TRA"TS" / ST"ART" 【スタート】

Sato kisA

【スタート】

 ****


 画面の先で、は高らかに舞った。


 エレキ調の音階に乗せて、踊っていないはずの少女が舞う幻覚に目を奪われた。七分に満たない時間、一本のマイクを片手にそこら中の空気を奪われた。

 少女の声は決して綺麗ではなく、整った顔立ちに似合わないその嗄れたしゃが.れた声が導き、その瞬間だけは見るもの全てが魅せられていた。


 急上昇中の歌手として番組に呼ばれたは、このテレビ出演から『アルトの歌姫』と称されるようになった。







 ***〇


「ただいま……」


 声帯から絞り出したその言葉は、空虚くうきょな室内に四散して再び舞うことは無い。

 鞄からスマートフォンだけを取り出して、無作為に床へ倒す。次いでスーツの袖を肩から落として、ハンガーに掛ける。ワイシャツとズボンを脱いで洗濯機に投げ、簡易の部屋着にも着替える。


 たったこれだけの動作が、酷く、重い。


 電気をつけることもせず、冷蔵庫へ向かった男はを手に取る。万人に愛される飲み物でありつつ、中毒性が高い。現に男も止められないでいる。

 甲高くも湿った音が鳴り響き、アレの開封を告げる。乾いた喉を通り、ミントのような爽快感と鈍器を押し当てられるような重厚感が刺激する。アレ特有のそれはアルコールと呼ばれている。


「しゃーーー!きくぅぅ!!」


 男がアレに手を出したのは、何も『仕事が辛い』という理由だけでは無い。

 

 

 少し昔話をしよう。

 男は高校生になった頃、ある事にのめり込んだ。きっかけは小さなもので、テレビに映る少女だった。アルトの歌姫と称される少女の姿を見て、自分自身も音楽に関わる仕事がしたいと考えるようになっていた。

 そう、音楽にハマったのだ。しかし、その道に進むことは否定される方が多い。

 男もまたその人で、尊敬していた父に猛反対され、当時慕っていたした.っていた顧問の教師からも否定された。何も言い返せなかったし、それに逆らうことで後の関係が悪化することを考えると、怖かった。

 


 あの時は最善に思えたし、今更何を言っても意味が無いことは男自身が一番理解している。しかし、人とは存外、無意味を愛するもので、戻れないとは分かっていても、後悔せずには居られない。


 日々持ち上がり、また下がることの繰り返しで、気が付けば。また、アレに手が伸びている。何の徳にもならないが、ただ何もかもを忘れるか、気分を無理やりに持ち上げる。ましてや、男はそれほど強くない。


「マジか!?ログボかつ無慮ガチャ低ランクしか排出しないようなガチャで神引きキタぁ!!!」


 帰宅してから早くも2時間、ゲームのログボログインボーナスを回しつつ、アレとつまみとはどんどんと消費されていく。並行して徐々に薄れていくを置いてけぼりにして、男は深い夜に響くハイテンションを迎え入れる。



 少々ふらつきながら、皿や箸などをシンクに片付けていると、ちょうど珍妙なアナウンスが響く。どこぞ知らない女性の声で、お風呂が沸いたことを知らせる。そして良くも悪くも、それを聞くと急速に酔いが晴れ、現実に押し戻されるのだ。


「さっさと風呂入って、寝なきゃ……」


 明日も仕事と理解すればするほど、心は辛くなる。

 けれど、身体は抗うこともなく、明日へ進んでいく。これが男にとって毎日の流れであり、アレの力記憶消去も相成って変わらない日々である。


 布団を被り、就寝するまでの音楽を掛ける。曲はもちろんのこと、歌手はアルトの歌姫。小さなスマートフォンから流れるだけで、どこか近くに感じるのは不思議なものだ。


「おやすみ、マイ レデイアルトの歌姫 様



 暫くして、男の呼吸のリズムが変わり始める頃。

 ふわりとカーテンが揺れ、閉じた窓を気にも留めず、の侵入を許した。けれどそれは、穏やかに。

 霜月の下旬にも関わらず、空虚な室内を温たく感じさせる。

 は部屋を見渡すと、その小さな歩幅で、男の枕元へ向かう。そしてスマートフォンの画面をタップし、鳴り続けていた音楽を止め、眉間の皺を険しくさせて魘されるうな.される男の頭を撫でる。まるで、子犬を宥めるように、ただ続いた。

 男が寝返りを打とうとした瞬間、びくりと手を引いたものの、落ち着くとまた撫で始める。その後、再びの寝返りが打たれる時まで、ただ続いた。

 ふと何かを感じたように立ち上がると、それはカーテンをまた揺らして去っていった。

 

