第29話 長い夜のはじまり
その日の夜のうちに、ジャズイール第六皇子から直々にもたらされた情報はレンとマルコとの間で共有された。
「フランチェスコ様がヴァレリア公、ですか」
「らしいよ。なあんか、似合わないにも程がある呼称だけどね」
与えられている客人向けの私室で、レンは礼儀作法など知ったことかとばかりに素足となってくつろいだ姿勢をとっていた。
けれども心中はそれほど穏やかではない。ジャズイールが再び婚姻について触れてきたのが気がかりだったからだ。
損得勘定の天秤がどちらに傾くのか、難しい問題である。
ジャズイールとしては事情を知るレンを正式な妻として隠れ蓑としつつ、テスレウとの関係をこの先も続けていきたいのだろう。
ニルバドへのさらなる食い込みを図りたいレンからしても悪い話ではない。
だがそうなれば、マルコとの関係はどうなるのだろうか。これまで通りに彼が護衛役でいることを、はたしてあのジャズイールが認めるのだろうか。
新生ヴァレリア公国の話をしながらも、レンはちらりちらりとマルコの顔を盗み見していた。主従関係でありながら妹と兄のようでもある、一言では言い表せない二人の関係を考えながら。
そんなレンの揺れる内心など知る由もなく、マルコがしきりに感心している。
「さすがですね。議会は敵に回さずそのまま存続というあたりが、実にあの方らしいやり口かと」
「姑息?」
「言葉遣いは正確に。周到ってことですよ」
フランチェスコに対する二人の見解が割れたとき、控えめに扉を叩く音がした。
相手が誰なのかを確認するよりも早く、その人物は部屋へと入ってくる。
「レン殿、夜分に失礼します」
姿を見せたのはテスレウであった。
◇
レンとマルコ、そしてテスレウの三人で机を囲む。
三人分のお茶を淹れたのはマルコだった。さすがに手慣れたものだ。おまけに、〈鳥籠〉のときのお茶会とは違ってちゃんと温かい。
「テスレウ殿、大丈夫でしたか」
レンからの言葉に、テスレウは「はて、どういう意味でしょう」と怪訝そうな表情を浮かべる。
まずはお茶へ口をつけ、それからレンが切りだした。
「夜、わたしの部屋へ忍んで来られているのを誰かに見られていたら、ジャズイール殿下に誤解されてしまいますよ」
いきなり核心を突く発言で、テスレウへの揺さぶりをかける。
それでも彼に動じた様子は見られない。
秘められたジャズイールとテスレウの関係をレンが知っている、すでにそう認識して彼はこの部屋を訪れたのだ。
「やはり驚きませんね。さすがはテスレウ殿です」
「なかなかどうして、レン殿も意地が悪い。私の方こそ本当に驚きましたよ。あの殿下が、絶対に外へ漏らしたくない秘密を知っている人物を、ほとんど制限もなく自由にさせているのですから」
ここでテスレウはいきなり頭を下げる。
「なればこそ、私はどうしてもあなたに問うてみたかった。いったいどのようにして、この短期間のうちにあの殿下から信頼を勝ち得たのですか」
間違いなくテスレウは本気で訊ねてきていた。
さすがにレンも返答に困ってしまう。
彼女からしてみれば、ジャズイールとの間に信頼など双方ともになかった。あるのはただ危うい利害関係のみ。
だがそう答えたところで、テスレウは信じようとはしないだろう。むしろ彼の中の小さな疑念を深めてしまう結果を招くかもしれない。
考えを巡らせた末、レンは率直にありのままを述べることを選んだ。ただし彼女が持つ〈鑑定〉の力についてだけは触れずに。
「正直に申し上げて、殿下がわたしなんぞに信頼を置いているのかどうかはわかりかねます。ですのでテスレウ殿、殿下とのやりとりを逐一お話しいたしますので、そこからご判断いただければと」
そう前置きし、彼女は収蔵庫での出来事から語っていった。
占領した地域での凄惨な行為を聞かされ、嘔吐したこと。
感情のままにジャズイールを睨みつけてしまったこと。
ニルバドへやってくる以前に〈遠見〉の力で、ジャズイールとテスレウが接吻している場面を覗き見していたこと。
婚姻の提案については話すかどうか少し迷ったが、これも隠している方がまずいだろうという結論に落ち着いた。
世間向けの偽装狙いであるのだと強調し、さらりと結婚話にも触れておいてからすぐに別の話題へと切り替えていく。
「そういえば今日の呼び出しも危なかったですね。ヴァレリアの現状について最新の報告を教えていただいたのですが、その後の返事を間違えていたらこうしてお茶も飲めずに死んでいるところでした」
「は?」
ここまで口出しを控えていたのであろうマルコが、レンの告白を受けて思わずといった体で声を出す。
「それはいったいどういうことですか、レン様」
「いやあ、そのう」
目を見開いて詰問してくる彼から視線を逸らしながら、日中の顛末を伝えた。
フランチェスコが政権を掌握したヴァレリアへの帰還をちらつかされ、それでもニルバドに残ることを選んだおかげで命拾いしたのだと。
「わたしが飛びついていれば、首だけでヴァレリアに戻すつもりだったとおっしゃっていました。殿下は会話のいたる所に罠を仕掛けておいでなのですよ」
そこに信頼などないぞ、と言外に匂わせる形でレンは締めくくった。
静かに耳を傾けていたテスレウだったが、そっと息を吐く。
「殿下はレン殿を試されたのでしょうね。信頼できる人物であってほしい、そういう願望が透けているように思えてなりません」
「ずっと試されっぱなしでは、気が休まる暇もありませんが」
苦笑いを浮かべてレンが応じる。
「もうしばらく、ご辛抱ください」
テスレウは伏し目がちに言った。
「レン殿の率直さ、誠実さは必ずや殿下のお心にも届くでしょう」
「そう、なのでしょうか……」
レンとしてはテスレウほどに楽観的にはなれない。
ぬるくなったお茶を一口飲んで、今度はテスレウが語る番となった。
「殿下と私は幼少期からずっと共に在りました。私の母が殿下の乳母となり、兄弟同然に育てられたのです」
無意識の動作なのか、彼の長い指が目元の傷に触れている。
「これまでにもいろいろとありましたがね、強い絆で結ばれていると信じてあの方に付いてきました」
ですが、とテスレウは言った。
「ジャズイール殿下はまるで巨大な光だ。追っても追っても、眩しくてその背中さえはっきりとつかめない。誠実であろうとする言葉も光に消えて届かない。私の目に映るのはせいぜいあの方の影くらいのもの。そのような小さき者が、はたして必要とされる存在たり得るのでしょうか」
「何を弱気なことをおっしゃっているのですか。テスレウ殿ほどの補佐役がいなければ、ジャズイール殿下の今日もなかったはずです」
けれども彼女の反論にテスレウは答えない。
「成り行きだったとはいえレン殿がニルバドへおいでくださったこと、今では天運に恵まれたと考えております。殿下の孤独も少しは和らぐのではないでしょうか」
テスレウの表情はひどく穏やかだった。もう思い悩むことなど何もない、見る者にそう感じさせてしまうほどに安らかな顔つきだ。
だからこそ、レンは彼の精神状態を懸念してしまう。
「では、私はこれにて。とても有意義なお話ができたこと、感謝いたします」
そう告げてテスレウが去った後、レンとマルコは互いに目配せし合った。
今の彼は危うい。口に出さずとも、二人の状況認識は一致している。
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