テセウスの矛盾

吉太郎

第1話 テセウスの矛盾

 ギリシア人の著述家、プルタルコスは以下のようなギリシャの伝説を挙げている。

『ギリシャ神話の英雄テセウスがアテネの若者と共にクレタ島から帰還した船には30本の櫂があり、アテネの人々はこれをファレロンのデメトリウスの時代(紀元前317年~紀元前307年)にも保存していた。このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていき、倫理的な問題から哲学者らにとって格好の議論の的となった。すなわち、ある者はその船は最早同じものとは言えないし、別の者はまだ同じものだと主張したのである。』

 以上の伝説を挙げた上でプルタルコスは「全部の部品が置き換えられたとき、その船が同じものと言えるのか」という疑問を投げかけている。

 しかし、そもそもこれは疑問にするほどの事だろうか。元々「テセウスの船」を構成していた部品が新たな部品に置き換えられていく。純粋に「テセウスの船」と呼べていたものに不純物が混じり、姿は同じであれそれは完全な別物へと変生していく。そこにあるのは最早、同じとはお世辞にも言えないただの「似た船」ではないか。

 これは人間に当てはめることもできる。

 例えばここに一人の人間が立って居るとする。

 例えばその人間は「三塚葵みちづかあおい」という女性だとする。この時点で彼女は何の外的・内的影響を受けていない純粋な「三塚葵」だとする。

 しかし例えば、彼女が不運にも事故に遭う、ないしは重い病に冒され、他者からの臓器・皮膚移植、輸血等を受けなければ死に至ると宣告されたとする。

 重ねて例えば、その移植・輸血等を彼女、ないしは近親者が承諾し、移植・輸血等によって彼女の命が救われたとする。

 ・・・さて、ここに一人の人間が立っている。

 その人間は「三塚葵」という女性で姿形は本人そのものである。

 だが果たして、そこに立つ人間は純粋な「三塚葵」であると、そう言えるのだろうか――。



「・・・塚さん」

「・・・・・んん」

「・・・三塚さん、起きてください!」

「・・んんん?」

 聞き慣れた呼び声に呼応するように、重い瞼が静かに上がる。直後、眩い光が目を襲い、せっかく上がった瞼が閉ざされる。

「ちょっと、そろそろ着きますって!」

「・・・分かったから、起きるから、静かにしてくれ」

 だるい体にむち打って伸びをしつつ、再度重い瞼を開ける。そこは車の中で、どうやら郊外の住宅街の狭い道路を走っているようである。

 俺は助手席に乗っていて、背もたれに頭を委ね眠っていたらしい。そこを隣で運転している後輩・野良倉に起こされたようだった。

「これから事件現場に向かうんですから、シャンとしてくださいよ」

「お前に言われなくとも分かってるよ」

 右手で脇腹を小突く。野良倉は「運転中ですから!」と体を捩った。

 ともあれ確かに、これから事件現場に向かうのに居眠りとは、少し、というか大分気が緩んでいるようである。俺は両手で顔を叩き、姿勢を正した。

「現場はこの先か?」

「はい、八王子の住宅街だと」

「そうか・・・。それで?今回の事件もアイツか?」

「ええ、どうやら。ケンさんが言うには『ヤツの仕業で間違いない。見れば分かる』と」

「またか・・・」

 俺は大きめな溜息を吐く。実は俺がつい居眠りをかましてしまったのも、その『ヤツ』が原因なんだが・・・。

「あ、現場はそこですね。近くに駐めます」

 気づけば前方に大きな人だかりと警察車両が数台駐まっているのが見える。そこは住宅街の細い道の先、鉄道が通る線路の下に設けられた歩行者用の小さなトンネルだった。


 俺と野良倉は近くに車を駐め、人だかりと立ち入り禁止テープを超えてトンネルの前に立つ。車一台やっと通れるくらいの幅のトンネル内部はブルーシートで覆われていた。

「お、やっと来たか」

 トンネルの側に立っていたトレンチコートの男が歩み寄ってくる。

「ケンさん、お疲れ様です」

 俺と野良倉が頭を下げるトレンチコートとひげ面が特徴的なこの男は野口健作警部、通称ケンさん。警視庁トップの検挙率を誇るベテラン刑事である。

「今回の事件もヤツの仕業で間違いないんですか?」

「恐らく、てか確実だな。まあ見れば分かるさ」

 こっちだ、とケンさんに案内されたのはブルーシートの奥。俺は手袋をはめつつシートの内側へと入っていく。

「これは・・・・。」

 瞬間、言葉を失った。

 鈍く光るトンネル内の蛍光灯が照らしだしたのはアスファルトの地面に広がる血溜まりとその中央で椅子に縛り付けられた人だった。・・・・いや、人の形をしているだけでそれが人間であるとは思えない程に椅子に縛られたソレにはゴム製の細い管やらプラスチック製のパイプ、注射器のようなものが突き刺さっていた。胴体、手足、顔に頭、果てには眼球、耳、局部にまで痛々しく突き刺さっている。そしてそれらからは未だに血がコポコポと滴っていた。

