第70話 愛した憎い男(※sideミリー)
その男が借りたティナレイン王国のタウンハウスにはガミガミと口うるさい妻が先に来ていて屋敷を取り仕切っていた。
「ターニャ!お前って子は…、人がちょっと目を離すとすぐにサボって…!ろくな子じゃないわね!まったく!…一体こんな子のどこが有能だっていうのかしら」
私が少しでも休んでいるのを見つけるとすぐに怒鳴りつけてきては頭や顔を叩いてくる。私は成金男から有能なメイドだと引き抜かれてきた設定だったから、ますます男の妻に目を付けられていた。
(ったく……気の休まる時がないんだから!これじゃ娼館で下働きをしていた時と何も変わらないわ。さっさと金をせしめてここを逃げよう…)
自分の思考がとうに気高き公爵令嬢のものではなくなっていることに、私は気付いていなかった。
そしてこの生活はすぐさま終わりを迎えた。
ある日の昼間、妻がいっちょ前に茶会に出席するからと言って不在にしている間に、男が私を連れて自分の部屋に引きこもった。いかがわしい行為に及ぼうとしていたまさにその時、ふいに妻が屋敷に戻ってきたのだ。だけど久しぶりに巡ってきたチャンスに夢中になっている成金男はその気配に気付かなかった。妻が使用人に偉そうに指示を出している声に、私は男より先に気付いた。
「ち、ちょっと!ねぇ!早く服を着て!!奥さんが戻ってきてるわ!」
「え……ええっ?!ま、まさか……っ!」
二人して慌てて服を着ている最中に、妻が男の部屋のドアを開けた。私はギリギリセーフといったところだったけれど、男はまだシャツのボタンを留めている最中だった。
「な……何をしてるのよあんたたちっ!!」
まぁ、言い逃れできる状況ではない。だけど私は素早くベッドから立ち上がり言った。
「誤解なさらないでくださいませ、奥様。旦那様が先ほど腰が痛いと仰ってましたので、私がマッサージをして差し上げていたところだったのです」
「そっ?!そ、そうだよ!ごごご誤解しないでくれよ」
男の声が無様に裏返っていて怪しさに拍車がかかる。案の定妻は激怒した。
「そんな見え透いた言い訳が通用するとでも思っているの?!この……っ、薄汚い売女め!!…あんたもあんたよ!!浮気者!!」
成金の妻は狂ったように暴れ回り、私も男も体中に痣を作った。すぐにでも出て行けと怒鳴られたが、本当に誤解です、せめて他の働き口が見つかるまで待ってくださいと泣きの演技で縋りつき、どうにかそのまま蹴り出されることは免れた。
(でもこうなった以上、もうここにも長くはいられないわね…。早く金を奪って逃げなくちゃ…)
この様子じゃいつ叩き出されるかも分からない。妻の機嫌次第だ。
私はその日のうちにここを抜け出そうと、真夜中に屋敷を物色した。誰もが寝静まった頃に男の執務室を漁り、見つかった通帳や金になりそうな高価なものをせっせとバッグに詰めると、足音を忍ばせて玄関に向かった。
ところが。
「そこで何をしているの?!」
「っ?!!」
(な……っ!何でこんな時間に起きてるのよ!!)
真っ暗な玄関ホールをコソコソと歩いている私に階段の上から声をかけてきたのは成金の妻だった。どれだけ勘が冴え渡っているのよ。何を考える間もなく、私はドアに飛びつき外へ駆けだした。
「こら!!待ちなさい!!誰か!誰かー!!あの女を捕まえて!!泥棒よ!!」
あっという間に見つかってしまい焦った私は、それでもがむしゃらに外を走った。どうにか……どうにか逃げ切らなくては……!ここさえ切り抜ければ何とでもなるはず……!
エリオット殿下…………っ!!
