第3話 鑑定しましょう

 陽は彼方に落ち、夜の闇がやってきていた。

 レンが暮らす居室のすぐ下に、塔で最後の守りを任されている最上位護衛兵のための控えの間がある。


 以前に先代〈遠見〉のサラに頼み、見せてもらったことがあった。必要最低限の物さえ置かれているかどうかといった、殺風景そのものの部屋だ。


 護衛兵となって初めての夜を迎え、マルコはその控えの間で待機している。

 たとえ仮眠をとっていても〈遠見〉の身に何か異変があればすぐに駆けつける手筈になっていた。

 言い換えれば、ほんのわずかな不穏な気配であっても察知できる者こそがその位置を任されているのだ。


 一人きりとなったレンは今、机の上に置かれた蝋燭の明かりだけを頼りに書物と向かい合っていた。

 日中にマルコから手渡された、ニルバド皇国について書かれた本だ。


「途中で邪魔されないよう、慎重にやらないとね」


 そのうちに書物にはきちんと目を通すつもりでいたが、それは今ではない。

 彼女には他の目的があった。


「じゃあさっそく、〈鑑定〉を始めましょうか」


 左手を表紙にそっと添え、目を瞑ったレンは静かに集中していく。

 気がつけば彼女は流れる記憶を眺める場所に佇んでいた。物に宿った記憶、その光景を硝子越しに覗いているようなところに。


 レンには〈遠見〉としての才能などひと欠片もない。どこにでもいる貧しい少女の一人に過ぎなかった。

 だが〈遠見〉としての千里眼の代わりというわけでもないだろうが、サラの死後に不思議な力が目覚めたのだ。


 枠内に収められた絵画のように鑑賞でき、しかし絵ではなく現実の光景のごとく連続して滑らかに動いていく。

 物に宿った過去の記憶を視ることができるこの異能を、彼女は密かに〈鑑定〉と名付けた。


 だからレンは聞かされていないドナートの恋人の存在を知っているし、もちろん会ったことなどないのに顔だってわかる。

 一度だけだが、興味本位でドナートの持ち物をくすねたことがあったからだ。盗んだのは野営の際などに、兵士が裁縫に使う針だった。


 その針は綺麗な刺繍の入った布とともに恋人から贈られた物らしく、そこまで記憶を視たレンは何食わぬ顔ですぐに針を返しておいた。

 さすがにドナートも、使う機会が訪れなければわずかな期間だけの針の紛失には気づかない。


 ドナートの記憶はレンにとって特に興味を惹かれるものではなかった。

 あまりに個人的すぎる思い出であり、そこには無関係な者が紛れ込んでしまったがゆえの居心地の悪さしかない。

 そのため彼の所持品の〈鑑定〉を行なったのは後にも先にもこのときだけだ。

 レンの関心は別にある。


 ニルバド関係の書物の記憶を眺めていると、そこにレンも知っている人物が二人登場した。フランチェスコ・ディ・ルーカ将軍と護衛兵マルコだ。

 初めて見る部屋の中、会話を交わす二人の声が時を超えてレンの耳に届く。


「では、よろしく頼むぞ」


「もちろん異存はありません。〈遠見〉の護衛役、光栄に思います」


 フランチェスコの平時における執務のための部屋であろうか。中心には大きな机が置かれて存在感を放っており、地形図を広げて戦略を練る軍議もここで開いていそうな広さだ。

 おそらく時間はマルコとドナートが入れ替わりとなる数日前といったところだろう、とレンは当たりをつけた。

 やや声を潜めての二人の会話は続く。


「ただ、ドナートほどの技量であれば充分に務まっていたはずでは」


「まあ腕の方は問題なかったさ。けれどもあいつには疑念が芽生えたようでな」


「というと」


 訊ねたマルコに対し、「はあ」と溜め息を吐きながらフランチェスコが答えた。


「レン様が本当に〈遠見〉として適格なのか、と進言してきやがったのさ。もちろん煙に巻いてごまかしはしたがね」


「なるほど。そういう事情でしたか」


「ドナートもそれなりに鋭いやつではあるが、レン様もなあ。ここ最近はできるだけサラ様に似せて振舞おうと努力しているのはわかるんだが、いかんせん元々が油断したら多少気を抜く性格だときている」


 よけいなお世話だ、とこっそりレンは憤慨した。

 しかしそれより重要なのは、フランチェスコのみならずマルコまでもが、レンが偽物の〈遠見〉であると知っていたことだ。

 どうやらマルコという青年は随分と将軍の信頼を得ているらしい。


 思いがけず重要な場面の記憶に出くわしたのだと察し、固唾を飲んで会話の成り行きを見守る。

 そんなレンの視線の先で、マルコはまたも率直な疑問を述べた。


「でも逆に、この配置転換でドナートの疑念が確信に変わるのではないですか」


「そこは承知の上だ」


 ためらうことなくフランチェスコが言い切る。


「おそらくはもう、ヴァレリアにそれほど時間は残されていない。ニルバドは必ず進撃してくる。賭けてもいいぜ。戦神とまで称されているジャズイール皇子がこの国を見逃すはずもないからな」


「恐れながら将軍、おれとではその賭けは成立しませんよ」


 そうだったな、とフランチェスコには珍しく苦笑いを浮かべた。


「だがどうにも、統領を筆頭として政庁の現状認識は甘い。まだニルバドと取引でどうにかなると考えていやがる。取引なんてのは互いに利があってこそだ」


「あちらは支配か、被支配かの二者択一しかありませんから。特にジャズイール皇子にとっては戦争さえも遊戯の域でしかないのでしょう」


「えらいのと同じ時代を生きる羽目になったもんだよ、まったく」


 ひとしきりぼやいていたフランチェスコだったが、その目つきは戦場を駆ける軍人らしく鋭いままだ。


「ま、そういうことだ。重ねて頼むぞマルコ。あの子が自由になるその日まで、ひたすら守ってやってくれ」


「はい。レン様のことはお任せください。何があろうと必ず守り抜きます」


 数刻前と同様、マルコは命がけでレンの護衛を務めると誓っていた。

 ここで唐突にレンの過去視は途切れてしまう。力の限界だった。

 あっという間に周囲の光景は〈鳥籠〉のものへと戻っている。


 ぐったりと机の上に突っ伏し、今にも眠りに落ちてしまいそうな頭の片隅でぼんやりとレンは考えていた。

 フランチェスコが口にした「自由」の意味を。


 彼ならば十全に理解しているはずだった。〈遠見〉の役に選ばれた者は生涯、籠の中の鳥でなければならないのだと。自由などどこにもありはしない。

 当然、偽りの〈遠見〉であるレンもだ。


 そんな彼女が自由になれる日というのはいつか。

 この問いに対する結論はとっくに出ている。死を迎える瞬間だ。


 いつの日かニルバド皇国が進軍してきたそのとき、血塗られた彼らの手によって〈遠見〉などという前時代的な役割は粉々に打ち砕かれるであろう。


 きっとレンも無能な〈遠見〉として散々嘲笑された末、見せしめのために処刑されるに違いない。

 その程度の結末は想像の範疇だし、覚悟もしていた。


 ただ、フランチェスコの口振りが示す「自由」はおそらく異なる。あの気を許してはならない男のことだ、何やら企みの気配がする。

 微睡みながらレンは、せめてそれが死よりもひどいものではありませんように、とだけ祈っていた。

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