「……」


 が居たことさえ、男は知る由も無い。

 去り際、その誰かは手を横に振っていたように思えた。







 **〇〇


 時の流れは早く。中々始まらないと嘆いていた仕事納めを迎え、久しくも虚しいような家族との団欒だんらんを過ごした正月もすぐに去ってしまった。一般的な社会人と同じくして、男もまた帰路に立った。暫く見た覚えのない親戚から『おじさんになったね』と嗤われたり、祖父母から顔も知らないお見合い話を出されたりと、例年には無かったような帰省イベントが起きて、すっかり良い年になったのかと実感した。

 大して喜ばれないと分かっていても、仕方なく財布を叩いてはた.いてお土産を買い、重みに耐えかねた肩が悲鳴じみた痛みをあげながらも。

 無事に帰宅したことを両親と、同期や上司などに連絡した。


 また気の重いに戻ってきた。そう思うと、男は帰宅して早々アレに手が伸びてしまった。何の解決にもならないことは男自身が理解していたが、「今日だけは」と名も姿も知らない誰かに断りを入れ、唯一の窓から夜風に当たる。睦月の風は空しく、虚ろな心に突き刺さる。


「来る年かぁ……」


 ぽつりと落ちたその言葉は、最後まで続かない。いつかは見た月夜の星は雲に隠れ、街の光りだけが続きを待っている。けれど、男にはその意思はない。ふと寒気を感じて、窓を閉めた。


 社会人として、三年目になる年が始まった。




 新年が明ければ、一般企業に就職したからには、避けては通れないものがある。たとえ上司との関係が悪くないと思っていてもそれが真実とは限らないし、別段アレに強くないこともあって、参加に対しては少々迷っていた。そう考えたのか、あるいは違った理由からか、男は同期らと計画を練っていた。

 新年会の日、外せない用事があると一足より上がり、いざ集まろうというもの。所謂、同期会を企画しようというものだ。計画に賛同した小十人ほどがメンバーになり、残りの同期たちも黙秘することに協力してもよいと答えてくれた。


 さて新年会の当日、男たちは先に去り、計画は順調に進んでいく。お店を決めたのが幹事を任された者ではないことが少し怖いと感じるものの、会合は無事に幕を開けた。当初のメンバーのうち、実際に参加したのは五人だけだった。本当にすることは勇気のいるものであり、当日になって怖くなったとしても、悪く言うことはできない。


 「いらっしゃーませー」という元気な声に、何度も肩をびくりと頷いてしまう。各自が複数回のアレを頼んだ頃、順風に見えていた同期会は修羅場に陥ることとなった。




 一人の同期がトイレに立ったのもつかの間、何度目かの元気な声がして、しばらくしてもそいつが席に戻ってこない。不思議に考えていると、寄っているのか大きな足音を立てながら、聞き覚えのある声に耳を奪われた。


「なんじゃ!おまえら!!何しよっと!?」


 それは社内でも指折りで、いやな上司に数えられる部長の声であり、男にとっては直接の上司に当たる人物であった。仕事に対する熱意は人一倍で尊敬の念を持つこともあるが、私生活などは本当にだらしがないことで有名なのだ。たとえば、年頃の娘と妻に夜逃げされたとか。

 加えて、この日の新宴会を開催しようと発言した人物でもあった。


「ワシの誘いを断ったとはぁ、耳にしたが……おまえら!!」


「そんな、滅相もありませんよ!!」


 最も酔いの回ったと思しき、同期の一人が間髪入れずに応対したものの、どうやら演技のようで上司の首に腕を回したことを後悔していた。額にしわができ、そこを冷や汗を流れていく。厨房が近いことや寒い時期の店内暖房のおかげか、ばれてはいないようだが。

 すぐ隣に座っていた同期の中でも親しい男が「あれ、長くはもたないぞ。あいつ酔いがさめそうだし。」と小声で伝えてきたので、仕方なく助け船に出ることにする。


「いやー、お疲れ様です!新年会の会場は居酒屋○○でしたよね!!おいしかったですよね!」


「ああ、最初の方の、あれなんだ。そうそう、ヒレカツだな!!もう最高でよ!!!」


「もう解散して、しばらくじゃないですか!?二件目とかです!?」


「おうよ!!これが三件目なんだぜ!?」


 事前に仕込んどいてよかった。心の中で安堵しつつも、我先に助かりたい気持ちを捨てて、前に出る。もちろん開催地のお店は職場からある程度離れた場所に決めているとはいえ、こういった場合も想定していた。この計画を順風満帆に成功させるには、どうしてもスパイは欠かせなかった。そこで残りの同期たちの中から、スパイをしてもいいといって、志願してもらったのだ。


