俺は彼女を抱くわけにはいかない

生出合里主人

試練の始まり 俺は女性を抱いたことがない

第1話 髪の長い女性

 2027年7月5日 月曜日



歩夢あゆむ、エッチ、する?」

「ええっ」



 俺は今、生まれて初めて女の子から誘われている。

 こんなにかわいい子が俺のものになるなんて、信じられない。


 俺は今まで、女の子にモテたことがなかった。

 女の子と付き合うなんて、想像することも許されないと思っていた。


 でも、彼女は特別だ。

 だって彼女は、俺だけのために存在しているんだから。


 彼女は俺が望むことならどんなことでもしてくれるだろう。

 あんなこともそんなこともやりたい放題だ。


 湯上りの彼女は、バスタオル一枚。

 あの薄い布を下ろしたら、白い肌を隠すものはなにもない。


 この機会を逃すなって、俺の本能が叫んでる。

 彼女を抱きたくて、体がうずく。


 でも、できない。

 そんなの、ダメなんだ。


 俺は彼女を抱くわけにはいかない。


 たとえ彼女がこんなに魅力的でも。

 彼女がこんな風に誘惑してきたとしても。


 俺は本能の言いなりにはならない。

 理性があれば性欲は抑えられるはずだ。


 この戦いだけは、絶対に負けるわけにはいかない。

 どんな試練がやってきても、必ず乗り越えてみせる。



 それにしても、なんでそんなにかわいいんだよ~っ。

 鉄壁なはずの意志が、もはや崩壊寸前だーっ!






 2027年7月1日 木曜日



 夏ってやつはよー、なんでこんなに暑いのかなー。

 黒ずんだアスファルト、バクテリアの臭い。

 さっきまで降っていた雨のせいで、やたら蒸し暑いじゃねえかよ。


 心の中で毒づく男の名は、日比野ひびの歩夢あゆむ

 二十八歳だが、ややたれ目の童顔は学生にしか見えない。

 アイロンをかけたことのない形態安定シャツはヨレヨレで、スラックスは折り目が消えかかっている。



 通勤に使っている、いつもの道。

 歩夢は池袋のサンシャインシティにあるハンバーガーショップに勤めている。

 今日は早番なので午後八時過ぎに上がり、有楽町線の東池袋駅へ向かう。


 高層ビルの間を通る高速道路。

 その下を横切る長い横断歩道。

 歩行者用の信号が鼓動のように点滅し、血の色に染まる。

 突然歩みを遅らせる歩夢。

 迫っていた車がスピードをゆるめるのを見て、しかたなく小走りになる。


 歩夢の左手に現れたのは、ビルの谷間の小さな公園。

 影とネオンとゴミに囲まれた、清潔感は皆無の公共施設。

 夜の帳が下りてからは、大人向けのたまり場となる。



 チッ、目ざわりなカップルだな。

 そんな目の前でイチャイチャされたら、余計に暑苦しいじゃねえか。


 他人を蹴落としてでも恋人作って、自分を曲げてまで相手に合わせて、必然的な別れを災害にでもあったかのように嘆いて。

 そんなことしたって、なんの意味もないのにさ。

 恋愛なんて免疫力の高い子孫を作るために、できる限り自分と異なる遺伝子を探す作業にすぎないんだから。


 遺伝子は種の保存のため、体内に恋愛をしたくなる物質を分泌させる。

「フェネチルアミン」が一目ぼれを誘い、「テストステロン」が性欲を高め、「ドーパミン」で夢中にさせて、「オキシトシン」が幸福感を与え、「バソプレシン」が愛着を抱かせる。


 そういった分泌物はあくまで出産と育児のためにばらまかれるから、効果が続くのはせいぜい三年だ。

 恋愛の始まりも終わりも、しょせんは遺伝子が決めてるってこと。

 そんな恋愛に一喜一憂する人間たちって、なんて哀れな存在なんだろう。


 恋愛で人生を楽しもうとするのも大間違いだ。

「アドレナリン」の増加が判断力を鈍らせるし、「セロトニン」の減少は不安をあおる。

 恋愛の最中って、幻覚や薬物中毒に近い状態に陥るらしい。

 なにかを成そうとする人間にとって、恋愛なんか障害でしかない。


 恋愛の目的は、あくまで子孫繁栄。

 子供を作るつもりがないなら、まったくのムダ。

 子供が欲しければ異性と契約でも交わして、合理的に子作りしたほうが手っ取り早い。


 人前で堂々とキスをする君たちは、何千万という細菌を交換しながら、相手の臭いをかいで遺伝子の相性を確かめているわけだ。

 そういうこと、わかったうえでチュッチュしてるのかなあ。

 君たちは遺伝子の奴隷なんだよ。

 発情期のネコと同じだよ。



 典型的なネコ背の歩夢が、大また歩きで公園の前を通り過ぎていく。

 折りたたみの傘とティッシュしか入っていないビジネスリュックが、なで肩の上で慌ただしく揺れている。



 ずっと頭を下げていた歩夢が、ふと顔を上げた。

 視線の先には、髪の長い女性の後ろ姿。

 女性が横を向くと、彼は再び頭をたれる。


 しかしまた別の女性を目で追っていく。

 髪型はやはり、ロングのストレート。

 顔が見えないので、回り込んで確かめる。

 結果は、自分を嘲るような苦笑い。



 女性の知り合いが少ない歩夢が、顔見知りの女性とすれ違う確率なんてゼロに近い。

 それでも彼は毎日、髪の長い女性に振り返る。


 彼はそんなムダなことを、もう十二年間も続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る