第21話 異邦の地へ

 レンがマルコとともにヴァレリア共和国を離れてすでに七日目となる。

 そのうちの六日間はずっと海の上だ。

 ジャズイール第六皇子が待つターシュカ要塞までは、あと二日ほどの旅程だと正使テスレウから伝えられている。


 甲板にいると吹き渡っていく風が心地よく、今ではすっかりレンのお気に入りとなっていた。考え事をするのにはうってつけの場所だ。

 ついこの間まで船に乗るのはおろか、海を見るのさえ初めてだったというのに。


 人生がどう転がっていくかなんてわからないものだ、とつくづく思う。

 名前を捨て、国だって捨てた。ただ、そのことへの後悔は一切ない。

 レンという今の名前は恩人であるサラからもらったものだし、祖国のヴァレリアだってあちらから彼女に見切りをつけようとした。お互い様だ。


「よし」


 風のせいで暴れ回った髪の毛を手櫛でまとめ直しながら、レンは地下の船室へと向かう。そこを居室としているのはマルコだった。

 さすがに強靭な彼も海へ出たところで体力が尽きたのだろう。ニルバド皇国の船医から治療を受けた後は、ほとんどの時間を眠ったままで過ごしていた。


 船医を含むニルバド側の誰もが「よくこれほどの大きな怪我を負って動けたな」と驚くほどだったが、当のマルコ本人は「食べて寝れば治りますので」と言い切って平然とした態度を崩さなかった。

 実際、船医による定時の診療では明らかな回復傾向にあるそうだ。


 自ら希望して看病にあたっているレンもほっとしたが、それでもまだ重症であるのに変わりはない。

 目覚めていればかすかに聞こえる程度の音で扉を叩き、反応を待つ。


「どうぞ」


 返事があった。どうやら起きていたらしい。

 部屋に入ったレンはいつものように、寝台の脇の椅子へと腰掛けた。


「具合はどう、マルコ」


「体がなまってなまって。そろそろ鍛錬を再開したいなと」


 すでに上半身を起こしており自分で包帯を取り替えているマルコだったが、彼には珍しく冗談で返してきた。冗談のはずだ。


「え、本気じゃないよね」


「何をおっしゃいますか。おれはいつでも本気ですよ」


 そう言って彼は、包帯の巻かれていない右腕で力瘤を作ってみせる。


「信じられない。あなた、そんなに馬鹿だったっけ」


「レン様のためなら馬鹿にもなろうというもの」


 縦に一本、深い皺が刻まれた真剣そのものの表情のせいで、これがマルコの冗談なのかどうかがレンには判別できない。

 思わず「はあ」とため息が出てしまう。


「馬鹿を護衛する馬鹿か。そんな二人がこれからニルバドでやっていけるのかな」


「どうしました。えらく弱気ですね」


 怪我人から逆に心配され、慌てて両手を彼に向けてひらひらと振った。


「まあ、わたしたちのことは別にいいのよ。自分たちで決断したんだし、この先どうなろうとも受け入れる覚悟はしているつもり」


 でもね、とレンは続けた。


「フランチェスコがどうなっちゃうんだろう、ってずっと気がかりでね。言ってみればあの人、ヴァレリア共和国に対して背くような行動をとったわけじゃない? わたしたちを逃がすためにさ」


「おお……まさかレン様が将軍を心配する日が来ようとは」


「茶化さないでよ。本気なんだってば」


 そうは言ったものの自分でも驚いている。

 レンにとって、将軍フランチェスコ・ディ・ルーカの身を案じるなど逆立ちしたってあり得ないことであった。


 サラとフランチェスコの最後のやりとりを思い出す。

 レンのことを託すように「おねがい、この子を」と声を振り絞ったサラ、それに対して短く「必ず」と受けたフランチェスコ。

 彼はずっとあの約束通り、レンを守ってくれていたのだ。

〈鳥籠〉からもヴァレリア共和国からも離れて、ようやくそのことに気づかされた。


 遅まきながら感謝の気持ちを伝えようにも、すでにヴァレリアは海の彼方だ。出港した経緯を考えれば二度と戻ることもできないだろう。

 心苦しさにわずかながら口元を歪めてしまったレンだが、マルコは涼しげな顔で「そんなお顔をなさらずに」と諭してくる。


「フランチェスコ様なら心配ご無用です。政庁の連中ごときに、あの方を抑えておくことなど到底できません。暴虐一辺倒だったダルマツィオ・ディ・ルーカを反面教師にして、硬軟織り交ぜたやり方で着々と政府内での地歩を固めていましたし、そう遠くないうちに政権を奪取するんじゃないでしょうか」


「うい?」


 レンの口から間抜けな声が出た。


 想像していたよりも、フランチェスコの「大それた夢」ははっきりとした輪郭を持って具現化しつつあったらしい。やり手という他ない。

 ただ権力の座への道を「大それた夢」などと形容した彼のことだ、もし今でもサラが存命であったならきっと違った人生を歩んだことだろう。あくまでヴァレリア共和国の剣として。


 遠くを眺めるような格好となった彼女を見て、マルコは苦笑いを浮かべている。


「腹は決めておられましたので、後は時機をうかがうだけです。本当ならレン様が〈遠見〉でいる間に仕掛けたかったんでしょうが、叶いませんでした。そこは将軍としても心残りでしょうね」


 さらに彼は続けた。


「将軍には複数の目的があったんですよ。レン様が無事に生き延びられる道を探すこと、サラ様の埋葬された地を知ること。そしてニルバドが侵攻してくるまでの時間を何とかして稼ぎ、周辺諸国も巻き込んで堅固な防衛態勢を整えること」


「一つめと二つめは個人的すぎるけど、三つめだけは将軍っぽいね」


 照れ隠しのように、この場にいないフランチェスコをからかってみる。

 けれどもマルコは「はい」と真剣に頷いた。


「その三番目の部分こそ、将軍が支持を広げている理由でもあります。けれどもなかなか難しくもある。最終的にはジャズイール第六皇子の出方次第ですから。逆に言うと時間さえ稼ぐことができたなら、フランチェスコ様率いるヴァレリアはそう容易く陥落などしませんよ」


 マルコがフランチェスコに対し、並々ならぬ信頼を寄せているのがひしひしと伝わってくる。

 ここでレンは悪戯っぽく笑ってみせた。


「じゃあさ、皇子に謁見したときに『しばらくの間でいいから、ヴァレリアを攻めないで』って、できるだけ可愛くお願いしてみようか」


「ああ、それで聞き入れてくれたらいいですねえ……」


 遠い目をしてマルコがおざなりな相槌を打つ。


「何その反応、わたしはさあ」と不満を口にしながらも、頭の中でレンは別のことを考えていた。


 仮にもし、武力を行使するなり多数派を形成するなりでフランチェスコが政権を奪ったとしたら、はたしてそれが初代統領ルージア・スカリエッティの視たヴァレリア共和国の終焉にあたるのだろうか。


 そうであるならば、これより先にレンが生きていくのは本当の意味での未来だ。ルージアの未来視さえ届かなかった、誰も知らない未知の時間。

 待ち受ける異邦の地ニルバドで、レンの綱渡りのような人生は続く。

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