「こんな偶然もあるんですね!!」


「おうよ、ここでうちの若い連中が飲んでるって聞いたもんだからよ!!来てやったんだぜ!!!」


 その言葉を耳にして、後ろを振り返った男にあてられたのは失意の目だった。いくらスパイに志願してくれたそいつが失敗をしたとして、この場に居て、かつ計画の手腕を握っていたのは男自身。声を掛けられることも料理を口にすることもなく、静かに座った男を待っているのもまた失意であった。


「おうら、飲まんか!!!」


 賑やかな店内に、ポツリとその空気にも似て冷め切ったテーブルが1つ。そこにいるのは死んだ目をして、アレを進められ拒めない男たちと「がはは!!」と笑う中年の男が一人。

 望まない量のアレを口に流し込みながら、男は歴年を思い出していた。神社で見たそれには、男の年齢に合わせて、厄年という文字が並んでいた気がする。


 結局のところ、男は記憶が完全に無くなるほど、飲まされた。何を考えたのか、あの部長とやらは男が明日仕事が無いことを知ったうえで、一番に寄越していたらしい。それを知ったのは、翌朝にスマートフォンの通知リストで無事だった動機たちの会話を見たときだった。






 **〇〇


 気が付いたら、いつもの天井が見えた。警戒していたはずの頭の痛みも、関節の痛みも全く感じない。昨日どれほど飲んだのか、はっきりとは覚えていないが、同期と楽しく飲んでいた時ですら二日酔いに届くくらいだったはずだ。その後、本当の新年会を終えてきた部長と遭遇してしまったのは悪夢のようだが、真実であり正しく覚えている。ただし、勧められるがままに吞みまくったそれからの記憶、帰宅するまでがどうも思い出せない。


『チリン…… チリン…… ……』


 どこからか鈴の音が聞こえる気がする。これが耳鳴りなのか。そんな考えを浮かばせながら、上体を起こそうとしたとき、男の両目は信じられないものを視界に入れた。


「(なんだ、この黒い束は……)」


 昨日パーティーグッズなんて使ったかなと思いながら、そっと手で浮かせてみようとした。しかし、そこにあると思った境界は無く、何一つも掴めないし、視界の黒い束も消えない。


「(まさか……あの部長。)年の割に、ずいぶんとふさふさの黒髪だとは思っていたけども……」


 それならば、と思いに耽るも。あのふさふさだった部長の髪が実は育毛後なのではないかという考えに至る。そしてそれは奇しくも、起きてから一番、感情の起伏が激しくなって、声を排出した。

 聞きなれない声がした。あたりを見渡してもこの部屋には男以外の存在は無い。

 男にしては高くも感じるし、女性にしては低いような気もした。

 何度も何度も声を出すたびに、違和感は別の正しい情報を形作り、男に真実を告げる。


「風邪でも引いたか?


 昨日って、どうやって帰ってきたんだろう……


 え?これって……!!」


 幸いにも、男にはがあった。ライトノベル脳ともいえるそれは、告げられた真実と近しい現象に与えられた名称を指した。

 鏡を見ようと急いで立ち上がろうとしたとき、表裏一体のように変化してしまった重心に流され、顔から床にスライディングしてしまった。それはもう1つの変化に気が付くきっかけになったものの、確かに感じる痛みがこれが夢ではないことを証明した。



 しばらくして、納戸に仕舞っていた姿見を何とか持ち出してきた男は、全ての真実と対面していた。少なくともパーツとしては男自身であると認識できる、可憐な少女がそこにはいた。

 その少女はで長い黒髪をまとめ上げていて、の下に、俗にと呼ばれる下着あり下着ではない一枚を覗かせていた。

 注目すべきは、誰かが脱がせようとして、中途半端にボタンが外されており、その隙間からキャミソールにただ隠しきれない二つの丘がちらりと覗いていた。

 さらに言えば、。買う暇など、昨日帰ってきた時間も記憶にないのに、あるはずがない。自分の目から入り込む情報がどれも正しいのだとしても、それだけは説明の仕様が無かった。