「・・・人間ってのは、こんなに血があるもんなんだな」

 この場において不謹慎ともとれるケンさんの発言を皮切りに、野良倉はトンネルを飛び出した。直後、外から「うっ・・・」とえずくような声が聞こえてくる。

「これは、酷いですね」

 俺も吐きそうになるのを堪えつつ、尚も見たくない現実を見続けていた。

「ああ。常人にはできない所業だよ。アイツ以外にはな」

 ケンさんは「ほれ」とトンネルの壁を見るように促す。俺は地獄から目をスライドさせ壁面を見た。


『腐りきった毒気をぬきましたです』


 赤い(恐らくは血)字でこれでもかと大きく書かれた意味不明な文章。日本語的な違和感と柄も言えぬ不快感。確かに、これはまさしくヤツの仕業である。

「”マッドドクター”・・・!」

 俺はその名をつぶやいて、拳を握りしめた。


 去年のクリスマスイブ。その事件は起こった。

『頭が悪かたみたいだす』

 横浜の閑静な住宅街にて、池田遙人さん一家が頭を割られ脳が取り出された状態で発見された。亡くなったのは家主の池田遙人さんとその妻、そして八歳の娘の計三人。現場の壁には意味不明な文書が血で殴り書きされていた。神奈川県警は総力を挙げてこの凶悪事件の犯人を捜したが見つからず、その間に北海道、仙台、大阪、名古屋で同様の猟奇殺人事件が4件発生した。

 事態を重く受け止めた警察庁は警視庁に全国の都道府県警からなる特別捜査本部を設置。警察の威信を賭け捜査に当たるものの、それをあざ笑うかのようにヤツは殺人を続け、今現在にまで至る。

 その狂気的な殺害方法と毎回現場に残されている奇妙なメッセージからついたあだ名は『マッドドクター』。ヤツが何者なのか、何の目的があってこんなことをしているのか。未だに何も分かっていない。


「死亡推定時刻は午前二時頃、第一発見者は早朝ランニングしてた大学生だ。今のところ決定的な証拠や不審人物の目撃情報は出てきてない。これまでとまったく同じ状況だよ」

「そうですか・・・」 

 しばしの沈黙の後、俺とケンさんは椅子に縛られた遺体に手を合わせて、トンネルから出た。外の規制線には多くの人が集まりマスコミや住宅街の人々の喧噪に包まれていた。

 トンネルの脇には野良倉が青い顔で座り込んでいた。俺が「大丈夫か?」と声を掛けると、野良倉は覚束ない足で立ち上がった。

「よく平気ですね、三塚さん。俺、何度見ても慣れなくて・・・」

「あんなのに慣れなくて良いんだよ。その反応が正しい。体調は大丈夫か?」

「はい・・・、すいません・・・。」

 俺と野良倉のやりとりを見て、隣のケンさんがフフッと笑った。

「? どうしました?」

「いや、三塚がちゃんと先輩としてやれてるなーって感心してたんだよ。昔は俺のケツについて回る子犬だったのに・・・。成長したな」

 わしわしと、まるで息子を褒めるように頭を撫でてくるケンさんの手を、俺は「やめてくださいよ」と照れくさくて払った。ケンさんは残念そうにしながらも、後輩の成長を喜ぶような笑みを浮かべていた。

「あ、そういえば。お前、嫁さんとうまくやれてるか?」

 あまりにも唐突にそんなことを聞かれて、俺はつい回答に困ってしまった。正直、うまくやれてるかと聞かれれば答えはノーだ。最近はとっくに冷え切っているような気さえする。まあその原因は仕事に託けて全く自宅に帰らない俺が悪いんだが。

 そんな、どこかバツの悪そうな様子を察したケンさんは俺の背中をバンと叩いた。

「嫁さんはお前のことを心の底から心配してると思うぞ。事件に集中するのもいいが、ちゃんと家に帰ってやりな」

「・・・はい」

「よし!それじゃあ俺は本庁に戻らなきゃならんから、この辺で。また飯でも行こうぜ」

 「じゃあな」と後ろ手を振って、ケンさんは颯爽と行ってしまった。なんとなく現場を見て沈んでいた心が温かくなったような、そんな感覚を覚えた。

「相変わらず豪快な人ですね・・・」

 野良倉がそんなことを口にしたとき、スーツの懐からブブッと振動が聞こえる。俺はすぐに懐にしまったスマホを取り出して見ると、見覚えのない番号から電話が掛かってきていた。

「電話ですか?」

「ああ、見慣れない番号だ」

 俺はすぐに電話に出る。

「もしもし?」

「あ!すみません、こちら三塚颯太みちづかそうたさんのお電話でよろしかったですか?」

 電話口から聞こえる男の声はかなり焦っていた。俺は「そうですが・・・」と怪訝に答える。

「私、都立総合病院の者です。実は先程、奥様の三塚葵さんが事故に遭われまして、こちらの病院で今緊急手術を受けてます。すぐこちらに来ていただけますか?」

 電話口の男が話し終える前に、俺はスマホを握りしめて走っていた。

「ちょっと、三塚さん!」

「悪い!車借りる!」

 規制線、人だかり、マスコミの壁を越えて、半ば突っ込むように車に乗り込むとすぐさま都立総合病院へと車を走らせた。

 法定速度をギリギリ超して住宅街を駆けていく。そんな病院へと向かう最中。俺の頭には妻と出会ったあの日の光景が浮かんでいた―――。



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