あなたに、ふれたい。

@nazutozu

第1話 4月のとある土曜日のこと。

いつもの帰り道をトボトボ歩いている時、不意に看板が目に入った。古い木の看板には掠れた文字で「 らぎ公園→」と書かれている。前の方はもう日焼けやら傷やらで読めなかった。


看板を見て、それから、矢印の指す方向を見た。山道へ上がる石段はそれなりに整備されていて、今でも誰かがその公園に出入りしていそうだった。俺はもう一度看板を見て、それからスマホを取り出した。


土曜の午後12時38分。それから、もう片方の手に持ったビジネスバッグと、弁当とペットボトルの入ったビニール袋を見た。


家に帰っても誰もいない。一人の部屋で黙々と飯を食うだけだ。なら、たまには公園で食べるのも悪くないかもしれない。今は4月で、花見の時期だ。名所はどこも宴会場と化していて騒がしい。でももし、こんな寂れた公園に桜でもあったら大儲けじゃないだろうか。幸い、天気はいい。花見ができなくても、気分はいいかもしれない。


魔がさす、とはこのことだろう。俺は何となく、その石段を登り始めた。


少し行って、すぐに後悔する。石段のような整備された道はすぐ終わって、あとは砂利と土の道になった。革靴では歩きにくいし、スーツに泥や枯葉が着きそうだ。周りは森に囲まれていて薄暗く、公園に続く道というより、もはやただの林道だった。


しかしここまで来て引き返すのも癪だ。俺はため息を吐いて、その公園を目指す。


ようやく辿り着いたのは公園というより、ただの空き地だった。そこだけ草が低く誰かが刈っている形跡があり、木でできた朽ちそうなベンチが有ったから、かろうじてそこがただの茂みでないだけだ。もしかしてここが? と思うと、こんなところで飯を食ってもな、という気持ちが湧いてきた。残念ながら、桜も無さそうだ。


恐る恐るその空き地へ入り、ベンチへと向かって歩く。ベンチの側には柊の木と、その根元に何か石で作られた物が設置されていた。なるほど、「 らぎ公園」っていうのは、ひいらぎのことかな、と思いながら歩いていると、地面に落ちていた石を踏んで、体のバランスを崩してしまった。


「わ、わ!」


ワンサイズ大きいビジネスシューズでは踏ん張りが利かず、俺はそのまま前のめりに転んでしまった。ビジネスバッグが盛大に柊の木の下に突っ込んで、石でできた何かをガシャンと壊す音が聞こえる。ああ、ああ、と慌てて顔を上げた時に、俺は目を丸くした。


目の前に、裸足の足が見えたのだ。


恐る恐る視線を上に向けると、白い着物が見えた。更に上まで見上げると、真っ白な長い髪の人間が、俺を見下ろしている。


「――ッ!?」


俺は思わず飛び退いた。さっきまでそんな人間、そこには居なかったはずだ。こんな緑にまみれた場所に居たならすぐ気付くだろう。つまり、急に現れたのだ。何かを壊してから。


姿形はまるで幽霊だ。少し背景が透けて見えていたから、明らかに人間ではない。幽霊にしては、足は有るけど。背筋が冷たくなりガタガタ震えて、俺はもうそいつのことを見ないで逃げることにした。


「あっ、待ってください」


そいつが何か言うのが聴こえて耳を塞ぎたくなったが、よろよろと立ち上がって、来た道を小走りに引き返す。


「あの、待ってください、待って、忘れ物――」


忘れ物、と言われて俺はハッと手元を見た。スマホもビジネスバッグも弁当も、全てあの場に落として来てしまった。このままでは家に帰れない。帰ってもスマホも財布もキャッシュカードもクレジットカードも社員証も無い。人生が終わってしまう。


あんな得体の知れない声の主のところに戻りたくはないが、戻らないと生活ができない。俺は立ち止まって葛藤した。その間も「あの、忘れ物です、戻って来てください」とか「何も悪いことはしませんから」と声が聞こえてくる。どうやら、男のようだ。


悪いことはしないと言う奴が、悪いことをしなかったりするだろうか? しかし、忘れ物を教えてくれるのだから悪いものではないかもしれない。


俺は恐る恐る、ゆっくりと、公園に戻った。見ると、さっきの白い人間が、ベンチに腰掛けている。


「あっ、戻って来てくださった……あの、忘れ物ですよ」


彼は長い髪の隙間から微笑んでいる。その顔はホラー映画で見るような恐ろしい顔ではなかったが、半ば透けていて、血の気は無かった。しかし、整った顔立ちと、柔らかい笑顔は幽霊のそれではない気もする。


逃げ腰のままジリジリと彼に近寄る。いつ攻撃されてもいいように身構えていたが、彼はじっと俺を見て微笑んでいるだけだった。


これは大丈夫かもしれない。そう思って、鞄に近寄って荷物を手に取っていると。


「……あなた、私が見えていますよね?」


と問われて、ヒッと息を呑んだ。


「聞こえてますよね?」


これは呪われるやつだ。俺は荷物を抱いて彼と目を合わせないまま逃げようとした。だが足がもつれて、その場にしゃがみ込んでしまう。腰が抜ける、というのはこのことかもしれない。


「あっ、大丈夫です、あの、何もしないですから、安心してください……」


彼は慌てたようにそう言って、穏やかな声で続けた。


「もうずっとここに独りでいて……私のことが見える人も、声が聞こえる人も初めてで……嬉しくて……。あの、本当に何もしませんから、本当に、大丈夫ですから、もしよかったら、……一緒にお話、してもらえませんか……?」


冗談じゃない。


幽霊と話す趣味なんて無い。俺は何とかしてその公園から逃げようとしたけど、「お願いですから」「何もしませんから」「ずっとここで独りだったんです」と泣き出しそうな声で続けている。逆にこの誘いを断ったほうが呪われそうな気もしてきた。俺は散々悩んだ挙句、そいつの顔を改めて見る。


柔らかい垂れ目で、とろんとした顔をしていた。いかにも無害そうだ。声音も穏やかだし、仕草も特に敵意を感じない。白くて長い髪は腰まで届くほどだけど、乱れたりはしておらず、サラリと流れていて不潔感や恐怖感は覚えなかった。


ちょっとだけ、ちょっとだけなら。ちょっとだけ付き合って成仏して、何か祠のようなものをぶっ壊したのを、許してくれるなら。


俺は、恐る恐る、彼の座っているベンチの隣端に荷物を抱いたまま座った。


「ああ、ありがとうございます……!」


彼が本当に嬉しそうに微笑むものだから、俺は彼のことを、本当に悪いやつじゃないかもしれない、と感じ始めていた。

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