 その時、男のスマートフォンが着信を知らせた。差出人は、昨日の同期会で一緒だった一人で、趣味が最も近く、よく社内でも隙を見つけては会話を楽しんでいた。


『よう、おはようさん。お前、今日は休みだろ?そろそろ起きてるかなと思って電話したんだが……昨日ちゃんと帰宅できたか?』


「……」


 条件反射でスマートフォンを手に取り、応答ボタンを押した。だがしかし、いや此幸いと言っていいのか、動揺していて声は出なかった。


『青葉?どうした、ってもしかして二日酔いか?』


 普段は同期殿、と呼び合う仲なのに。電話先の同期・遭川は珍しく青葉と下の名前で呼んだ。少し思い返せば、分かった。昨日あの後、酔いつぶれた男を、もとい青葉を誰が介抱していたというのだろうか。


『無理するなよ。』


『じゃあ、これ今スピーカーで聞いてるよな。……手短に言うけど、同期会の開催および新年会の不参加に対する懲罰は何も無かったぜ。やったぜ。』


「……ぁ(あのさ、遭川)」


 伝えたいと思う反面、それをどうやって信じてもらうのか。非科学的でありオカルティズムな現象を自身の身体で受けてしまったことを伝えるべきかで迷いを見せる。人に限らず、一度でも迷いを発露させてしまえば、それを拭うにはそれ双方の覚悟で覆いかぶせるしかない。

 同時に、声色から伝えられる心配に対して、自分が持つ不安のベクトルが同じでないことに罪悪感を持っていることもあった。


『あ、無理に反応しなくていいって。もし何かあれば、RIMUの個チャで伝えてくれればいいからな!』


 それじゃ、仕事に戻らなきゃ。

 その言葉を最後に、一方通行な電話のやり取りは終わった。


「遭川ぁ……どうしたらいいかな……」


 変わらない部屋と、変わりすぎた自分自身。この湾曲した空間の中で、時計だけが正確な時の流れを刻み、もうすぐ午後の一時になろうとしていた。




 *〇〇〇


 体感で約半日、青葉は何をするでもなく、ただ茫然と漫画を読んでいた。漫画アプリでお気に入り登録をしていたものの、読み進めてはいなかった『TS』作品。それの無料開放が広くなっていたことに、少しばかりの運命を感じたからだった。


 主人公は天才の妹に謎の薬を飲まされて、TSして少女になってしまったお兄ちゃん。大学卒業後は引きこもりになり、TSした後は中学生にジョブチェンジするという異色の物語。


 結論を先走るならば、何の情報も得も無かった。そもそも薬を飲まされるというスタートラインが明確にあり、引きこもりと現社会人の立場に違いがありすぎだ。

 青葉の現在置かれている状況とは、まるで違う。しかし、少しばかりの道は見えた気がした。まずはスタートを知らなければならない、この『TS』の理由を知らなければならない。


 これまでの記憶からまとめるなら、スタートといえばのもの、もといシチュエーションがある。1つは違法で合法な薬か、1つは神社や遺跡などの場所に由来するものか。そして、どれもその翌日に変化が訪れる描写が多いため、考えられるのは昨日の帰路だろうか。


 そのためには、彼に話を聞かねばならない。

 覚悟を決めねばならない。


「……遭川に、この姿で会うのかぁ」

「でも情報がほぼ無いままじゃ、何も進まないだろうし」


 善は急げというように、青葉が次の行動を起こすまではこれまでの迷いが噓のように早かった。




 マナーモードで無視していた通知たちに目も当てぬまま、RIMEを起動した。もちろん、探し人は逢川だ。


 しかし、その行動は思わぬ正解を引くことになった。最近の会話チャットの並び、そこに覚えのない宛先と思わぬ透かしが見えたのだ。



 宛先の主は『鈴音』とある。そして、最後の会話ログを見ることの出来る透かしには『その願い、叶えてやろう。』とある。



 有り得ない。が、そうとしか思えない。

 有名な作品の人気キャラだって、言っていたのだから。有り得ないなんて、有り得ない。


 恐る恐ると、指を動かして、そのチャットを開いてみる。どうやらまだ会話できる状態のようだ。


『こんにちは……?』


『やほー』


 恐る恐る、止まった思考から考え出した最も無難で波の立たないメッセージを読んだのか。読んでいないのか。定かでは無いが、既読の表記がつき、返ってきた返事は。

 非常に軽かった。


『あの、これってどういう状況に……』


『あはは、驚いた?それ感謝のお返しなの、贈り物だよ。まだ変化の途中だけど時期納まらふから。』


『変化の途中って……???』


『そりやみ楽しみなよ。変わりみいって話したくれたきら。』


 今度はSF作品の不自然さ、次元の違う世界から応対しているのだろうか、何かしらの影響を受けメッセージは正しく変換されなくなり始めたようだ。


『See you......』


 そのメッセージを最後に。













 全てが、幻だったように消えた。




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