遠見のレン
遊佐東吾
第1話 籠の中の鳥は
海の向こうに敵がいる。
強大な敵の名はニルバド皇国。恐るべき速度で版図を拡大し続けているニルバドは、繁栄を謳歌するこのヴァレリア共和国を虎視眈々と狙っている。
「だから何。結局、わたしにはどうすることもできないんだから」
気怠げにそう呟いた少女の視線が、窓の柵越しに外へと向けられた。
いつになく雲の流れが速い。強い風に吹かれたせいで肩にかかっていた彼女の髪が勢いよく後ろへと流されてしまう。
黒に近い髪だが、近くで眺めれば濃い茶色だとわかる。
天に向かってそびえ立つ塔の最上部、円形の狭い空間を囲んでいる石造りの壁には等間隔で窓が設けられ、ぐるりと外部を見渡せるようになっていた。
ヴァレリアにはこれ以上の高さを誇る建造物はない。
おそらく周辺諸国も同様だろう。
ヴァレリア共和国には建国当初から〈遠見〉なる任があり、国の守護神にもなぞらえられているほどの役目である。その代々の〈遠見〉たちが周辺諸国の動向を己の目で探り、逐一報告を上げていた。
仰々しく〈遠見〉などと名乗っているのにもきちんとした理由がある。
常人が遠方を見渡すのとはまったく比較にならないほど遥か先まで、それこそ海さえ超えるほどの距離を見通す者たちが歴代の〈遠見〉であった。
まぎれもなく異能の類だ。
その力を最大限に活かすべく、すべての〈遠見〉たちはヴァレリア共和国で最も高い塔の天辺で任務に当たった。
その生涯を終えるまで。
誰が名づけたか、最上部であるここは〈鳥籠〉と呼ばれている場所だ。
窓枠に腰掛け、退屈そうな欠伸をした少女にとって、〈鳥籠〉なる名称はあまりにもふさわしすぎてむしろ賞賛を送りたいほどだった。
地上から隔絶した天空の檻の中、臀部に伝わってくる石の冷たさをいつもより強く感じながら少女はあともう少し、このままでいようと考えていた。
だが扉を叩く音が聞こえてきたのに続いて、彼女の名を呼ぶ者がある。
「レン様。陽も上り切りましたので、そろそろ将軍がお見えになる頃合いかと」
堅苦しさを感じさせる声は階下からであった。最も近い位置で〈遠見〉を護衛する兵士ドナートの声だ。
ずっと続いてきた螺旋階段の終着点、そこがドナートの持ち場である。
レンが住まう〈鳥籠〉へと繋がる最後の扉を守るのが彼だ。
塔全体で複数の護衛兵士が控えている中、この位置での護衛を託される兵士は軍の中でも相当の腕利きであり、国への忠誠心も折り紙付きなのだと聞かされている。
すぐにレンも「わかりました」と立場にふさわしい声音を作って応じた。
兵士ドナート・ピエリは今日で〈遠見〉護衛の任を解かれる。
ただしそれは彼の落ち度によるものではなく、これからやってくる将軍フランチェスコ・ディ・ルーカの意向だという。
もっともドナート本人も、決して態度にこそ出さなかったが地上での職務に戻れることを喜んでいたはずだ。
聞かされずともそのことをレンは知っている。
「よいしょ、っと」
重い腰を上げたレンが素足のままで歩きだす。
〈鳥籠〉の部屋の中心には人が一人分通れるくらいの穴があり、そこには梯子が掛けられている。
その梯子を伝って下へ降りれば少女レンの居住空間であった。
年季の入った寝台、政庁への報告書を作成するための机、その他生活に必要とされた簡素な品々があるだけで、特筆すべきものは何もない。
ゆっくりと扉を開け、レンは努めて柔らかく言った。
「ドナート、短い間でしたがあなたにはいろいろとお世話になりました」
「過分なお言葉、ありがとうございます」
整った顔立ちの護衛兵ドナートが堅苦しく頭を下げる。
いついかなるときもきちんと帯剣し、緩みを見せず万が一の有事への備えを怠らない。それがドナート・ピエリという兵士だった。
わずか半年足らずの付き合いでしかなかったし、会話も任務の上で必要なものばかり。去りゆく彼への惜別の情などレンには湧きようもない。
代わって派遣されてくる次の護衛兵ともきっと同じような関係しか築けないだろうが、それが〈遠見〉を名乗って生きることを選んだ自分の道だ。
寂しくともまっとうするしかないのだ、とレンは自身に言い聞かせている。
挨拶が終われば会話もなく、無言のまま二人は扉の外に並ぶ。
ちらりと視線を遣ったドナートの左手には金の指輪がはめられており、小さな文字で「永遠の愛」と彫られていた。
彼の口から伝えられることはついぞなかったが、結婚を誓った相手がいるのもレンは知っているのだ。その女性の容姿さえも。
しばらく続いた沈黙を破ったのはドナートの方だった。
「階下から足音が聞こえてきましたね、二人分の」
どうやら将軍たちが来られたようです、と緊張気味にレンへと告げた彼は直立不動の姿勢をとる。
ドナートほど見目麗しく武芸に秀でていても、下級貴族の三男坊という出自では立身出世の道も限られてしまう。
愛する女性との幸せな未来のためには些細な失敗さえ許されない、とでも考えているのだろう。
とはいえいずれニルバド皇国が攻め寄せてきたならば、そんな平時の序列などあっという間に壊れる。彼のような実力者になら栄達の機会が訪れるはずだ。
生きてさえいれば。
そんな醒めた目でドナートを一瞥し、それから彼女も壁に背を預けながら来客の到着を待つことにした。
程なくしてフランチェスコ・ディ・ルーカ将軍が姿を現した。
