第31話 血よりも濃く

 喉もかれよとばかりにレンは叫んだ。


「取り返しのつかなくなる前に、何とぞ剣をお納めください!」


 今まさにテスレウへ斬りかからんとしていたジャズイールだったが、予想外の人物からの懇願に動きを止めてしまう。

 彼らしくもない戸惑いを見せたのだ。


 その隙にレンの脇を疾風のごとくすり抜ける人影があった。マルコである。

 瞬きよりも早くジャズイールとテスレウの間へ位置取り、次の動きに備えた。

 ようやく状況を飲み込んだらしいジャズイールが声を震わせながら怒り狂う。


「なぜ貴様らがここにいる! 痴れ者どもがあっ!」


 そして再び、上段に構えた剣を振り下ろす。

 やはりテスレウは頑なに振り向かない。しかし今度はマルコがいた。

 剣ではなく鞘でジャズイールの斬撃を受け止め、弾き返したのちに頭を垂れて片膝をつく。

 無防備な格好となった彼をかばうよう、すぐさまレンの声が飛ぶ。


「お疑いにならないでください、殿下。我らに決して二心などございません。その証拠として、マルコがこの場へ持ち込んだのは剣の鞘だけなのです」


 彼女の言葉の通りだった。マルコは鞘を右手でつかんでいたが、あるべきはずの柄はどこにも見えない。

 ジャズイールを害する意思などない、と証明するための苦肉の策だった。

 それでもジャズイールはいまだに怒気を孕んだままだ。


「わからんか。私の許しも得ず、勝手にこの場へ足を踏み入れただけですでに重罪なのだぞ。素っ首を落とされて当然のな」


「それでも、みすみすテスレウ殿を失うのを放ってはおけません。いったい殿下は何をもって忠義となさるおつもりですか」


「くっ」


 一歩も引かないレンに、さすがのジャズイールもわずかに怯む。

 マルコとともに命の瀬戸際にあるのは間違いなかったが、自分でも不思議なほどにレンは平静を保っていた。

 対照的に、死ぬはずだったテスレウは呆然としている。


「レン殿、それにマルコも……なぜ」


「どうかテスレウ殿も拙速な真似をなされませんよう」


 視線を合わせ、レンはしっかりと釘を刺しておく。

 彼の行為はいわば他者の手による自殺とでも呼ぶべきものだ。形は違えど、百年以上もの昔に〈遠見〉のミトが選んだ道と同じでしかない。


 あえてジャズイールの手にかかって死ぬことで、テスレウは永遠の傷になろうとした。ジャズイールの心に深く刻みつけられる、生あるかぎり消えない傷。

 主君の破滅的な拡大方針を止めるためとはいえ、臣下の枠をはるかに超えて情愛の重さを突きつけてくる選択であった。


 だが一人この世に残されてしまうジャズイールは、はたしてヴァレリア共和国の初代統領ルージアと同様に職責を果たしていけるだろうか。

 レンの答えは「否」だ。

 未来を視ることができたルージアはやはり特別な存在である。

 半身のごときテスレウを失ったジャズイールが、彼女ほどに超然と生きていけるとはどうしても思えないのだ。


 レンにとって、ジャズイールは決して心を許してはいけない相手である。それでも彼らが自らの手で絆を断ち切ろうとする光景など見たくはない。

 跪いているマルコの傍らに立ち、ジャズイールとテスレウの顔を交互に眺める。


「お二人は血を分けた実のきょうだいよりも、もっとずっと本物の兄弟ではないですか。兄弟以上の関係ではないですか。それがなぜ、納得いくまで話し合われようとしないのです。なぜ、互いに繋ぎ止めることを諦めてしまわれるのです」


 切々と訴えかけながら、レンはサラとの〈鳥籠〉での日々を思い出していた。

 先代の〈遠見〉であった彼女がもっと長生きできていたら、今頃はどのような関係になっていただろうか。

 とはいえジャズイールとテスレウ、あるいはルージアとミトのようになっていないことだけは断言できる。

 たぶん、それは二人が姉妹そのものの関係だったからだ。天涯孤独の身であったレンとサラはどちらも相手に家族としての在り方を求めていた。


 サラが恋の感情を抱いていたのは、それはフランチェスコ以外にはあり得ないと今でもレンは信じている。サラ自身でさえ認識するのが困難なほどの、陰と陽とが複雑に絡み合った感情だったとしてもだ。

 情愛とは人を狂わせる、強く甘い毒みたいなものなのかもしれない。


 しばらく沈黙の時間が続いた。

 仲立ちとなっているレンはその位置を譲ろうとせず二人に睨みを利かせ続けた。彼女もまた命がけなのだ。


「勝てませんね、殿下」


 先に苦笑いを浮かべたのはテスレウだった。


「おっしゃった通り、レン殿は本当に性質たちが悪いお人だ」


「まったく、とんでもない娘を引き入れてしまったようだな。鼻っ柱が強すぎるのか、それとも神経が鈍すぎるのか。利かん坊で始末に負えぬわ」


 握っていた剣を無造作に寝台へと放り投げ、ジャズイールは両手を上げた。もしかしたら彼の人生で初めての降参だったのかもしれない。

 テスレウとは異なり、苦虫を噛み潰したような表情で続ける。


「願わくば、先代の〈遠見〉に会ってみたかったものだよ。こんな跳ねっ返りの娘でなくな。早逝が惜しまれてならない」


「同感です」と頷いたのは当のレンだった。


「サラはとても素敵な方でした。明るくて、優しくて、太陽みたいで。痩せっぽちで独りよがりで手癖も悪かったわたしなんか、あの人に拾われなければ今頃はどこかで野垂れ死んでいたことでしょう」


「ふん、えらく卑下するではないか。だがまあ、おまえにだって取り柄の一つくらいはあるはずだろう」


 鼻を鳴らしてそう言ったジャズイールだったが、懐から取り出した小さな物をいきなりレンへと投げて寄越した。


「私たちの関係に首を突っ込んできたのはレン、おまえだからな」


 最後まで責任を持て、と告げる。

 両手で包むようにして受け止めたレンは、その品がどこにでもあるような木の櫛だとすぐにわかった。

 どういう背景を持つ櫛なのかはまだ不明だが、あえてそれをレンに渡してきたことの意味は明らかだった。

〈鑑定〉してみせろ、というジャズイールからの要求だ。


「ご要望とあらば」


 簡潔に答え、すぐさまレンは〈鑑定〉に入っていくべく心を研ぎ澄ませる。

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