#31 毒竜襲来


 ドラゴン。それは、最強の魔獣。

 ただでさえ出逢えば死が約束されているような存在である魔獣、その最強格。

 幾多もの伝説に残されるは、破滅の記録。英雄譚でさえ、一筋縄では倒されない怪物。

 圧倒的な巨躯。あらゆる攻撃を弾く鱗に、すべてを吹き飛ばす翼。その息吹は全てを溶かし、犯し、滅ぼし尽くす。

 果てしない脅威。絶望の体現。——災害そのものの存在。


 それが、目の前におりました。


「…………」

 毒々しい紫色の鱗に覆われた、人間など何人もまとめて簡単に丸呑みできてしまいそうなほどの巨躯。

 唖然とするわたくしに、赤い髪の女性——ヴィクトリアさんが叫びました。

「逃げろ、皇女ッ! ……アタシたちが時間を確保する、その隙に」

 瞬間、暴風が吹き荒れます。飛ばされないよう踏ん張りながら腕で顔を隠し——僅かに開けた目で、何が起こったかを理解しました。

 ——翼をはためかせたんだ。

 ただ一度の羽ばたき。それが、人を軽々と吹き飛ばしかねない風を生む。

 約束された死。それに対して私は——。


「何を……してるの?」

 呆気にとられたように私を見るスミカ先生に、答えました。

「武器を、構えてるのですわ。——ノブレス・オブリージュ、ですの」


 ノブレス・オブリージュ。高貴なる者の責務。

 何処のだれが言った言葉か、もはやその語源を知るものはいません。しかして、その言葉の表す精神は長く受け継がれております。

 ——高貴なるものは、それに相応しい責務を追う。

 ——王は、すべての人民の模範たれ。

 ——無様な逃避より、栄誉ある戦死を。


「この精神を教えたのは、他ならぬスミカ先生ですわよね?」

 そう告げると、彼女は息をついた。

「大事なことを忘れてるわよ」

 言いながら——防御魔法を張りました。

 と、同時に風圧が私を襲いました。


「そういうことは、普段から意識付けるもの。そして、その言葉は力ある人間が言うからこそ、輝くの」


 ドラゴンに向かって両手で構えた短刀の切っ先は、かたかたと震えておりました。

 荒く息をつく私の視線の先。——ドラゴンの尾が、スミカ先生の体を吹き飛ばすのを、私は見ていることしかできませんでした。


 爆発するような音。それは凄まじい質量を持つドラゴンの尾の先が、音を置き去りにしたときの音。

 とてつもない重さのものが、とてつもない速さで迫り——彼女に、衝突したのです。

「スミカせんせ——」

 呼びかけようとして、しかしそこにはすでにはいませんでした。

 破壊の跡。きっと、即死は免れなかっただろう。

「——……ッ」

 涙すら流す隙はなく——ドラゴンは、私を見て。


「どうした! アタシが相手だッ!」

 ヴィクトリアさんが怒鳴りました。その視線は、私を睨みつけていて。


 私は、ただ膝を折りました。

 圧倒的な死の気配、恐怖。それだけではありません。

 人知の及ばぬ災害に、自分の存在は無力。いたところでなんの役にも立たない木偶の坊。

 その無力感に、腹が立ちます。されど、何をしようとも邪魔になります。

 ——戦い死ぬことすら許されぬことに、もはや怒りや悲しみすら超え、ただ膝をつくことしかできなかったのです。


 閃光が、飛びます。

「……せんせー」

 私の目の前に、スミカ先生がいました。

 常人なら即死しているはずの衝撃にどうやって耐えたのか。私にはわかりかねます。しかして、彼女はいま、私を守るように、ドラゴンの前に立ちふさがっていました。

「避難して」

「いや、です。私も」

「戦えないことは、あなたが一番わかっているでしょ」

「……」

 沈黙は、肯定でした。


 幾多の轟音が響きます。

 ヴィクトリアさんがドラゴンの注意を引き付けます。攻撃をいなし、回避し——いくつかは、食らっていました。

 ギリギリ致命傷にならない程度。しかし——きっと、長くは持たないでしょう。

 なぜなら、ドラゴンには一つの傷すらついていなかったのですから。


 動くことすらできないまま、私は目を見開いていて——。

 やがて、その時がやってきたようでした。

 ヴィクトリアさんが、私の前に来ました。——きっと、その瞬間を狙っていたのでしょう。


 奴はキッと、私を——私達三人を、睨みつけました。

「動けな——」

「ッ、逃げ」


 退避など、間に合いませんでした。


 竜の息吹。全てを溶かし、犯し、滅ぼし尽くすそれを、私は目の当たりにしました。

 超高温。そして、鼻につく臭気。

 ジリジリと肌を灼かれるような痛み、そして息苦しさ。悲鳴すら上げられず、私は腕で顔を覆い——。


 やがて新たな熱が来なくなってから恐る恐る腕を動かし、周囲を見渡しました。

 そこは、地獄でした。


 地面が燃えておりました。

 私の眼前は黒く煤けており、所々がチリチリと引火していて。

 その間に、スミカ先生がいました。

 燃えていました。火だるまになって、焦げ落ちて——しかし、動いていて。

「おい、大丈夫かスミカ——ッ!?」

 叫ぶヴィクトリアさん。どうやら直接当たる直前に避けたようでした。けれど、すぐに顔色を変えます。

 青ざめて、顔を歪ませ……嘔吐し、倒れ込みます。

「オエッ、うッ、ング……これ、って」

 魔法毒。ソーヤさんが少しだけ触れていたような気がします。

 魔力を出し入れする精神の穴みたいな器官に侵入し、心身に悪影響を及ぼす毒のようなもの。

「……毒竜ポイズンドラゴンね」

 スミカ先生が言いました。火は消えていて、焦げ落ちたはずの腕も元通りになっていて。

 ほとんど無傷のように見えますが——しかし、彼女も顔色はよくありません。

「いくら私でも、流石に苦しいわ……」

 言いながら、スミカさんも倒れ伏しました。


 絶体絶命、という言葉がこれ以上に相応しいところを、私は知りません。

 私はただ荒く息をして、唇を噛み——それでも立ち上がろうとすることしかできませんでした。


 何もできないとは、わかっていました。

 それでも諦められない理由は、もはや自分でもわかりません。

 強いて理由をつけるとするならば。


『——諦めなければ、きっと希望は拓けるんじゃないかな』


 なんの保証もないこの一言が、頭にこびりついて離れなかったから、でしょうか。

 ドラゴンは私を睨みました。私は、すくむ足を、それでも動かし。


「かかって、きなさい」


 立ち上がって、短刀を構え直し——その肩に、優しい温もりが触れました。

「大丈夫。——わたしたちが来たよ」


 振り向くと、四人の少女たち。否、三人の少女と、一人の少年。

「僕達だけじゃ、きっと倒せない。……けど」

 少年は私を見つめ、告げました。


「きみが一緒なら、ドラゴンだって倒せる」


 目を見開く私。彼は私の手を取り、その視線をドラゴンに向けました。

「一緒に、倒そう。ドラゴン」

 その前向きな僅かの希望に、すっと胸が軽くなったような気がして。

「——ええ」

 頷いて、彼の手を強く握り返します。


 いまなら、何でもできそうな気がしました。

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