ところが、追ってきた使用人の男たちに私は呆気なく捕まってしまったのだった。私を騎士団に引き渡すと言う妻に、成金男は黙って従った。
「さっさと歩け!このコソ泥娘が!」
「いたっ!…ちょっと!痛いじゃないの!!」
騎士団員に背中を強く小突かれ、私は後ろを振り返りながら睨みつけた。最悪だわ。せっかくこんなに殿下のそばまでやって来たというのに……よりにもよって、犯罪者として地下牢に拘束されることになるなんて……。
「エリオット殿下に会わせてちょうだい!!大事な話があるのよ!殿下なら私を助けてくださるはずだわ!だって私は殿下の…」
「いいから黙って歩け!!貴様のような下賤な者に謁見の許可など下りるわけがなかろう!」
ついには後頭部の髪を乱暴に掴まれ、力ずくで歩かされる。悔しくて悔しくて、思わず涙が滲む。これから私はどうなるのだろう。ああ、殿下……。こんなにも近くまで来たというのに……会って気持ちを伝えることすらできないというの……?
地下牢を進んでいくと、左右の牢に何人もの囚人の姿が見えはじめた。皆薄汚い格好でボサボサの頭に汚い髭を生やし放題だ。通りすがる私を興味津々といった目でジロジロ見てくる者もいれば、下卑た笑いを浮かべる者もいる。
気持ち悪さに目を背けると、通路を挟んで反対側の牢の中に数人の男の姿があった。随分整った容貌の男が二人いるな、と思った瞬間、そのうちの一人があのダリウス・ディンズモアであることに気付いた。
そして──────
「……っ!!サ……サミュエル……ッ!!」
驚いたことに、もう一人の美男子はあのサミュエルだったのだ。忘れるはずもない。あの野性的で浅黒い褐色の肌。赤みがかった緩やかに波打つ髪。無精髭は伸びて人相も変わっていたけれど、私にはすぐに分かった。
真実の愛を熱く語り合って、私に愛の喜びを教えたくせに、あっさりと私を捨てて自分だけ逃げ出した男……
私を騙して、この地獄に引きずり込んだ男…………!!
「サミュエル!!あ、あんた…………あんたよくも……よくもやってくれたわね……!!」
私は騎士団員の手を振りほどき、サミュエルが投獄されている牢にしがみついた。サミュエルがこちらを向く。目があった瞬間、胸が締め付けられるような切ない痛みが私を貫いた。我知らず涙が零れる。
「よ、よくも……!わっ、私が、…私がどんな目に遭ってきたか、あんたに分かる?!ねぇ!!この数年間、あんたのせいでどれほど苦しんできたか……!よくも……、ひ、ひどいじゃないの!ひどすぎるわ!!全部、ぜんぶ、あんたのせいよぉ……っ!!」
抑えようのない激情に翻弄され、自分でも何を言っているのか分からなくなってくる。サミュエルはただ黙ったまま私を見ている。
ああ、どうして、彼の視線を受け止めるだけでこんなにも体が熱くなるのか。
「全部…………嘘、だったの?!ねぇ!あ、あんなに……あんなに何度も、愛を語り合ったのに!本当に姉に雇われただけ?!あ、あんたは、……あんたは本当に、私への気持ちは微塵もなかったわけ?!」
これはただの恨み言だろうか。私は一体何が言いたいのだろう。何と答えて欲しいのだろうか。
一体何を期待しているのだろう。
「ちゃんと答えなさいよ!!サミュエル!!……ど、どうなのよ!どう思ってるの?!」
もっと恨みつらみをぶつけたいのに、いつか再会したらこの上なくひどい言葉で罵ってやろうと思っていたのに…。
ああ…、私はこうなった今でも、こんな男のことをまだ…………!
自分の中に眠らせていた燃え上がる想いに気づいてしまったその時、ようやくサミュエルが口を開いた。
「お前……、誰だよ。さっきからうるせぇな」
(…………え?)
嘘、でしょう…?
覚えてもいないの……?
久しぶりに聞いたサミュエルの声に、頭が真っ白になった。信じられない。私の人生をすっかり変えてしまった一度きりの大恋愛が、目の前の男にとっては記憶にすら残らないものだったなんて─────
呆然として体中の力が抜けた私は、そのまま騎士団員たちに両腕を抱えられズルズルと引きずられていった。
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