがっかりしたが、食いついたところで、そのあとどうなるかは目に見えていた。そんな余計に金のかかることはできない、その分も援助してくれるのか、と母は客に詰め寄る。そこまですると言い切った客が現れることは、ついになかった。
固い紙に
この家は窮屈だ。時々、胸の奥を締め上げられるような気分になる。だが、ここを出られたところで、日々の糧のためだけに絵を描くのはきっと同じだ。むしろ、環境が大きく変わって、描くことに支障が出るかもしれない。そうなったら元も子もないのだから、わたしは今まで通り、ここで絵を描いていくべきなんだ。
同じように売れるため、同じような絵を描いて暮らす。小さな家具や小物、植物だけを、ただひたすらに――
「お母様、何度も聞いた台詞で耳が痛いでしょうが、
目を丸くしたのは、フィリエとその母親と、どちらもであった。何度も聞いたどころではない、二人にとっては初耳の申し出だったからだ。
「メイオール様? その、塾とおっしゃいましたか? メイオール様は、画商ではなく?」
「はい。
絵の学び舎に通う。そんなことを、フィリエは考えたこともなかった。何をするにしても、母が今以上の費用を出すことを許さなかったのが、一番の理由であった。
「何枚か作品を拝見しましたが、彼女は屋内の静物画しか描かれていないようでした。だから私は彼女に、外の世界も描いてほしい。いえ、私たちの知る限りの、あらゆる技法に触れ成長してほしい。そう思うだけの力を、私はこの絵に感じるのです」
自分と同じ、絵を描く人たちと、絵の話ができる。それは、画商から絵の買い取りを申し出られるより、ずっと強くフィリエに響いた。自分の知らない絵の描き方が、一体どれだけあふれているんだろう。
だが同時に、世界を描いてほしい、とまで言ってのけた、アンの希望には絶対に添えないと、落胆もしていた。
「……メイオール様も、勝手なことをおっしゃるのですね」
フィリエにとって、その理由は慣れっこだった。何も知らないくせに、などと怒りもわかない。
「フィリエは病気なのです。生まれつきの。あなた様の顔も、きっと満足に見えていないはずですわ」
体ごと母のほうを向いていたアンが、またこちらに向き直った。ぼやけた彼女の顔が、どう変わったのかはわからなかったが、自分の絵を眺めていた時とは違う、ということだけはわかった。
「そんな子に、世界だなんて。むごいことこのうえないですわ。それにその子はいつも、まるで机にかじりつくようにして絵を描くのです。ええ、描く物を見る時もそう。とても不気味ですわ。塾なんて、たくさんの人が集まるところに行ったら、どんな目で見られるか」
娘にかける金はない、という真の理由は告げないまま、母親の影がわずかに縮んだ。廊下に出て、アンの通り道を作ったのだ。
「どうぞ、お引き取りを」
塾生になるなど、母にとってはただ金を捨てるだけのように映るのだ。さらによくなった絵のおかげで、元を取れるだけのお金が転がり込むかもしれない、なんて考えもしない。いいや、母はそんな賭けをしたくないのだ。
アンは何度か、フィリエとその母親の顔を見返した。フィリエは、母が静かに、しかし鋭くまくし立てた時から、アンから目を背けて、瓶の花を眺めていた。自分にはもう、何も言うことはない。言ったところで、画商でもないただの塾生に、何ができるというのだ。
「……一枚、もらっても?」
「どうぞ」
アンのその声は、フィリエに向けられていた。しかし答えたのは母親だった。迷った様子も見せないまま、アンは丸まった紙のひとつを、床から取り上げた。
「見せてくれてありがとう。その絵も、完成が楽しみだよ」
もう一度フィリエに語りかけて、アンは工房から去っていった。
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