やけに険のある目つきをした青年を傍らに引き連れて。
「これはレン様直々のお出迎え、まことに恐れ入ります」
開口一番、無精髭の将軍は慇懃な台詞を吐く。
まだ三十代の半ばになったばかりの若さで将軍という地位についている彼だが、元々は傭兵団の一員としてヴァレリア共和国に雇われていた男だ。
彼の父であるダルマツィオ・ディ・ルーカ率いる傭兵団で目覚ましい活躍をし、まともな軍を持っていなかったヴァレリアを支えてきたのは間違いない。
だがその功績もさることながら、老境に差しかかった父ダルマツィオが武力によるヴァレリアの権力奪取を狙った際、敢然と父に反旗を翻したのが大きい。
そのまま一気呵成に父ダルマツィオを討ち取った彼は、共和国政府に請われて軍を創設し将軍となる。
〈父殺し〉の異名とともに、フランチェスコの武勇は近隣諸国にも広まったのだ。
そんなフランチェスコへ向け、レンは作り笑顔で挨拶を返す。
「いえいえ。将軍閣下こそ、わざわざこんなところまでお越しになるなんて」
明らかな嫌味だ。
随分とお暇なようで、と言わなかったのはレンなりのせめてもの礼儀である。
しかしさすがにフランチェスコは平然としていた。
「至極当然でしょう。何せレン様は我らがヴァレリアの輝かしい未来を預かる者でいらっしゃるわけですから」
自ら足を運ぶのが筋ではありませんか、と如才なく切り返してくる。
この返答にレンは軽く苛立った。
なぜなら将軍であるこの男には知られているのだ。
レンには〈遠見〉としての才能など一切なく、〈鳥籠〉で無為な日々を過ごすだけしかできないただの政治的なお飾りなのだと。
結局のところ、どこまでいってもレンは〈遠見〉の名を騙る紛い物でしかない。望もうと望むまいと。
そして、元をたどれば素性のわからないただの孤児であった彼女が〈遠見〉として担ぎ上げられたのは、目の前にいるフランチェスコのせいでもあるのだから。
「レン様。天にも等しい高みにあるこの場所から、何とぞ麗しき祖国をお守りくださいませ。あなたの目こそがヴァレリアの生命線ですのでね」
誠意の欠片もなく、白々しいほどに偽りだらけの美辞麗句はさらに続いた。
「今、この国には不穏な気配が迫ってきております。願わくば〈遠見〉の範であったサラ様のように、あなたにも民たちを照らす光であっていただきたい」
にこやかな表情ではあったが、フランチェスコの目はまったく笑っていない。
暗に「おまえは一生この〈鳥籠〉から出られないのだ」と釘を刺してきているのだろう。念を押されずとも、もはやレンに逃げだす気などない。
塔に詰めている護衛兵たちが敵からの襲撃だけでなくレンの見張りも兼ねている以上、〈鳥籠〉からの脱走が不可能なのは重々承知していた。
ニルバド皇国はいつか必ずヴァレリア共和国を蹂躙するだろう。
なら、レンに自由が訪れるのはきっとそのときだ。
けれども少しだけ、前任の〈遠見〉であったサラの優しい顔を思い浮かべてしまって心が痛む。
ヴァレリア共和国そのものには何の思い入れも持たないレンだが、今は亡きサラが愛した国であるならば「どうでもいい」と切り捨てることへのわずかな抵抗が芽生えてしまうのだ。
「そんなこと、わざわざあなたに説かれるまでもありません」
人知れず小さな葛藤をしていたことを隠すように、語気を強めてこれ以上の不毛なやり取りを拒む。
「ならば結構」とフランチェスコも案外あっさりと切り上げた。
「さて、紹介が後回しになりましたな。レン様の新たな最上位護衛役として本日連れてきましたのは、こちらのマルコという男です」
ようやく将軍は本題に入っていき、傍らへと視線を送った。
眉間に深い一本の縦皺が刻まれ、不機嫌にしかとれない表情をしたマルコが無言のまま軽く頭を下げる。
が、彼の挨拶はそれで終わりだった。
これはまた随分と愛想のないやつが来たなあ、と心の中で嘆息しながらもレンは「今後ともよろしくお願いしますね、マルコ」と微笑みかける。
さすがに〈遠見〉の現職にある者らしく、隙のない対応を見せた。
フランチェスコはといえば満足そうに大きく頷き、マルコの肩に手を置く。
「そちらのドナート・ピエリ同様、腕は確かですのでご安心を。で、ドナート」
「はっ!」
ここまで直立不動の姿勢を崩さず、一切口も開かずにいたドナートがようやく声を発した。
「半年近くに渡るレン様の最上位護衛役、よくぞ務めてくれた」とフランチェスコは部下を労う。
彼のこういう場面は珍しくはない。レンも何度か目にしている。
「はっ! いえ、自身の任務を全うしただけですので」
「まだ内密の話の段階だが、おまえはこれから政庁直属の兵士として任務に就くことになるだろう。平たく言えば出世だよ。実力と家柄とを兼ね備えたおまえを是非に、とあちらから請われてね」
「はっ!」
レンの耳に聞こえてくる音は同じでも、そこに含まれている感情は大きく異なっているのがはっきりとわかる。
どうやらドナートは自身が望む人生を手に入れつつあるらしい。
羨ましく思う気持ちも込めつつ「よかったじゃないですか、おめでとう」とレンもささやかな祝福の言葉を贈る。
そしてフランチェスコ・ディ・ルーカ将軍はマルコと入れ替わりになったドナートを連れ、〈鳥籠〉を去っていった。
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